第5話──“あの女”の本当の名前

イサクラはその晩、帰宅するなり遺書マニュアルをもう一度、端から端まで読み返した。


特に“第11節”と呼ばれる章に、不可解な規則があった。

文章の冒頭一文字を縦に読むと、“A-N-A-T-A-H-A”という文字列が浮かび上がる。

そこまでは子供でも気づける初歩の遊びだ。だが、それで終わっていたなら、主催者はこんな手の込んだ仕掛けを遺さなかったはずだ。


彼はふと、各章末に繰り返される「意味のない記号列」が、実は“図形”であることに気づく。

ドットで構成されたその並びを写し出すと、それは“音符”のような形をしていた。


──音だ。これは譜面だ。


イサクラはピアノの鍵盤をスマホで呼び出し、打ち込んでみる。

ドレミソ…ソファミ…そして最後に“レ♯”。

あり得ない不協和音が鳴ったその瞬間、彼はぞくりとした。


その音列は、10年前の音楽室から聞こえた“誰にも説明できなかったメロディ”と一致していた。

息子の死の前夜、廊下の奥から確かに聞こえた、あの歪んだ音の記憶が蘇る。


「まさか……」


あのとき、音楽室に誰かがいた?

そして、今夜の女――彼女の笑い方、どこかで聞いたことがあった。


イサクラはスマホの検索画面に“広野遥香”と打ち込む。

名前は知らない。でも、音楽の教師で、10年前に突然学校を辞めた女の話は、当時の新聞にも小さく載った。


出てきたのは、今と同じ目元の女だった。髪の色を変え、名前を変えていたが、確かに同一人物。


「あの女……教師だったんだ」


イサクラの中で、いくつかの線がつながった。

主催者の失踪。マニュアルの暗号。“偽の生徒”の登場。

これは、ただの集会ではない。何かが明らかになる前に、誰かが記憶を、罪を、塗り替えようとしている。


ふと、窓の外に人影が見えた。

玄関の郵便受けに何かが差し込まれる音がする。


急いで出てみると、そこには黒封筒が一通。

封蝋には“火曜会”の紋章。封を切ると、一枚の紙にこう記されていた。


【次の“朗読者”を、あなたが選んでください】


候補者リストは裏面をご覧ください。

なお、選ばなかった者は“朗読される側”になります。


裏には、3つの名前が並んでいた。

そのうちひとつは、自分の名前だった。

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