曇天の下で火は笑う
イングリッシュティーチャー翔
第1話──椅子の上の名前
火曜日だった。たぶん。
曇り空が地面に吸い込まれるような日で、
地下に降りる階段は、ひとつ足を踏み外したら、時間ごと落ちそうだった。
誰かが、また今日も「嘘の遺書」を読むという。
けれど誰も、それを“嘘”とは言わなかった。
地下への入口には鍵などない。
開け放たれた鉄扉の向こう、ひんやりとした空気がぬめりと肌を撫でてくる。
タイルは割れ、壁には人の名前らしきものが削り込まれていた。けれど、どれも途中で掻き消されている。たとえば「ユウ」だとか「ヤ」だとか、「タスケテ」の「ケ」までとか。
階段を下りていくと、音が変わる。
靴底がコンクリートを叩く乾いた音が、途中から、空気の中に溶けて消えていく。
そしてそこが“火曜会”の会場だった。
20脚の椅子が置かれた小さなホール。
天井は低く、配管が頭上を這っている。ライトはひとつ、蛍光灯ではなく蝋燭。炎のゆらぎが、壁に揺れる人の影を歪ませる。
誰も名前を名乗らない。
誰も他人の名前を呼ばない。
ただ一人、「コマチ」と呼ばれる若い女だけが、淡々と司会をこなす。
今日は、彼女の声だけが、空間の骨を鳴らした。
「……二十三通目。今日の“火曜”は……イサクラさん。あなたの番です」
椅子が軋む音。
静かに立ち上がったのは、50代半ばほどの男だった。目元に火傷の痕があり、右手に持った封筒は震えていた。
彼のことを誰も知らない。
けれど、誰もが知っているふうに、沈黙で迎えた。
彼は、咳払い一つして、遺書を開いた。
⸻
《遺書:イサクラ》
拝啓 空が曇った日にだけ現れる君へ
あの朝、テレビはやけに明るい声で笑っていた。
たぶん、誰かが死んだ日だった。
息子が最後に言ったのは「お父さんは、嘘ばっかり」だった。
それを聞いて、私はなぜか笑ってしまった。
ひどい父親だと思う。
でも、君にだけは言っておく。
私が殺したのは、あの子じゃない。
私が殺したのは、「あの子の目に映る私」だった。
……あれが、どこにも行けなくなった私の最後の居場所だった。
嘘でも、本当でも、それが「残る」なら、どうか君の火で焼いてほしい。
ありがとう。さようなら。
イサクラ(これは本名ではありません)
⸻
朗読が終わると、誰も拍手しない。
代わりに、小さな灯が一つ、炎の中でぱちりと音を立てた。
コマチが静かに言った。
「……火は、ひとつ、笑いました」
男は封筒を火鉢に落とした。
灰がふわりと舞い、天井に一度ぶつかってから、床へと落ちた。
沈黙の中、誰かが呟いたような気がした。
──“同じことを、昔、別の火曜にも聞いた”。
イサクラが去った後、彼の椅子には、古びた鉛筆が1本だけ置かれていた。
それは、10年前の校長室で使われていたものと“まったく同じ型”だった。
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