日常が散らかっていく
鳥乃
第1話
カーテンを開けるのでさえも億劫で、頭の中にまで鳴り響く目覚まし時計の音から逃げるように布団の中に潜る。
朝はいつもこう。起きようと目覚ましをセットしても、翌朝は起き上がれなくて体も心もベッドに沈んでいく。それでも起きなければと何とか切り替えて、目覚ましを止めてトイレに向かう。手を洗ってからカーテンを開け、そこで初めて今日が雨なことを知った。溜息を一つこぼして、昨日バイト帰りに買った食パン一枚取り出して焼かずに貪る。洗濯はコインランドリーでやろう。こういう雨の日ほど除湿機を使うのも、その後の水の処理も考えるのも面倒になってしまう。バイトに向かう時に洗剤をあらかた持っていって、コインランドリーで乾燥機まで回した方が良いかもしれない。バイト終わりに向かおう。洗剤なんて本来なら要らないが、コインランドリーの洗剤の匂いは少し苦手だから、面倒だけど洗剤を持って行かなければならない。
今日の予定を頭で整理しながら顔を洗って、服を着替えて、髪を簡単に整える。教科書が入ったバッグを背負って、部屋を出た。
清水悠成は何処にでもいる、ごく普通の大学生だ。ちょっと友人以外の人と話すのが苦手で、ちょっと朝が弱くて、ちょっとズボラな二十二歳。あとは他の人間となんら変わりない。自分が何かしない限り変化がないことは安寧が保たれていることだと思っている、悪く言えばちょっと流されやすい男だった。大学卒業が差し掛かっている今年、いつも通りの日常を過ごしている。
「清水、聞いてくれよ。この前面接にいった会社の人、めっちゃ怖くてさぁ。」
「お前が面接にいった会社、清掃会社だっけ。でもそんなもんだろ。面接官全員怖く見えるし。」
「そんなじゃねぇんだってマジ!」
「てかなんで清掃会社?」
だって俺、掃除好きだしとかなんとか言ってる友人の話を聴きながら廊下を歩く。就活疲れで緩んでいる友人達と何気ない会話をして、単位の為に授業に出て、放課後は真っ直ぐバイト先へ。今日のように一時帰宅してバイト先へ向かうこともある。
コンビニのバイトをするようになって結構長い。煙草の銘柄だけ言われても何番か分かるようになるぐらいにはこのコンビニで働いている。今日もレジをして、棚整理に掃除。今日はトイレ当番なので掃除を済ませたら記入欄に時間と判子を押して、その後の業務をやり過ごす。
バイトが終わり、タイムカードを切った。コンビニから出てまだ止まない雨に、ふぅと息を漏らして傘を広げる。春になったというのに雨のおかげで冬のような寒さだ。夜なのもあるとは思うが、にしたって寒い。心の中で雨に愚痴を吐き、コインランドリーに向かう。清水が住むアパートから少し離れた場所にあるコインランドリー。大学やバイト先のコンビニから程よい距離にあるのでよく利用していた。店内に入って洗濯機に小銭を入れようと財布を見たら、丁度百円がなかった。大学で飲み物を買う時に使い切ってしまったらしい。両替機で千円札を入れて、洗濯機に入れる。リュックから洗濯物を取り出して洗濯機に詰め込んだら、洗剤を入れてスイッチを押した。大きな音と共に揺れる洗濯機。近くのソファに座って、ぐるぐる回る自身の衣服を見つめる。スマホを起動してワイヤレスイヤホンを耳に入れ、好きな曲を流す。ゆっくり出来る最高の時間。
今日も何事もなく、平和な一日が終わりそうだ。
就寝したと思えば、あっという間に朝になる。日々を消化する為に必要な睡眠。今日もまた朝から動いて消化しないといけないのに、ベッドの温もりが恋しいのと朝に弱い体質で清水の体が沈んでいく。今朝も一限から授業があるのだから、起きなければ。起き上がってカーテンを開く。本日は雲の隙間から日がさしている。油断は禁物。テレビを付けてニュースの天気予報を確認。
『今朝の都内は曇り、夜からはまた雨が降りそうです。』
また雨だ。しかも夜の雨。この時期の夜の雨は寒いから勘弁して欲しい。だが季節の変わり目だから仕方ない。今回は許しておいてやる、と清水はテレビに映し出された傘を睨んだ。今日もコインランドリーで洗濯しよう。
学業もこなしてバイトも終わらせて、またコインランドリーで揺れる洗濯機が止まるのを待つ。今日はワイヤレスイヤホンを充電したままアパートに忘れてしまったので、ソファに座って本棚にあった文庫を捲って活字を目で追っている。外の雨と洗濯機の音、店内に流れる音量控えめな流行りの曲をBGMにして時間が過ぎていくのを只管待った。
すると自動ドアが来店した客を招き入れる為に開き、一人の男性客がフラフラとした足取りで入店してきた。スーツを着ているので恐らくサラリーマンだろう。赤い顔に乱れた服装に覚束無い足取り。明日は土曜だからと居酒屋で呑んでいたのか酒の臭いがした。酔っ払って間違えて入店したか、はたまたトイレ目的で入ったか。清水が文庫を眺めつつ男の様子を伺っていると、男はトイレに向かっていった。あれは暫くトイレと仲良ししているだろうなと思ったのも一瞬だけ。すぐ文庫に目を戻した。
少し経って洗濯機が乾燥まで終わらせたことを知らせる音を鳴らし、その音を聞いた清水はソファから立ち上がって文庫を本棚に戻す。洗濯した服を取り出して畳んでいると、トイレから先程のサラリーマンが出てきた。ボーッとこちらを虚ろな目で見てくる男を気にせず、清水はそそくさと畳んだ服をリュックに詰めて外に出て傘立てに預けていた傘を広げる。夜の雨はやっぱり寒い。雨自体嫌いではないが、寒いのは苦手なので夜の雨も苦手になりそうだ。
「おいっ。」
突然声を掛けられた。この時間は人通りが少ない。街灯の数はそれなりにあるが、夜の散歩や飲み会帰りなどで歩く人もあまりいないので声を掛けたとしたら間違いなく清水に向けてということになる。清水は渋々後ろを振り返る。そこにいたのは先程までいたコインランドリーに、トイレ目的で入店したサラリーマン。酔っ払って誰かと間違えているのではないかと思っていたのも束の間、酔っ払いのサラリーマンはこちらにズカズカ歩いてきて、胸ぐらを掴んできた。清水が持っていた傘がコンクリートの地面に落ちる。
「お前、なんだよ。なんなんだよその目はよぉっ。」
胸ぐらを掴んだかと思えば、次に難癖をつけてきた。清水は生まれたときからずっとこの目だ。イチャモンをつけられるほどの不愉快な目はしていない筈。そんな事を考えていれば、男の拳がいきなり顔面に叩きつけられた。その痛みに気が付き、殴られた理解したのは数秒後。理解してからすぐ男の手を無理やり振り払って逃げようとしたが、突然のことで気が動転していたからか路地裏に逃げ込んでしまった。当然男は後ろにいて街頭の光がうっすらと届く場所だからか暗くても男の姿は見えて、ゆっくりゆっくり清水を追いかけてきている。こんな場所に逃げ道はないのに辺りを探し回る清水。すると背中にひんやりとした硬い感触が伝わった。そして冷たい突起物。その突起がドアノブだと分かるとすぐさま回そうとするが手が震えて回すことは出来ない。もしドアノブを回せたとしても、きっとこの扉は開かない。こんな時間に開いている建物はそもそもない。それでも清水は回すことの出来ないそのドアノブに縋りついた。扉が開かないからブツブツ呟いている男の声が近くなってくる。雨と冷や汗で体中が冷えて、清水の呼吸が荒くなってきた。聞こえてくる音は強くなった雨の音と荒く細い呼吸の音、握っているドアノブの僅かな音、男が近付いてくる音。
ドサッ。後ろからそんな音がしてから、聞こえてくる音が減った。振り返ると先程の男か倒れているのが目に入ってくる。そしてもう一人、男の姿が見えた。追いかけてきた男の後ろにいたらしい男の左手には傘、右手には銃らしきものがあり、煙がサプレッサー付きの銃口から出ている。
「あれ、人いたんだ。」
清水の身長は男性の平均身長より少し高い。だが目の前の男はそんな清水よりも高く見える。すらりと縦に伸びた身長、手に握られた銃、自分を追いかけていた筈の倒れている男。
殺した。あの男が、人を殺した。
声すら出せずにいる清水に近付いてくる男は、清水の前まで来ると銃口を向けた。くるくるとした髪、鋭い目と髭が恐怖を掻き立てる。右の目元と口元、左頬に二つ並んであるほくろがある整った顔すら怖い。この男は異質だと清水の脳内が警告を鳴らしている。
「まぁ、殺せば口出しされないし。楽だよねぇ。」
あ、殺される。
空が光って雷が鳴り響いたのと同時に、清水の意識はそこで終わった。
溺れている海から必死に抜け出すように起きた清水。急いでベッドから降りてカーテンを開ける。空はすっかり模様替えをして、春らしい天気が窓の外から伺えた。昨夜のことは夢だったようだ。いつ帰ってきたか覚えていないが、無事アパートに着いたならそれでいい。いつの間にか家に着いているというのは誰にでもあることだ。
「あっ、起きたんだ。」
突然後ろから聞こえた声に、清水の肩が跳ねる。後ろにいたのは夢で見たあの銃を持った男だった。勝手に風呂を借りたらしい男は、これまた勝手に借りたタオルでガシガシ頭を拭いている。
「な、なんでっ…!じゃああの男の人は…!」
「そのことについてなんだけど、アイツ殺したの俺だって警察に言わないでくんない?もし言ったら、今度こそ頭にパァンするかもよ。」
銃の形をした手が清水の額に突きつけられた。清水は恐怖で抜けそうになる腰をなんとか踏ん張ることでその場に立ち続ける事が出来た。本当なら警察に通報した方がいいとは分かっている。この男は人を殺した。しかも住居に不法侵入している。何故このアパートが分かったのか。何故あの男を殺したのか。何故、殺害現場を目撃した清水を殺さなかったのか。殺害現場を見られたら、大抵は口封じとして殺す筈。ドラマや小説の犯人はそうする。そしてこの男は何者なのか。清水の頭で色々なものがぐるぐると回っていた。
「…警察には通報しません。その代わり、幾つか質問に答えてください。」
「うん。いいよ。」
男は銃の形をした手を下げてあっさりと二つ返事で答えた。ただでさえ恐怖で足が震えていて、立つことがやっとだというのに何処かふわふわとした男のせいで清水の気が抜けそうになる。
まず一つ目の質問は何故アパートの場所が分かったのか。それはバッグの中にあった学生証を見たという。学生証の裏面に書いてある住所を調べて、清水をなんとかアパートまで連れてきたとのこと。アパートの鍵はバッグから。それについては感謝を述べた。
二つ目の質問は清水を何故殺さなかったのか。
「あーそれは俺の職業と仕事内容的に殺さなかったの。」
「仕事?」
「あ、今殺し屋だとか思ったでしょ。」
人を殺す職業と仕事内容と言ったらもう殺し屋や反社会勢力ぐらいしかない。まさかこの男もと清水が怪しんでいたらすぐにバレた。男は顔を見れば分かると言って、頭を拭いていたタオルを首にかける。
「そんな野蛮なモンじゃないよ。清掃員。お掃除屋さんだよ。」
清掃員。お掃除屋さん。清水の大学でも時々見かけるあの清掃員。しかし人を殺す清掃員などいる訳がない。聞いた事もない。すると男はローテーブルに置いていた自身の財布から一枚のカードを取り出した。
「はいこれ。俺の社員証。」
社員証には男が務める会社と名前、会社の電話番号まで載っている。男は吉村というらしい。確かにそこには清掃会社と書いてあるし、男も清掃員として記載されていた。
「俺のとこの会社は普通のゴミを掃除する人達と、社会のゴミを掃除をする人達がいて、普通に掃除する人と同じで清掃担当が場所分けされてんの。違うところはゴミを要らないと判断したお偉いさんと社長からの依頼で掃除するところ。」
曰く、殺されたあの男は清掃会社の関係者で掃除道具の販売の契約をしていた。だが所謂ヤクザに手を出して麻薬取引まで行っていたようだ。段々とこちらには粗悪品を流すようになり、捨ててしまおうということに。そして吉村は清水がよく通うコインランドリー付近の掃除担当していたので、依頼を任されたらしい。
「人の気配ならすぐ分かるんだけどなぁ。初めて掃除してるとこ見られちゃった。」
「なら、なんで殺さないんですか…?」
「え、死にたいなら殺すけど。」
吉村の目と声が急に冷たくなったのを感じて、清水の口から小さな悲鳴が漏れる。いよいよ腰が抜けて床に座り込んだ。そんな清水の姿を見て、吉村は先程の冷たかった様子とは打って変わってご機嫌そうに笑う。
「冗談だよ。俺らは基本的依頼されたゴミ以外は片付けないし、依頼されない限り殺さないからさ。」
つまり吉村は人を殺す清掃員で、清水を追いかけてきたあの男を殺した理由は掃除の依頼されたからで、清水を殺さないのは依頼されていないから。自然と三つの質問がなくなって、もう吉村に問いかけるものもなくなった。
「でも警察に言われたら困るから監視させてもらうから暫くここに住むねぇ。」
「えっ、いや警察に通報しませんってさっき言いましたよね!?」
「まぁ見られるようなドジ踏んだ俺が悪いけどさ、初めて会った奴をそんな簡単に信用するような人間じゃないから。念の為。」
自分の命が一番惜しいというのに、わざわざ殺されるようなことはしない。もしこの人と生活する中で突然殺されたら。あの男のように突然後ろから撃たれたら。思い出したのは雨の冷たさと倒れた男、目の前にいるこの男が自分に銃を向けたあの瞬間。カタカタ震え出した清水の目の前に男がしゃがみ込む。
「学生証見たから名前知ってるけど、一応聞くね。名前なんていうの?」
「へっ、え、あ、あの、清水悠成、です。」
「しみずくんね。社員証見たから分かると思うけど、俺、吉村新。暫くの間宜しくね。」
清水の頭を雑に撫でる吉村と、されるがままの清水。そんな脱力しきった清水を、吉村はあははっと愉快そうに笑った。
清水悠成。友人以外の人と話すのが苦手で、ちょっと朝に弱くてちょっとズボラな、他人に流されやすい二十二歳。今日から人殺しをした男と同居する、何処にもいないちょっと変わった大学生。
日常が散らかっていく 鳥乃 @suzumenomeziro
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