また、会える日まで君を待つ

第1話 月の神と誕生

 ──暗い。

 それが、私が最初に覚えた感覚だった。

 

 生まれる前、私はただの「力」だった。名前もなく、形もなく、意思もなかった。

 それでも、その夜のことだけは、今でもはっきりと覚えている。


 深い森の奥、風さえ息をひそめるような静寂の中。一人の年老いた人間が、美しい装束を紅に染めながら血を捧げて立っていた。

 月が雲の隙間からゆっくりと顔を出し、

その男の背を淡く照らしていた。

「月の神よ。我が願いを聞き届け給え──」

 その男の声は震えていた。恐れか、覚悟か、それとも痛みか。

 いや、どれも含んでいた。

 彼の手のひらから滴る血が、綺麗な装飾がされ、供物が置かれた祭壇の石に少しずつ染み込み、大気がざわめいた。


 その瞬間、私の「核」となるものが生まれた。

 冷たい霧のような気配が私の内に流れ込み、月の光が新たな命を織り上げていく。気がつけば、私は「狼」の形を成していた。

 だが、ただの獣ではない。


 人の命を守るために生まれし式神。

 神と人の血の契約によって、縛られし霊獣。


 男──彼の名は安信やすのぶと言った。その澄んだ眼に宿るのは、ただの力への欲望ではない。

 家族を、民を、国を守るという、固く、重い覚悟だった。

「我が願いに応えし月の御使いよ。汝の名は──鵬牙(ほうが)とする」

 私はその名を受け取った。

 名を得たとき、私は初めて「個」となった。

 そして、彼のために生き、彼の命じるままに禍々しき闇に住まう存在と戦う存在となった。

 だがその夜、私の心に残ったのは契約の言葉でも、与えられた名でもなかった。

──ただ、月の光の静けさと、安信の手のひらから流れる血が、供物の置かれた美しい祭壇に染み込む音だけが、耳に残る。

 夜は深く、月光は冷たい。私の中に流れ込んだ「命」はまだ不安定だった。

 肉体という器は持ったが、心はまだ形を持っていなかった。ただ、彼の呼びかけに従い、私は黄金色の目を開いた。

 風の匂い、土の冷たさ、血の鉄の味──

どれも初めて知る世界。私はそれらを受け止めながら、ゆっくりと頭をもたげた。

 彼──安信は、私を見つめていた。

 恐れではない。哀れみでもない。

 今思えば、あの時の目は、私の孤独を共にするように見る目だった。

「……我が命を懸けても、お前を裏切ることはない」

 その言葉は、契約の一部ではなかった。ただ、彼が自分の意思で口にした誓いだった。

 私はわからなかった。なぜ人間は、そこまでして誰かを守ろうとするのか。

 なぜ、儚く短い命で咲き、枯れていく彼らが、ここまで強く祈ることができるのか。

 私は彼の目を声も出さずにじっと見ていた。まるで、何か命令をしてくだされ、とでも言いたげに。

 すると彼は微笑んだ。ほんの少しだけ、寂しそうに。

「お前の本当の主は、私ではないのだ」

 彼は、一息つくと、また言葉を続けた。

「だが、その私の子孫にお前の力が必要となるだろう」

「その時まで、どうか生きて守ってくれ。鵬牙」

 私はまだ黙って彼を見つめていた。彼は言葉の意味を完全に理解することは、当時の私にはできなかった。

 ただ、私にできたのは、彼の紡ぐ言葉をそのまま聞くだけだ。

 しかし、私に命を与えたのは月の神だったが、私に何かを「待つ理由」を与えたのは、この人間だった。


 それからの日々、私は安信と共に戦った。妖しきもの、邪しき術者──冥府から這い出てきては人を喰らうもの。

 だが、私にとってそれは戦いではなかった。

 ただ、「時間を稼ぐこと」だった。

 ──いつか現れる「本当の主」のために。

 幾度も死にかけ、安信の命も尽きかけたが、彼は最後の瞬間まで、私にこう言った。

「……お前は、あの子のために、生き続けろ」

 あの子。

 私は、その言葉をそのまま飲み込んだ。

 まだ見ぬ、名も知らぬ、遠い未来の子孫。

 人間の命は短く、儚い。だがその命が幾度も繋がっていく先に、私は呼ばれる。

 主を待つ──

 それが、私という不完全な存在に与えられた「初めての意味」だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る