君が咲いた季節に恋をした

緊張していた心が、ふっとほどけるような感覚に包まれて、わたしは多幸感に包まれていた。


美術館の静かなカフェの窓際、わたしと葵くんは並んで座った。

柔らかな陽射しがガラス越しに差し込み、テーブルの上にふんわりと温かな光を落としている。

わたしの前には、小さな白い皿にのったチーズケーキがひとつ。

一口食べると、その濃厚な甘さが舌の上でゆっくりと溶けて、心までほんのり温かくなった。

夏目くんの穏やかな笑顔と、そよぐ風に揺れる窓辺の春の花々が、まるで世界そのものを優しく包み込んでいるようだった。

「今日だけは、全部が宝物みたいだな」

わたしはそう思いながら、そっと笑みを浮かべた。

ふと、背後の壁に目をやると、どこかでシャッターのような音がかすかに響いた気がした。

振り返る間もなく、わたしの視界の隅に、カメラを構えた誰かの影が一瞬だけ映ったような気がした。

「……今の、写真撮られた?」

心の中で問いかけるけれど、その人影はすぐに消え去り、わたしはただ不思議な感覚だけを残した。

でもその不意の出来事さえも、今日の思い出のひとつとして、わたしの胸に刻まれていった。

ふとした瞬間、背後から足音が急に響き渡った。

軽快で早足のその足音は、まるで何かから逃げるように走り去っていく。

わたしは思わず振り返りかけたが、その場で止まった。

遠ざかる背中の一瞬だけが、鮮明に脳裏に焼き付く。

茶色がかった髪が陽の光を浴びて煌めき、揺れるその後ろ姿は、どこか見覚えがある気がした。

心のどこかがざわつき、冷たい波紋が胸の奥から広がる。

何か、良くないことが起きる予感がする。

わたしは無意識に小さく息を飲み込み、肩を震わせながらも、その嫌な予感を振り払おうと深呼吸を繰り返した。

けれども、胸のざわめきは簡単には消えなかった。

まるで見えない何かに見張られているような、そんな不安が静かに心を蝕んでいくのだった。


帰り道、駅のホームは夕暮れの余韻に包まれて、静かに人々が行き交っていた。

澪と夏目くんは、改札へ向かう人混みの中で並んで歩いていた。

ふと電車が入ってくる音が響き、二人は並んでホームの端に立ち止まる。

冷たい風がそっと頬を撫でて、わたしの髪を軽く揺らす。

夏目くんがふっと微笑みながら、少しだけ照れたように言った。

「また、行こうね」

その言葉は、まるで春のそよ風のようにわたしの胸に染み渡った。

心臓の鼓動がいつもより早くなるのを感じながら、わたしはその一言を何度も反芻した。

ホームのざわめきや電車の音が遠く感じられ、二人だけの時間がそこに静かに流れているようだった。

わたしの唇から、自然と小さな笑みがこぼれた。

「うん、絶対に」

そう答えたわたしの声は、ほんの少し震えていたけれど、その中には確かな強さが宿っていた。

まるで夜空に浮かぶ星のひとつが、ぽっと輝きを増すように。

胸の奥に灯った小さな希望が、息を吹き返して静かに膨らんでいく。

冷たい風がその声を包み込み、わたしの言葉はふんわりと闇の中へと溶けていった。

その余韻だけが、心の中に温かく残って、未来への不安も少しずつ和らげてくれた。


昼休みの教室は、普段よりも少しざわついていた。

女子たちの笑い声や、どこかの席で交わされる小さな噂話が、わたしの耳にぼんやりと届く。

わたしは机の上に伏せていたけれど、その胸の中は静かに乱れていた。

気づけば、周りの視線が自分に向いているような気がして、息苦しさを感じ始めていた。

そのざわめきから逃れるように、わたしはゆっくりと席を立った。

まるで影のように教室を抜け出し、誰も近づかない廊下の端にある旧館へと足を向ける。

古びた壁の色あせたペンキや、ひんやりとした空気がわたしの心を少しだけ落ち着かせてくれた。

扉の前に立つと、手がほんの少し震えた。

でも、誰にも見つからないこの場所に行けば、静けさが待っている――そう信じて、ゆっくりと扉を開けたその瞬間だった。

「ちょっと、いい?」

わたしが振り返ると、そこには笹木さんと数人の取り巻きが立っていた。

笹木さんの瞳は冷たく、まるで凍りついた湖のように光を失っている。

口元にはわざとらしい、嫌味な笑みが浮かんでいた。

「月岡さんって、美術館とか行くんだ~? 一軍気取り?」

言葉は鋭く、まるで刃物のようにわたしの心を刺す。

「まさか、葵くんとデート? ないよね~ありえないよね~」

乾いた嘲笑が教室の空気を凍りつかせる。

突然、笹木さんがわたしの腕をぐっと掴み、力任せに洗面台のある旧館の狭い廊下へと引っ張った。

冷たい壁に押し付けられ、鼓動は激しく高鳴る。

スマホの画面が照らされ、そこには夏目くんとわたしが美術館のカフェで笑い合う写真が並んでいた。

「……やめて……」

声は震え、喉の奥で詰まってしまい、言葉にならない。

けれど、彼女たちは容赦しなかった。

突然の水音。

バシャッ。

冷たい水を頭から浴びせられ、会社の制服の襟元が一瞬で濡れた。

視界が滲み、涙と混ざって何も見えなくなる。

「うっわ、やば~。ごめんごめん、手滑っちゃった」

嘲笑交じりの軽い声が遠ざかり、残されたわたしは鏡の前で呆然と立っていた。

そこに映る自分の姿は、昨日よりもずっと色を失い、透明になっていくようだった。

それでも、胸の奥に小さく残る葵くんの言葉だけが、まるで灯りのように、かすかに輝きを放っていた。


あの日、洗面台の冷たい水が頭から流れ落ちる瞬間の感覚が、わたしの胸に深く刻まれていた。

葵くんが優しく話しかけてくれるたびに、その日の冷たさがまるで凍りついた氷のように胸の奥でざわつき、わたしの心を締めつけた。

「大丈夫?」

彼の声は柔らかく、わたしの名前を呼ばれるたび温かい気配がほんの少しだけ差し込む気がした。

だけど、笑顔で応えようとしても、どうしても顔の筋肉がうまく動かず、わずかに首を横に振ることしかできなかった。

それは、わたしが抱えた痛みと恐怖がまだ消え去っていなかったから。

「一緒に帰ろう」

葵くんの誘いに、わたしは無意識のうちに一歩後ろへ下がってしまう。

近づきたい気持ちと、怖くて近づけない気持ちの間で、体は揺れていた。

その一歩の距離が、日を追うごとに少しずつ広がり、やがて二人の間には見えない壁が立ちはだかるようになった。

葵くんの手のぬくもり、笑顔、そして言葉が遠ざかるたびに、わたしの心はまた透明な殻に閉じこもっていくのを感じた。

まるで、あの冷たい水が体に染みつき、誰にも触れられたくない痛みとして残り続けているかのように。

教室の喧騒も、友達の楽しそうな声も、すべては遠い世界の出来事のようにぼやけて聞こえた。

わたしはまるでそこにいないかのように、透明な影のように教室の片隅で過ごしていた。

「私には、もう色なんてないのかもしれない」

静かな呟きが、わたしの心の奥底からこぼれ落ちた。

ゆっくりと瞼を閉じ、薄暗い教室の中で、わたしはひとりぼっちの自分を抱きしめるように息を吐いた。


仕事終わりの鐘が心の中で鳴り終わったあと、わたしはそっとアトリエの扉を開けた。

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