君が咲いた季節に恋をした
数年後―—オフィスで目が合った瞬間、風もないのに、ふわりと桜の花びらのような何かが舞った気がした。
一瞬だけ世界が滲んで、空気の粒子がキラキラと光を散らす。
「あの子、誰?」
ざわめく廊下の向こうの人だかりの中心に、まるで舞台のスポットライトを一身に浴びたような存在がいた。
異動してきた葵くんだ。均整の取れた顔立ちに、艶のある漆黒の髪。そしてどこか浮世離れした透明感。
その彼が振り返り、じっと見つめてきた。まるで遠くからでもわたしの輪郭だけを見つけ出したかのようだった。
心臓が跳ねて胸の奥をどくん、と何かが突き上げた。鼓膜に響くほどの音で、全身が震えた。
「月岡華純(つきおか かすみ)でしょ。いま、立場最悪だから関わらない方がいいよ。自分まで巻き込まれるよ?」
声の主は、一ノ瀬 陽(いちのせ はる)。いつも陽だまりみたいな笑顔で一軍女子に囲まれてる、カーストの頂点にいる人。
しかし今のその声音には、乾いた冷たさがあった。視線はまっすぐ、軽蔑を隠しもしない。
「ふぅん……」
葵くんは長い睫毛をふわりと伏せて、どこか思案するように小さく息を吐いた。
たしかに彼の顔は山田大介みたいな完成された美しさだけれど、背丈はわたしより少し低い。わたしが高校でも一、二を争う長身だからだろう。
でも、それ以上に彼の存在そのものが、まるで空気ごと別の次元に変えてしまうような、圧倒的な“オーラ”を放っていた。
転校してきてまだ一週間なのに周囲にはいつも人だかりができて、教室に入れば目線のすべてが彼に向かう。
笑えば、きらきら。立てば、ざわざわ。ほんの一秒、目が合っただけで、女子たちの黄色い悲鳴が跳ね返ってくる。
まさに“校内アイドル”のような存在だ。
そのきらめきの世界の隅っこで、わたしは、静かに影になっている。
長い黒髪が、視界の端で寂しげに揺れた。
わたしは、会社で孤独だ。一学期の初め、コロナに罹って長く欠席したせいで、職場に馴染むタイミングを逃してしまった。
しかも運悪く、笹田さんことカースト女王に目をつけられてしまった。理由は、分からない。分からないから、余計に怖い。
「――っ!」
教室のドアを開いた、その瞬間だった。
ぱふっ、と音を立てて、頭の上に何かが落ちた。白い粉が視界に舞い、黒髪に散った。
「きゃははっ、ごめーん月岡さーん。わざとじゃないよ? ほんっとごめんね〜?」
黒板消し。わざとらしい声。
わたしはただ、うつむいて小さく首を振るしかなかった。
「だ、大丈夫です……ごめんなさい……」
かすれた声しか出なくて、みんなの視線から逃げるように、オフィスの一番後ろの窓際にある席に滑り込んだ。
まるで自分の存在を、空気のように消すためみたいだ。
――そのとき。
「大丈夫? 白石さん……だよね」
その声が、空気を変えた。
「えっ、夏目くん……? なんで、わたしの名前……」
「だって、同じ職場の人じゃん。当たり前だよ」
信じられなかった。誰もわたしの名前なんて、呼ばないのに。
でも、彼は迷いもなくそう言って、心のどこかに光が差し込んできた。
「ありがとう。でも、わたしみたいな子に関わらない方がいいよ。さっきも夏目くんの“カースト”が下がるって……」
ポツリと呟くのが精一杯だった。
「聞いてたよ。けど、あんなの陽が勝手に言ってるだけだから」
夏目くんは、ふっと笑って首を傾げた。
「笹木さんだって、強い人には媚びて、弱い人には冷たくするタイプでしょ。ぼく、そういうの好きじゃない」
言葉は穏やかだけど、そこに嘘はなかった。むしろ芯の強さが透けて見えた。
「それより。頭、真っ白だよ。チョークの粉、ついてる」
「――えっ」
声にならない、小さな音が喉の奥で鳴った。
それは、わたしの世界に、小さな春風が吹いた瞬間だった。
思わず手を頭にやると、指先にふわりと粉が触れた。
髪に混じった白が、何だか自分の存在を否定されるみたいで、恥ずかしくて、悲しくて……俯きかけたときだった。
「動かないで」
葵くんの指先が、わたしの前髪にふわっと触れた。
たったそれだけのことなのに、時間が止まったみたいだった。
教室のざわめきが遠のいて、音が消えて、ただ彼の気配と温度だけが近くにあった。
「よし、取れた。うん、元どおり」
彼は小さく微笑んで、手を引っ込めた。
その指には、かすかに白いチョークの粉が残っている。
「……ありがとう……ございます」
かすれるような声しか出せないのが、もどかしかった。
もっとちゃんと、お礼を言いたいのにな。
でも、葵くんはそんなわたしの不器用さを責めたりしなかった。
「白石さんの髪、すごく綺麗だね。まっすぐで、真っ黒で、光が通る感じ」
「えっ」
「なんか、夜みたい。静かで落ち着く」
それは、たぶんわたしが初めて誰かに褒められた瞬間だった。
からかわれることはあっても、ずっと綺麗なんて言われたことは、なかったから。
鼓動が胸を内側から打ちつける。声が、出ない。目も合わせられない。
「……ちょっと、ズルいよ」
「え?」
わたしがようやく顔を上げたとき、夏目くんは少し困ったように笑っていた。
「そんなふうに、静かに泣きそうな顔するの。なんか、見てられない」
その言葉に、目の奥がつん、と痛んだ。
まるで、忘れかけていた古い傷を指先でなぞられたようだった。
泣くつもりなんてなかったのに。
こみ上げる感情が、喉の奥をぎゅっと締めつける。
目の縁がじんわりと熱を帯び、視界がじわりと滲む。
涙の重さがまぶたに宿り、今にも零れそうになる。
それでも、落としてしまえば何かが崩れてしまいそうで、
必死にまばたきを繰り返し、顔を上げた。
「ほんと、葵くん。変わってるね」
「よく言われる」
彼はくすっと笑った。その笑い方が優しくて、息が詰まりそうになる。
「でもさ、ぼくは、空気とか読まないから」
そう言って、彼はわたしの隣の空席に、あっさり腰を下ろした。
「なっ……」
教室の空気がざわり、と揺れた。
周囲の目線が、鋭く刺さる。
「ダメだよ、そんなことしたらまた変な噂、立てられちゃうよ……!」
「立てればいいじゃん。噂なんて、所詮は他人の暇つぶしだよ」
その目は、まっすぐだった。冗談じゃなく、本気でそう思ってる目だった。
「それに」
ふと漏れた言葉に、自然と耳が傾く。
「それに?」
問い返すと、彼は少し間を置いて、照れくさそうに口元を歪めた。
「白石さんと話してると、なんかさ、呼吸しやすいんだよね」
「え?」
思わず聞き返すと、彼は少しだけ首を傾げて、どこか遠くを見つめながら続けた。
「ほら、今まで周りが騒がしすぎて、ずっと窒息しかけてた気分だったからさ。やっと……深呼吸できた」
その声は、風に紛れそうなほど小さくて。
だけど、その一言は、真っ直ぐに胸の奥に届いた。
ぽつりと零すように放たれた言葉が、まるで春先のやわらかな日差しのように、私の心にふわりと落ちた。
――わたしの存在が、誰かの息継ぎになることなんて、あるんだろうか。
自分でも気づかぬうちに、胸の奥がきゅっとなる。
息をのむように彼を見ると、夏目くんは静かに目を細めて、窓の外を見つめていた。
窓の向こう、淡く光る午後の空の下、まだ咲ききらない桜のつぼみが、そよ風に揺れている。
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