第17話

「葵くん、久しぶり」

 背後から不意にかけられた声に、肩が跳ねた。

「久しぶりですね、杏さん。どうしたんですか?」

 振り向くと、華純の叔母にあたる杏さんが、手土産の紙袋を抱えて立っていた。

「いやー、たまにはお見舞いに来なきゃいけないなって思ったんだよねぇ。華純ちゃんの調子はどう? 何か反応があった?」

 その明るい口調に救われた。

「いえ、まだ……」

 答えて、胸の奥が苦しくなる。

 昏睡状態が続いていることを言葉にするのが怖かった。万が一、このまま永遠に目を覚まさなかったら。そう思うだけで、呼吸が浅くなっていく。

「そう。って、葵くんってかなり絵が上手じゃん! 知らなかったぁ」

 タブレットを覗き込んだ杏さんの声が弾む。

 やはり血が繋がっているからだろうか。声のトーンや話し方が華純とよく似ていて、胸が苦しくなった。彼女の面影が声に重なってしまう。

「こんなのは普通ですよ」

 思わず言葉を濁す。自分のことを褒められるのが、どこか居心地が悪かった。

「そんなことない! かなり上手だとわたしは思ってるよ。賞とか獲ったことある

んじゃないの?」

「まあ、中学生くらいのころに絵で賞を取ったことはありますけど、それ以降は鳴かず飛ばずです。それに……」

 ぼくは言いかけて、視線を落とした。

「それに?」

「両親の方が有名な芸術家なので、それに比べたらぼくなんて大したことがないんですよ。だから、いつまでも自信が持てないままなんです」

 口にしてから、後悔した。しかし、華純を好きだという気持ちを偽れなかった。自分に対する劣等感は、ずっと胸の内に巣食っていた。

「そうだったのね。でもね、あまり自分のことを卑下しない方がいいよ。わたしみたいに自信を持ったらいいのにね」

「杏さんは自信を持ちすぎだと思いますけどね」

 思わず苦笑して返すと、杏さんも「そうかもね」と笑った。

 そのとき、久しぶりに病室の空気がふわりと和らいだ気がした。淡く、優しい風が、閉ざされた時間をそっと撫でるようだった。


  ――そして、八月。

 ある日、蝉の声が途切れ、陽が落ちかけた夕方、ついに、奇跡が訪れた。

 ベッドの上で、華純がゆっくりと瞼を開いた。

「……え?」

 思わず、小さく声が漏れた。

 夢を見ているのかと思った。現実が追いつかないほど、信じられない光景だった。

 瞳がゆっくりと動き、焦点が合う。

 ほんの一瞬の沈黙の後、彼女はふと、口を開いた。

「来年、富士見台でニッコウキスゲが咲くんだって」

 風にそよぐような、か細い声だった。

 現実の空気を震わせていた。

 病室の窓の外には、夕陽が差し込んでいて花火が視界の端で揺れている。

 華純の横顔を、ぼくは言葉もなく、ただ見つめることしかできなかった。

「……ギッコウキスゲの花を見れるのは、来年になるのかなぁ」

 ぽつりと呟く華純の声に、寂しさが滲んでいた。

 でも、すぐに彼女は笑った。

「一緒に、富士見台の丘まで見に行こうね」

 華純の笑顔は、たしかに病室に存在していた。

 光に包まれるような笑みを、ぼくはいまでも、脳裏に焼きつけて忘れられずにいる。


 ――それが、元気な華純を見た最後の姿だった。

 翌日、病院から電話があった。

 内容は、容態の急変だった。

 夜明け前、華純は静かに息を引き取ったという。


 ぼくは信じられず、何度も看護師に尋ねた。

 本当に、昨日の夕方まで……彼女は……?


「いえ、彼女は……この数か月間、一度も目を覚ましていません。ずっと眠ったままでした」

 看護師は首を横に振って、けげんな表情をしていた。


 ぼくが見た華純の笑顔も、声も、本当は――この世に存在していなかったのかもしれない。

 しかし、夕暮れの光の中で交わした言葉は、たしかにぼくの胸の奥で生きている。


 幽霊だったのか。ぼくの願望が見せた幻だったのか。

 それは、きっと誰にもわからない。


 ただ、あのときの華純の目は、確かに生きていた。

 だからいまでもぼくは、心のどこかで、こう信じている。

 ――あれは、別れではなかった。


 また、どこかで会えるという、約束だったのだと。


 君が消えるなんて、そんな予感は一欠片もなかった。

 気づけば、君の周囲だけが滲み始めていた。

 笑顔の裏に、何か大きなものを抱えていること。君の言葉の端々に、別れの準備がひそめんでいること。

 ぼくは知らないふりをしていたのかもしれない。

「助けたいんだ」

 それが、葵としてのぼくのすべてだった。

 君の身に起きている意味を、ぼくなりに探して、辿って、ようやくたどり着いたのが、神社の古い祠と、夜にひっそりと行われる儀式のこと。

 その代償が、何であれ、ぼくは君を守りたかった。


 儀式の終わり、まばゆい光がすべてを包んだ。

 風が止み、時間さえ静止したようなあの一瞬。

 ――成功した。

 そう思った。


「え……」

 光の余韻に包まれて、ぼくは彼女を見つけた。

 祠のそば、雪解けの地面にそっと横たわっている。

 まるで眠っているようだった。

 ただ、瞼は閉じたままで、もう二度と、開かれることはなかった。


 地面はまだ冷たく、スニーカーの底からじんわりと寒さが滲んできた。

 木々がざわめく音だけが、やけに現実的だった。

 その静寂の中で、ぼくの心は叫んでいた。

 ねぇ、約束したよね。

 来年、一緒に、花を見に行こうって。

 ニッコウキスゲの花が咲くころにまた会える。

 そんな約束を、ぼくらは信じていた。

 春を越えても、君は目を覚まさなかった。


 誰もいない部屋に、音もなく陽が差し込む。

 真っ白なカーテンが、風にふわりと揺れるたび、まるで君の髪が踊っているように思えてしまう。

 胸がきゅっと縮こまる。


 帰り道、ふと空を見上げると、うっすらと月が浮かんでいた。

 昼間の月は、頼りない。どこかで君がそれを見ている気がして、ぼくは一歩、前に踏み出した。


 絵筆を取れたのは、それからすぐのことだった。

 タブレットの上に広がっていくのは、星と月が寄り添う、夜の風景。

 そしてその片隅に、薄く浮かび上がるシルエット。

 ――あの日、君と並んで写った写真の、幻のような面影。


 ぼくの中で、華純はまだ生きている。

 柔らかく微笑んで、ぼくの描く未来の中に佇んでいる。


 しかし、現実の季節は巡り、ニッコウキスゲの咲く季節が――本当に、やってきた。


 富士見台の斜面一面に、黄金の光が揺れていた。

 花々は、まるで空に向かって手を伸ばすように、誇らしく咲いている。

 君と、ここに来たかった。

 一緒に歩きたかった道を、ぼくは独りで進む。

 リュックの中に入れてきたのは、小さな星月夜の絵。

 そして、華純の姿。

 

 どれほど祈っても、華純と会えなくなってしまった。


 季節は律儀に歩みを進め、あの日、君が語った来年は、約束を果たして現実になった。


 ニッコウキスゲの咲く富士見台。

 金色の花が、風に揺れて命を謳うこの場所で、

 ぼくは一人、君を想い続けている。


 誰もいない山道を歩いて、ときおり足元の影を見てしまう。

 君が横に並んでいる気がして。

 でも振り返っても、そこにはもう何もない。

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