第14話
6
冬の空気がまだ肌を刺す日だった。大学から帰ると、家の中はいつも通り静寂に包まれている。何もかもが元通りになった。しかし、心の中の穴はどうしても埋められなかった。誰もいない部屋に戻るたび、あの温かさが遠くに感じられる。華純がここにいたときのことが、まるで夢のように思えてくる。
そんな日々の中、ある日、思いもよらぬ訪問者が現れた。
ドアをノックする音が響く。ぼくは一瞬、言葉に詰まって何も言えなくなった。訪問者なんて考えてもいなかったし、ましてや華純を知っている人間なんて近所にはぼく以外にいないはずだ。
もう一度、ドアが軽くノックされ、静かな声が聞こえた。
「華純ちゃんのこと、お話しさせていただいてもいいですか?」
ぼくは思わず立ち尽くした。女性の声はしっかりとしているけれど、どこか控えめだ。
胸の奥に鋭い痛みが走る。
華純との距離が、また一歩遠くなった。ぼくは胸の痛みを無視してアパートのドアを開けた。
目の前に立っていたのは華やかで、彼女自身の存在が強く感じられる人物だった。長い髪を軽くまとめ、スマートなコートを羽織っていた。
女性の姿は華純とは対照的に、どこか自信に満ちている。
「はじめまして、月岡杏です。華純ちゃんからお話は聞いています」
ぼくは戸惑ったが、無視はできなかった。
「どうぞ、お入りください」
杏さんはにっこりと微笑んで部屋に足を踏み入れた。彼女の目には、どこか優しさと、しかしどこか決意のようなものが見え隠れしていた。
まるで華純が戻ってきたかのようだった。
「実は、華純ちゃんをもっと知りたくて、こうして話しに来ました。彼女はいま、どこにいるかわかりますか?」
ぼくの胸はまた締めつけらた。華純がいないことを何度も実感してきたけれど、杏さんの言葉が好きという想いをいっそう強くした。
「彼女は、家族と過ごしていると聞いていますが……」
ぼくは気まずく声を発した。杏さんが言うように、華純のことをもっと知りたくなる気持ちもわかる。しかし、もう彼女は自分のもとから離れていったのだ。
「そうですか……。でも、わたしも華純ちゃんをずっと気にかけてきました」
杏さんは沈黙し、またぼくを見つめる。
「あの子がどうしても背負っていたもの、そして、あなたと過ごした時間。そのすべてを話してもらえたら、と思って来たんです」
杏さんの言葉には、重みがあった。それでもぼくは、何も答えられずにただ黙って聞いていた。目の前の女性が、華純にとってどんな存在であったのか、何も知らない自分には、それを理解できない。
しばらくの間、杏さんは言葉を飲み込んだままでいた。
言いたいことがあるのに、どうしてもそれを口に出せないような、そんな沈黙が続いた。
ぼくはその静けさを感じ取るしかなかった。杏さんが言葉を選んでいるのだとわかって、胸の内をのぞきたくなる衝動に駆られる。彼女が何を思い、華純をどう感じているのか、それが知りたくてたまらなかった。
やがて、杏さんはゆっくりと顔を上げ、静かな声で呟いた。
「華純ちゃんは、本当に繊細な子なんです。彼女の心はとても脆いんです。でも、そのことを誰にも見せようとしませんよね」
その言葉に、ぼくは筋肉がガチガチに固まり身体が麻痺しているような感覚に陥った。華純が繊細であることは、ぼくもどこかで感じていたけれど、それがどれほど深刻さを理解していなかった。
「華純ちゃんはね、自分が弱いところを見せたくないんです。だから、誰かに頼れずに、一人で抱え込んでしまうことが多かった。無理に明るく振る舞っていたんだと思います」
杏さんの声が震えていた。彼女の言葉には、痛みと懺悔のような感情が込められていた。目を伏せた杏さんの瞼には、わずかな涙が浮かんでいるのが見えた。
それは、ただの悲しみではない。何かを悔やみ、何かを胸にしまい込んでいるような涙だった。
「わたしがもっと早く気づいてあげればよかった……」
杏さんはそう呟き、手で顔を覆った。しばらくそのままでいたが、やがて顔を上げ、再びぼくを見つめた。彼女の目には、今度はハッキリと涙が溢れていた。
「華純ちゃんは、誰かに頼ることを怖がっていたんです。自分が弱いことを知られたくなかった。でも、そんなに強くなければならない理由なんてなかったのにね」
杏さんの言葉が、ぼくの胸に深く突き刺さった。華純がどれだけ一人で戦ってきたのか、その苦しみを、華純自身の中でどれだけ押し込めてきたのかを考えると、胸が苦しくてたまらなくなった。
「彼女の弱さを見せられないまま、わたしが近くにいてあげられなかったことが、いまでも悔やまれて仕方ないんです」
杏さんは声を震わせて続けた。ただの悔しさだけではなく、後悔と愛情が滲んでいた。
ぼくは言葉を静かに受け止めた。何も言えなかった。華純の中にある秘密、彼女の抱えているものが、ますます重く感じられる。彼女は本当に強く見せようと必死だったのだろう。
しかし、華純は強さを求めていなかった。ただ、弱さを見せられなかったのだろう。杏さんの言葉によって、今さら、痛感させられた。
「あの子は……本当は、誰かに支えてもらいたかったんですね」
ぼくはやっとの思いで口を開いた。言葉を飲み込むのが怖くて、何度も躊躇ったが、それでも言わなければならない気がした。
杏さんはただ静かに頷き、顔を上げた。目に浮かんだ涙が、きらりと光っていた。
「そうだと思います。でも、きっとそれを言えなかったからこそ、わたしは早く気づいてあげたかったんです」
杏さんは深く息をついた。ぼくの心にも重く響いた。
ぼくは黙ってその場に座り込んだ。華純を、もっと理解しなければならない。彼女の苦しみが、これからどう変わるのか、ぼくができることは何あるのだろうか。
しかし、心のどこかで、ぼくが華純にとっての頼りになる存在だという自信が湧いてきていた。それは、たとえどれだけ苦しみを抱えていても、ぼくがその背中を支えていけるのだと感じたからだった。
「ありがとうございます。でも、もう華純は自分の道を歩み始めたんだと思います」
ぼくは声を絞り出した。
「それでも、わたしは彼女のことを忘れません。実は、ここにきたのはもうひとつ理由があって……」
杏さんは間を空けてから、静かに続けた。どこか決意のようなものが浮かんでいた。ぼくはただじっとその言葉を待った。
大人しく座っていた。杏さんは俯いて眉間にしわを寄せて、「うーん」「えっと」など慎重に言葉を選んでいるようだった。しばらく無言でいると、やがて彼女は深呼吸をして、真っすぐぼくを見つめてきた。
「華純ちゃんが、いま、親戚の家にいるんですけれど、正直、あまりよい状況ではないんです」杏さんの言葉は、ぼくの胸に重く響いてきた。
「お医者さんからも、華純ちゃんが実家にいるとトラウマを引き起こして、フラッシュバックを繰り返すと聞いています。入退院を繰り返しているそうです」
ぼくは言葉を失った。華純がそんな状態になっているなんて、想像もしていなかった。
「お医者さんからも信頼できる人のもとにいるべきだと言われています。その中で名前が出てきたのが、葵くんとわたしなんです」
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