第11話

 華純は首を傾げて笑った。照れたように見えたが、どこか遠くを見つめて、深い思いが宿っているようだった。

「……もしかして、わたしがここに来た理由も、それなのかな」

 再び言葉を紡いだ。

「理由?」

「ううん、なんでもない。忘れて」

 華純は視線を外し、夜空を仰いで軽く笑った。

 しばらく黙っていたが、突然ふっと微笑んで話題を変えた。

 ぼくは華純の笑顔に戸惑って、心の中で疑問を抱えていた。

「理由……彼女がここに来た理由。それがぼくと繋がっているような気がする。でも、なぜだろう……」

 夜空の下で、ふたりは静かに過ごした。星がひとつ、またひとつと瞬き、ときおり微かな風がふたりの間を流れた。何か言葉にするのが難しい、この不思議な感覚を どう伝えればいいのか、ぼくは考えた。

「ねぇ、葵。生きる意味って、どう思う?」

 突然、華純が切り出した。

 ぼくはその問いに隠れたいと感じ、しばらく言葉を探した。

 彼は少しの間、夜空を見上げて考えた。

「それはきっと、人それぞれだと思う。誰かを守るためとか、何かを成し遂げ

るためとか、どんな理由があっても、一瞬一瞬を生きることが大切だって思う」

「わたしも、そうかもしれない。星みたいに、いつか消えちゃうけど、いまだけでも輝ければいいんじゃないかな」

 華純は頷いて、笑った。

 彼女の目は、どこか寂しそうであり、同時に深い覚悟を感じさせた。


 ぼくは胸が締め付けられた。華純が言う消えるや輝くが、ただの言葉とは思えなかった。

 彼女が伝えようとしている何か、その奥に隠された意味を、ぼくは感じ取っていた。

「君が言うように、たとえ消えても、その瞬間が輝いていれば、それでいいと思うよ」

 ぼくは静かに答えた。

「ありがとう、葵。あなたに話せてよかった」

 華純は夜空を見上げて、また笑顔を見せた。

「ねえ、私のこと見えてる?」

 彼女はそう何気なく顔をクシャっとして冗談っぽく笑って見せた。不思議な感覚だった。なぜか脳裏に焼き付いて言葉が離れず、頭の中で反芻している。ふたりは、しばらく言葉を交わさずに星空を眺めていた。空の向こうにある、果てしない宇宙を感じて、ゆっくりと夜が深まっていった。


   3


 次の日、華純はいつもと違って、どこか暗い表情だった。

 普段は明るく振る舞っている彼女が、こんな風に黙っているのを見たことがなかった。だから、ぼくは驚きで鼓動が激しくなった。

「どうしたの?」

 ぼくが心配して声をかけると、華純は一瞬目を逸らし、そして静かに答えた。

「眠れなくて……」

 その声は、風に揺れる木の葉の音のように小さかった。

「何か悩みでもあるの?」

 ぼくはさらに踏み込んで尋ねたが、華純は首を振った。

「わからないけど、とにかく悲しくて。こういうときって、どうしたらいいんだろうね」

 彼女の言葉はどこか途切れ途切れで、ぼくは胸が締め付けられた。

 普段の彼女は明るくて、どんなときでも冗談を言って笑わせてくれる存在だった。

 いまの彼女は、まるで夜空にひとつだけ浮かぶ曇りがかった星のよう

に、どこかぼんやりしていた。

「……悩んだときは、星を見るといいよ」

 ぼくは、なんとなく思い出した言葉を口にした。

「星?」

「うん。星を見上げてるとさ、宇宙の大きさに比べて、自分の悩みがちっぽけ

に感じるんだよ。なんていうか、ちょっと楽になるっていうかさ」

 それは、ぼく自身が昔誰かから教えられた言葉だった気がする。

 誰から聞いたのかは思い出せないけれど、不思議と心に残っていた。

「星か……そうだね。たしかに、星を見上げると、なんだか気持ちが落ち着くことがあるかも」

 華純はゆっくりと顔を上げて、ぼくを見つめた。

 その瞳には、何かしらの疑問と共に、ふっとした希望が宿っているように見えた。

 ぼくは微笑んだが、どこか薄っぺらく感じた。

 彼女が抱えている悲しみの深さが、自分の想像を超えている気がしたからだ。

 その夜、ぼくは一人、部屋の片隅にあるキャンバスの前に立っていた。

 なぜだか、絵を描きたくなった。

 特に理由はない。頭の中に具体的なビジョンがあった

わけではない。

 ただ、何かが溢れ出しそうな感覚に押されて、気づけば筆を握っていた。

 パレットの上で、濃紺と群青色の絵の具を混ぜる。

 その色を筆先に取ると、最初の一筆をキャンバスに走らせた。

 最初は意味のない線だった。

 気づけば、それは空の曲線となり、ぽつり、ぽつりと小さな光の点が加わるたびに、夜空が形を成していった。

「……なんなんだろう、これは」

 呟きは自分に向けたものだった。

 月が浮かぶ夜空。渦を巻く風のような空気の動き。地上に広がる黒い街並み。

 何も考えずに動かしていたはずの筆が、まるで自分の意思を超えて勝手に動いているようだった。

 ふと、その風景に見覚えがあるような気がした。

「これ、星月夜みたい」

 ゴッホの名画を思い出す。

 美術の教科書で何度も見たあの名作。彼が病院の窓から見た夜空の景色が、頭の中に鮮やかに蘇る。

 いまの自分が描いたこの絵は、誰の記憶なのだろう。

 ただの偶然だと、思えるだろうか。

「……」

 描き上がった星々は、どれも小さな光の点だ。

 しかし、どの光も消えかかっているように見えた。

 ──なんでだろう。

 ぼくが描きたかったのは夜空なのに、どうしてこんなに儚い星になったのだろう。

「この絵、なんだか懐かしい気がする」

 不意に、背後から声がした。

 振り返ると、華純がそこに立っていた。

「びっくりさせないでくださいよ」

「ごめん。だって、めちゃくちゃ集中してたから驚かせようとしちゃった。この絵、なんか懐かしい感じがする」

 彼女はいたずらっぽく笑ったけれど、すぐに視線をキャンバスに戻した。

 その言葉に、胸が強く、ドクンと音を立てた。

「懐かしい?」

「うん、なんだろう。どこかで見たような気がするけど……思い出せない」

 華純は、首を傾げてじっと絵を見つめた。

 瞳の奥に、微かな光が宿っていた。

 まるで、失った記憶の片隅に残る"何か"が呼び起こしていた。

 ――なにか、思い出しかけている? 

 葵の胸の中で何かがひっそりと動き始めた。

「ぼくも……」

「ん?」

「ぼくも、なんか懐かしい気がするよ」

 その言葉を口にした瞬間、自分の中でずっと沈んでいた”何か”が、ふっと浮かび上がった。

 手がかりのかけらのような感覚。

 ──この夜空を、どこかで見た。

 頭の中で、その記憶の断片が揺れた。

 その夜、星の光が消えるまで、ぼくと華純はふたりで星の絵を眺めていた。


 *


「買い物行ってくるね!」

 華純がそう言い残して、昼過ぎに部屋を出ていった。そのとき、外は冷たい風が吹いていて、冬の寒さがいっそう身に染みていた。雪はまだ降り始めていなかったが、空気はすでに凍りつくような冷たさを帯びていた。

 しかし、夕方になっても、華純は帰ってこなかった。最初はあまり気にしていなかった。しかし、時間が過ぎるにつれて、心の中にある不安が膨らんできた。普段なら、買い物に出てから1時間もすれば戻るはずの彼女が、今日はどうしても帰ってこない。

 何かがおかしい。そんな思いが、胸の奥でうずき始める。

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