第6話

 ――何かが引っかかる。そうだ、さっきの華純さんの言葉が、ぼくの胸にずっと残っているんだ。

 記憶という言葉を聞いた瞬間、ぼくの心臓がひときわ強く脈を打った。

 ――記憶? 華純さんにとって、消えた記憶に取り戻すヒントがあるのかもしれない。

 ぼくの中で、何かが引っかかった。

「どこに行けばいいの?」

 疑問を押し込めるように、ぼくは問いかけた。何かを求めるような気持ちが、無意識にぼくの言葉に表れてしまっていた。

「詳しくはわからないけれど、湖と神社が見えた」

 華純さんの言葉は、ふわっと空気に漂って吐き出された。彼女の目は何か遠くを見ているようにぼんやりして、その目線に何かを感じた。

 ぼくは何かを確信した。神社が、華純さんにとって特別な意味を持っているのは間違いない。

 それが一体どんな場所なのか、どうしてもぼくにはわからなかった。

「じゃあ、神社に行ったら、記憶が戻るかもしれないね」

 ぼくは宥める(なだめる)ように背中をさすって優しく寄り添った。

 華純さんに手を振り払われて、ぼくは唖然とした。

「でも、あの神社には……行きたくない!」

 華純さんが突然、声を荒げて叫んでいる。ぼくはすぐに彼女を抱きしめた。

「どうしたの? 華純さん? 何かが怖いの?」

 彼女の身体が小刻みに震えて、ぼくはそれを少しでも和らげたかった。

 しかし、華純さんは言葉を詰まらせ、過去の記憶が急に蘇ってきたのか澄んだ瞳を見開いた。

「だって、わたしは……」

 華純さんの言葉が途切れる。その後、再び彼女は呼吸が乱れ、過呼吸の症状が現れた。彼女の身体がさらに震えだし、息をするのが辛そうだった。見ていることしかできない自分が、いっそう無力に感じられた。

 窓の外からはポツポツと雨が降り出している。それが余計に虚しさや不安を加速さて、精神的に苦痛を覚える。

「華純!」

 ぼくは叫んで、彼女を思わず抱きしめた。その瞬間、彼女がぼくの腕の中で震えた。天真爛漫な華純が不安そうな表情を浮かべるのは意外だった。彼女が抱えている恐怖が、どれほど大きなものなのかをぼくは全く理解できていなかった。

 しかし、ただひとつだけわかったことがある。それは、華純を守りたいという強い思いだけだった。

「大丈夫、華純。無理しなくていいんだよ」

 ゆっくりと肩を震わせる華純を見守った。少し

でも安心させるために、優しく声をかけ続けた。

「……ありがとう」

 華純さんの声は頼りなくてか細かった。

「野村先輩なら心理学を学んでいるから、きっと華純さんの不安を取り除く方法を見つけてくれますよ。だから、ぼくと一緒に信州天文大学の研究室に行きましょう」

 ぼくの言葉に華純は、ただ黙って頷いた。彼女の目は、どこか遠くを見つめている。

 すべてが不安なのだろう。ぼくだって、記憶を取り戻す方法はわからない。いままでだったらオロオロしていただけかもしれない。ただ、動かなければ、何も変わらない。華純さんの助けになれるように頑張らなきゃ。

 スマホを取り出して迷わず野村先輩に電話をかける。数コールの後、すぐに野村先輩の声が繋がった。

「葵、こんな時間にどうしたんだ?」

 野村先輩の声は低く、眠そうだけれど、それでもどこか冷静さを失っていない。

「実は、一緒に住んでいる女子高生の華純が過呼吸を起こしていて、それが記憶喪失にも関係しているかもしれません」

 胸の中で重く響く。華純をどうやって助けたらいいのだろう。野村先輩なら、何か手がかりをくれるかもしれない。

「なるほど」

 野村先輩の短い返事だったが、それだけで心が軽くなった。彼の一言が、なぜかすごく力強く感じる。

「先輩、今すぐにでも相談できませんか?」

 ぼくは必死に頼み込んだ。野村先輩がどうしても必要だった。

「こんな時間に、か? まあいいけど、夜遅くに出かけて大丈夫なのか?」

 先輩の声には、呆れたようなニュアンスもあったけれど、それでもちゃんと心配してくれているのだろう。

「はい、でも、華純が病院にも行きたがらなくて、記憶喪失の原因もわからないままで……本当にどうすればいいかわからないんです。お願い、いまから研究室に行ってもいいですか?」

 野村先輩は黙った後、静かに呟いた。

「わかった。大学の裏口を開けておくから、そっちから入るとよい。気を付けてな」

「ありがとうございます!」

 野村先輩の言葉を聞いて、肩の力が抜ける。電話を切った後、華純の方を見る。彼女の目はまだ曇っていて、何かを言いたそうだった。しかし、いま、華純が口にする言葉が怖かった。

 ぼくはゆっくりと彼女に近づいて、肩を抱きしめて言い放った。

 外では、雨が激しく窓を打ち付けている。冷たい雨の音が心の中の不安を、

さらに大きくしていた。

「大丈夫だよ。野村先輩に話を聞いてもらったら、きっと何か方法が見つかるよ」

「野村先輩って……?」

 華純が不安げにぼくを見つめて、掠れた声で尋ねてくる。ぼくは、胸が痛むのを感じる。

「うん、前にちょっとだけ会ったことがあるんだ。大学院で心理学を研究してる人だよ」

「そうなんだ。その人って、本当に信頼できる人なの?」

 不安そうにぼくを見つめてきた。華純の瞳が、まるですべてを知りたがっているみたいで、思わず言葉を詰まらせそうになる。

 ぼくは深呼吸してから、安心させるように頷いた。

「野村先輩を信頼しているからこそ、助けをお願いしました」

 ぼくの言葉が届いているのかわからなかった。いまは彼女を信じると決意した。

「うん、そうだねー」

 華純の表情が柔らかくなり、ふっと頷いた。まだ不安の色が残っていて、ぼくもそれをどうにかしてあげたくて、心が焦った。

 それでも、外に出る準備を進めるしかない。何か手がかりを得るために。

 薄暗い空から落ちる冷たい雨が、ぼくの肩にぽつりと当たる。湿気を帯びた風が肌に触れ、どこか切ない気持ちになる。華純はぼくの横にピタリとくっつい

て、傘の下で歩き始めた。華純の肩が、ひどく小さく見えた。

 大学までの道中、ぼくの心の中では様々な想いが駆け巡っていた。

 華純の記憶喪失を解決しなければ、という焦り。そして、野村先輩に頼んだら心が軽くなった。しかし、それでも不安は消えない。

野村先輩に何を言われたら華純が元気を取り戻せるのか、それが一番の問題だった。

 やがて、大学の敷地が見えてきた。街灯がぼんやりと灯る中、ぼくたちは歩き続ける。夜の大学は静まり返っていて、どこか寂しさを感じさせる。そんな空

気が、ぼくの胸を重くしている。


 研究室の前に到着すると、野村先輩が窓越しに肩の横で小さく手を振っていた。なんだか、あの姿が頼りがいがあるように思えて、ぼくはほっとした。

「おーい、待ってたぞ」

 野村先輩は書類を片付けている。その穏やかな笑顔に、ぼくはまた心を落ち着

けた。

 野村先輩の研究室は天井まで届く本棚と、几帳面さを感じる整理されたデスクが印象的だ。

 無機質な白い壁には、心理学のポスターやグラフが貼られている。

 唯一の暖かさを覚えるデスクライトの光が、夜の静けさと研究室の緊張感をほんの少し和らげていた。

「野村先輩、お世話になります」

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