2 眼の記憶と装具の獲得

  2-1


 白杖には半年で慣れた。

 だが、言葉の訓練には最後まで慣れることはできなかった。自分の発語を嫌というほど聞かされ、幾度も舌を噛んで血を吐き捨てた。すると、トレーナーが「床を汚すな!」と、スポーツチャンバラの棒のようなもので腹を突いた。話すことがますます嫌になった。

 僕の発語が相手にどのようなノイズに聞こえているのかを逐一フィードバックされ、その差異を自覚させられた。そして、特に壊滅している単語を、もう少し原型をとどめた別の単語に置き換える一覧表を記憶させられたり、腹話術師の発声法を参考にしながら、意図した発音に近い音を生成できる口腔の広げ方や、子音の使い方などを、サーカスのように訓練し続けた。言いたいことなど、べつに無いというのに。


 R大学からは、ハンディキャップを持つ生徒の受け入れは十分に可能であるとの連絡を受けていた。母親は、僕に独り暮らしをさせたくなさそうだったが、

――見えなければ見えないなりの世界を生きればいいのだ

 とメモに書いて笑ってみせた。いずれ母親も死ぬ。



  2-2


 諸々のリハビリ期間を考慮し、僕には九月入学が適用された。

 この件を大学側と熱心に交渉してくれたのは、僕の1年から3年までの担任教師だ。中嶋かえの先生と僕との関係を邪推し、僕から三階と先生とを奪った担任教師だ。


 担任教師の尽力に謝意を示し、かつ、リハビリの進捗具合を報告するために訪れた第二職員室で、

「o tche shu u wo wo ku a kie shu ma sy uta」

と僕は頭を下げ、戸惑っているに違いない担任教師に、予め用意しておいたメモを渡した。

――お手数をおかけしました。

「あ、ああ。そんなことはいいんだ。それより、リハビリはどうだ?」

 こんなありさまになった僕とサシで話すことに気後れしている担任教師の質問を待たせたまま、このヤニ臭い第二職員室を、あらかじめ記憶していた家具配置のシミュレーション通りに、全く不自由なく移動してソファーへ腰を沈めた。

 前方やや下方から、セロファンの音がした。担任教師がタバコを取り出そうとしているのだ。だが、その音はかすかな舌打ちと共に中断し、両手を擦り合わせる音と匂いがした。大きめの黒眼鏡をかけた僕は全くの無表情を装い、こころもち首をかしげて、担任教師の声に全力で集中していますよ、という姿勢を見せた。

 しかし臭い。タバコと汗と蒸れた足の臭い。視力だけでなく、嗅覚も失ってしまえばよかった。

「jyu n kyo o u de syu」(順調です)

「mhi e na hi no gua tyu lua hi de syu」(見えないのがつらいです)

 別につらくはない。むしろ拡充された自由をさえ感じている。



  2-3

 

 歩行訓練の際、自分でもよく分からずに足をとめることがあった。そういう時、僕は、ボールが転がっていたり、子供がごろごろ転がっていたりしたのを、上手に避けているのだった。

 [盲視]というものがある。と、脳神経外科? で聞いた。fMRIなどをとったりした折だったろうか?

 あまりにも短期間に、様々な検査機器を通過したせいか、僕は時間と身体の観念を失いかけていた。それらの検査機器が発する不可視の光は、僕とは無関係な場所を、ただ通り過ぎていった。やはりたぶん、fMRIのテクニシャンからだったと思う。

 そして、

「まるで、見えているようだね」

 と、冗談めかして言うトレーナーの言葉にはいつも棘があり、棘には相応の理由があった。

 眼科医と脳神経科医の総合的所見によれば、僕の眼球機能及び視神経機能は完全に正常なのだそうだ。つまり「見えてないわけがない」というのだ。

「外界からのデータは完璧に入力され、認知処理も正常に行われています。ただ、その統合情報を認識することを、ナ・ニ・カ・ガ、拒んでいるようなのです」

 だから僕は精神分析科へも通っている。

 口臭がきつい刑事の取調べも書き起こしたのも、高校1年生の時から僕が支配してきた「技師の視点」について書き記したのも、そのセッション中のことだ。


 ――それは絶対的な高みからの超絶的で完全な視界。そこからは時空の全てが一望でき、全ての感情や関係性も視認できる。その中心には自分がいて、それはとてつもなくみっともない。


 分析医からは、安定剤と入眠剤と胃薬と整腸剤を処方され、「まあ、気長にやりましょう」と肩を叩かれたが、「詐病」の疑いは、医学的に拭われていなかったので、リハビリ中の挙動は全て分析医へ報告がいくことになっている。



  2-4


 こんな僕の見えない目にも見えるものがあって、それは眼だ。

 僕の見えない目に現われた眼は、片方が黒で片方が茶色をしていて、それは対馬奈美の眼に似通っていた。

 かつて、僕は、対馬奈美の挫折だけを望んでいる。なぜならばその義眼のような眼は、対馬奈美自身の絶望のみを捕らえるためにあるはずだったからだ。

 僕は対馬奈美に「世界」を見せてやりたかった。屹立する男根をつきつけてやりたかった。対馬奈美の眼は外部からの悪意を遮断するためのフィルターであり、内省の灯火の遮光器だった。そういえば対馬奈美の在所は青森だった。眩いものから眼を守る術が、脈々と受け継がれていたのかもしれない。それは眼を焼かれた僕にとっても他人事ではなかった。

 高校生活の間に、対馬奈美はしたたかさを身につけ、縮こまっていた超自我Xを、さほど大きくは無い身の丈のサイズにまで膨らませることに成功した。眼は目としての機能を取り戻し、奇跡の義眼は単なる近眼に堕した。対馬奈美としての存在価値は完全に消失した。勿体無い、あの義眼。


 その眼に似た眼が、片方が黒で片方が茶色の眼だった。その、じっとりとした、そしてコリコリとした眼は、僕の見えない視覚に暴力的に挿入された。

 痛いほどの異物感。

 脳の襞に突如として現われたアボカドの種か、烏賊の眼球ででもあるかのようなグロテスクな感覚。この感覚は対馬奈美の義眼にはなかった。だが、この体感には近親感があった。筒先の震えと数CCの精液などとは比すべくも無い、脳髄を激しく揺さぶる振動と、何リットルもの涎と失禁を経験して、僕はその眼に屈服する快美に酔いしれるしかなかった。



  2-5

 

 春の入学者と同時にオリエンテーション受けるために、新幹線と在来線とを乗り継いで学を訪れた。

 母の付き添いを断った僕は駅員に先導してもらい、到着駅にも事前に連絡がいっており、待っていたタクシーに乗って大学に到着すると、校門から先は、福祉学科の生徒が付き添ってくれた。

 この福祉学科の生徒は女で、僕が歩きづらそうにすると身体を摺り寄せるようにして、「大丈夫ですか」とたずねてきた。その鬱陶しさに耐えられたのは、大きく柔らかな胸を肘や腕で堪能できたからだ。

 触覚で視覚を構成する。

 僕はリハビリの際、特に触覚と視覚との融合に重点を置いていた。だから触れることは見ることは同じだった。見ることと触れることとが同じだった頃に比べれば、その射程距離はかなり短くなったが、観測精度は比類なく向上した。その観測データと、視覚の記憶とを統合すれば、女の胸を再構成できる。リハビリをがんばった成果だ。

 ところで、この女についてはそれ以上のことはない。女の眼は、犯されるものの目でしかなかったし、犯すべきは目ではなかったのだから。



  2-6


 通常のオリエンテーションの後で、僕に課せられる義務についてのオリエンテーションが行われた。

 義務というのは、在学中、この大学のバリアフリー対応に関するレポートを定期的に提出することだ。その見返りとして、講義の板書を視認および記録するためのカメラや、発語の補助をする携帯端末、その他知覚機能を補完する装具一式の、無償貸与を受ける資格をも得られるという。そして、この無償貸与を希望した場合に付加される条件は、機器のモニターとなることと、必要なメンテナンスを受けるため、大学構内にある福祉学部の研究施設(通称ラボ)へ定期的に通うことの二つだった。

 ラボへ通うのは面倒だが、それらの装具を装備しないのならば、大学の責任として、福祉学科の生徒が交代で、実習を兼ねて生活介助につくことが決定しているという。それはなんとしても避けたかった。

 ――僕の世界に欠損! を見る! ことは!! 僕自身を! 欠損!! と見る! ことであり!! はなはだしい障! 害! 者! 差別! であるっ!!

 と一時貸与された携帯端末に打ち込み、デフォルトの音声(成人男性)で、ボリュームと速度を最大に設定して読み上げさせ、改めて、適正な速度とボリュームとで、『私は是非とも補助機器の無償貸与を希望いたします』と言わせてみた。

 自分の意思を他人の声で伝えるというのは、奇妙だったが、時と場合に応じて声音は使い分けたほうがよいことも多い。だがそれで僕のパーソナリティーの統合性は減じるものだろうか。アニメーションのキャラクターと声優との関係性を少し考えてから、僕はどの声で話せばよいだろうかと思った。

 音声エンジンのイントネーションはまずまずだ。文節間の関連性から、「端」と「橋」と「箸」などの発音の区別がなされ、語尾の「!」や「?」も反映する。感嘆度の調整は、その符号の数で調整する。感情を違和感なく表現するまでには至らないが、それは語彙でカバーすればよいだろう。さらに実用的な機能としては(不正確ながらも)諸外国語への翻訳機能が備わっているという。


『Kung,kung hindi tumpak na pagsasalin function na, ito ay mas mahusay na hindi mo ay hindi magandang ?』

『(もしそれが不正確な翻訳機能なら、無い方が良いのではありませんか?)』


 と、聡明そうな若い女性の声でゆっくりと、タガログ語で伝えてみた。遠くで喉が鳴るような音がした。その地域からの留学生がいたのかもしれない。



  2-7


 ――感情表現は共感を前提するから必ず同情を求めている。その幼稚さを恥と捕らえる幼稚さが、感情に理性の革を縫いつけたと見せかけて、その実、理性は感情の皮を被っているだけだ、ということを忘れようとする。

 世界は感情からできている。

 その感情は、快と不快の二項対比だ。快とは欲望の充足、不快とは欲望の抑圧による。ではこの欲望とは何か。それはどこからくるのか?

 このあたりから、思考は一神教をはなれ、近代科学を机上に放り出す。

 Non est personalitatem ad Deum.

 かつて、僕の欲望は視覚によって充足してきたが、それはもう無い。


 図書館。

 そこには視力に障害を持つ人が図書館のデータを活用できるように翻訳する作業が山のようにあり、そのための設備も充実している。僕のもう一つの義務は、その作業を手伝うことだ。


 そこで遭遇した。

 眼だ。


 薄茶色と濃紺の二つの眼が、全ての感情表現を離れて見えるもの全てを、その眼球の内部に取り込んでいて静かだった。僕はそこに取り込まれることを望んだが、むしろ僕の脳襞にその二色の眼が侵入したのだ。どこから? 機能不全の眼から?

 僕は勃起し射精したので、トイレをたずねた。

「知敷さん。お手洗いまで案内してください」

 付き添いがそう言ったのが聞こえた。

 僕の脳襞が咥え込んでいる、その眼の持ち主が「chijiki」という、僕には決して発音できない苗字だというのは面白かった。僕は彼女の肩に手を置いて、細いが、しっかりとした僧房筋と、丸みを帯びた肩に掌を這わせながら、もう片方の手でベルトをはずした。

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