3本目の釘 さがれよ佐賀禮、まかれや麻賀禮
週明け、〝セミナー〟のテストは新しく、早押しクイズ方式が採用されてた。
「言ったよなあ? ワタリ。計算するんじゃなくてさ、もう式を見たら反射的に答えが出るまでくり返しやんだよ。小学生のドリルなら、それぐらい当然だろ」
例によって惨憺たるテスト結果に、
「う、うん」
「〝うん〟じゃねーよ、今日の問題一度やったトコだろが!」
そうは言われても、『カッコ三点七五引く七分の三カッコ閉じる、割る一と二分の一引く〇点六かける七分の五引く二十一分の十三割る二と六分の一』、という式を口頭で言われて、筆記具なしで回答できる人間がどれだけいるものか。
ちなみに答えは一と二分の
勉強会という形を取ったいじめに過ぎないのだから、航は口答えせず黙っている。無言でも怒られるが、余計なことを言うよりはマシだ。
その代わり、栄太郎と紗蘭のLINEグループという愚痴り先が出来たことは、航にとって大きな救いとなった。状況は変わっていないが、気持ち的に楽だ。
普通、一方的にえんえんと愚痴れば嫌がられるものだが、「それが呪いには重要」という栄太郎の持論により、好き放題言えるのが最高だった。
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※引用:『マスター1095題 一行計算問題集 6年』
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◆
深夜二時、いわゆる草木も眠る丑三つ時――多少のずれはあるが――
唯一の家族である母親は、好都合にも仕事で出張中だ。
まず、呪いの
「をん、
母がいつも録画しているNHKの大河で、呪詛のシーンが出るというので観たことがある。唱えている内容は栄太郎も知っている、〝不動明王生き霊返し〟。
有名な呪いの文句だが、監修をした人物は「何百何千回唱えても、効果が出ない呪文にした」と断りを入れた。
そんなのは建前だ、と栄太郎は思う。
「唱えても効果が出ない」とは、監修者が先に〝呪いを解いた〟状態だ。偽の呪文だと最初に教えられれば、聞くと信じて唱えることはできない。
「らんぐい、
隼馬の生年月日は航からの情報だが、両親の名前と出生地が分かれば、それも法文に盛りこむつもりだった。
呪文とはコンピューターとプログラムのように、その通りに唱えれば、必ず効果が出るというものではない。その本質はとことんまで「言葉」だ。
人と人との会話は国語や文法という点では間違いであっても、当人同士で通じるなら問題はない。そして強い言葉は、正しく文脈を与えられてこそ力を発揮する。
その第一歩が信じること、呪文を自らの血肉とすることだ。
「そもそも
我が
ミネラルウォーターで喉を潤し、続くは
それでもやるのが作法というものである。
「〝この鎚は我が鎚ならず、千早振る
釘を人形にあてがい、金鎚を振りかぶった状態でまた唱えた。
「我らは良かれ、久重隼馬は悪しかれ、おん・しゅちり・きゃらろは・うん・けん・そわか。我らは良かれ、久重隼馬は悪しかれ、おん・しゅちり・きゃらろは・うん・けん・そわか。我らは良かれ、久重隼馬は悪しかれ……」
カン! とまずは足に釘を打つ。
両足の次は両手に、そして頭に釘を打つ。胸に打てば殺してしまう、その代わりだ。呪術的には致命よりも発狂をうながす攻撃となる。
術者である栄太郎と、栄太郎に願をかけた航の魂は、その一部が相手に飛んでいくだろう。魂という言い方が気に食わなければ、生命力だ。
栄太郎の想像では、初めに久重隼馬は声を聞くだろう。彼の名前をかすかな声が呼びかける、最初はたったそれだけ。隼馬が呼びかけに応えれば、呪いは成立する。
――「かーさん、今オレのこと呼んだ?」
手応えを感じたのは、月曜の夜だった。何かを渡すこと、受け取ること。声をかけ呼ぶこと、呼びかけに応えること。これらは呪術の基本的な作法だ。
◆
その夜、隼馬は深夜に目を覚ました。
話し声が聞こえるからだ、と気がついたのは、目が覚めて数分経ってからだ。なぜなら声は、水中で聞くようにくぐもっていて、不明瞭だったからだ。
時刻は三時前だが、話し声はもっと前から聞こえていた気がする。誰だ、こんな時間に――もしかして、家族の身に何か起きたのか?
指先を動かそうとした時、ピキンと張りつめたものが身体に走った。筋肉や神経が伸びきったまま固まって、人形の中に意識だけ押しこめられた気分だ。
――あしかれ、まかれ、あしかれ、まかれ、ひさしげはやまはさがれさがれさがれ
身じろぎ一つできないまま、話し声に耳を澄ませるのは苦痛だった。
夢うつつに聞こえるのは、隼馬に対する呼びかけと、日本語のようで日本語ではない何かのくり言。不幸中の幸いか、話者の正体を探る間に、再度眠りに落ちた。
※
火曜日、帰宅した隼馬は一瞬すくみ上がった。見知った我が家が妙に暗く、寒い。指先から血の気が引いて、心臓に冷えた血潮が流れこむ。
(なんだよ、これ)
もう十月なのだから、日が落ちたらとっぷりと暗闇になるのは当然だ。それがまぶたの裏よりも深い、分厚い壁のような暗黒に感じられるのは、なぜだろう。
いつかの夏、友だち同士で百物語をやったことがあった。持ち寄って蝋燭に火を点けてみると、いくら数があっても儚く頼りなかったものだ。
「はあ、雨戸閉めてたっけ?」
スマホのライトはあの時の蝋燭より弱々しく、今にも消えそうに見える。そんな馬鹿なと思いながら、隼馬は手探りで電源スイッチを探した。
目を開いているのか、閉じているのかも判別できなくなるような暗さで、光の輪だけが道しるべだ。でも、照らされた部分が脳の中でうまく像を結べない。
あまりに何も見えないと、広々とした虚空に放り出されたような気持ちになるものなのか。月面着陸した宇宙飛行士も、こんな気分だったのだろうか?
同時に、すぐ傍まで壁が迫って、次の瞬間自分を押し潰すのではという妄想が頭を過った。真逆の錯覚が、同じ種類の悪寒となって、背筋と肌を泡立てる。
明かりが点いた。動かし続けた手のおかげだ。
ホッとした、それもつかの間のこと。
薄墨のフレームを一枚重ねたように、家全体が薄暗がりに包まれていた。目が闇に慣れていたなら、まぶしく感じるはずなのに、そんな感覚が一切起こらない。
(まさか、視力が落ちたんじゃねえだろうな)
眼鏡をかけても自分には似合うだろうが、スポーツに差し障りが出るのはあまりよろしくない。これが続くなら、一度眼科に行かなくてはならないだろう。
プツッと音がして、隼馬は不意を打たれた。みっちりと室内を満たしていた無音を割って、淡々としたキャスターの声がニュースを読み上げる。
去年買ったばかりで、インターネットともつなげられるスマートテレビだ、故障するには早い。気がつかない内にリモコンを踏んだり、触ったりしただろうか。
見つけたそれは、隼馬の手から遠く離れたローテーブルの上だった。
「……不良品かよ」
何ほどのこともない。保証期間内だったはずだから、同じことが続くなら返品してしまえば良い話だ。何もかも説明がつく。隼馬はそうタカをくくっていた。
しかし翌日も、翌々日も奇妙な声や視線は続き、自宅の闇は妙に深く、凍えていくばかりだ。何の進展もないまま、木曜の晩。
最近家の中が暗いことは、家族も気がついていた。しきりに電気を確かめたり、間接照明を新しく増やしているが、さほど効果は実感できない。
時には、点いていたはずの照明が勝手に切れていることがある。深い森の中に建つ一軒家の夜とは、こんな感じだろうか。
母も、父も、姉も、隼馬自身も、それを言葉にして認めはしない。
隼馬が階段を上がろうとすると、両手の甲からスーッと血が引いた。こんな感触は初めてだ。明かりがない二階は先が見通せない虚無に呑まれ、何も分からない。
吸い込まれそうな暗がりに、素足が浮かび上がっている。
これから隼馬が上ろうとしていた二階から、階段を降りに片足だけ突き出した格好だ。もう一本は、暗中に隠れているのだろうか。
隼馬はつま先を階段の最下段にかけた。白い足は変わらずそこにあって、ぴくりともしない。誰かがマネキンの足でも置いたかのようだ。
もう一段、このまま二階へ上がれそうだと思った瞬間、隼馬は大きく飛びすさった。転げ落ちそうになりながら、手すりを掴んで後ろ向きに降りる。
みっしりと一角に詰めこまれたように、複数人の気配があった。息づかいまや話し声まで聞こえそうな、生きた闇の濃厚な感触。
誰だ、と言ったつもりの声は木枯らしのように喉を吹き抜ける。持ち歩くようになったマグライトを向けると、そこには見慣れた階段と廊下があるだけだった。
ハッキリと見えた白い足も、複数人の気配も、跡形なく消えている。
隼馬はずんずんと無言で自室へ入ると、靴下を脱ぎ捨ててジーンズをめくり上げた。すらっとほどよく筋肉のついた足、ギリシャ型のつま先。
間違いない。
階段の闇に浮かんだのは、どう見ても隼馬自身の裸足だった。
意味が分からなかった。
自宅でも学校でも、繁華街でも、彼女の家でも視線と声を感じる。
最近ではより図々しくなって、耳元でささやかれるほどハッキリと聞こえたり、吐息を首筋や頬にさえ感じるようになっていた。
イライラする。怖い、と認めたくはない。
すべて気のせいで、来週にはぱったり何もかも元通りだ。人生長いのだから、そのうち数日間、変なことに当たったりもするだろう。
だから隼馬は誰にも相談せず、一家も何も対策を打たなかった。
◆
数日続けると、航が『呪いの効果、出てるかも』とLINEで報告してきた。「それはめでたい」と返し、しばし雑談していると、ふと『呪いってワラ人形に釘を打つのしか知らないけど、他にも何かあるの?』と訊かれた。
「藁人形に釘、紙人形に針。それが呪詛の定番のは、針や釘がミニチュア版の刀剣だからだ。
とうとうと解説すると、少し間を開けて返信が来た。
『隼馬くんは腐ってるものが嫌いなんだ』
『ヨーグルトとか納豆とかダメだし、キノコもカビの仲間だって思ってる』
『だからさ、カビの生えた残飯なんかを、人形にかけたら良いかも』
「なるほど」
人形は毎回作り直すのだし、呪詛でどう効くか自分としても興味深い。栄太郎は自宅のゴミ箱から悪くなった食パンを拾うと、人形の全体にカビをなすりつけた。
手袋をつけているとはいえ、腐ったものを触るのは少し気持ち悪い。だが呪詛を行うという栄太郎の決意と意志は、不快感を十二分に抑えこんだ。
◆
金曜日、トーストに塗ってからジャムにカビが生えるという怪奇現象に、とうとう隼馬は事態の深刻さを理解した。同時に冷静さも失ったが。
何のアテもなく、彼はバイクで家を飛び出した。
学校など悠長に通っている場合ではない。ありたっけのカネを持って、手近な神社に飛びこんで、お守りを買うのだ。それで解決しなければ。
解決しなければ、どうなるのだろう。
〝一軍〟から二軍、はては最底辺の〝負け組〟に転落? ゲームオーバーしたって人生は続くし、基本はオートセーブだ。ロードしてやり直しなんてできない。
誰かの悪意か、たまたま悪霊や呪物に行き会ってしまったのか。母や姉にまで被害が及ぶ前に、自分の所だけでも食い止め、ケリをつける。
(んなワケ分からねえものに、やられてたまっかよ……!)
唸るバイクのエンジン音が、今はただ心地良く、頼もしい。
お前だけは、きっと味方だよな。
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