転粥 〜異世界に転生したらお粥でしたが、王女に食べられる寸前で覚醒しました〜

永守

第1話:スプーンと目覚めの音

 静かだった。

 何の音もない。鼓動も、風も、呼吸さえも感じない。

 けれど、確かに“意識”はあった。


 ……あれ、俺、生きてるのか?


 そう思ったとき、ぼんやりとした光が広がっていった。

 光の正体は天井だった。高く、白く、見たこともない模様が描かれている。

 その瞬間、重く沈んだ記憶がふと頭をよぎる。


 ――ああ、俺……たしか、会社で倒れて……。


 ブラック企業。月400時間の労働。

 ろくに寝られず、食事も取れず、唯一の楽しみは深夜のコンビニおにぎりだった。

 そんなある日、心臓がバグッと跳ねて、そのまま記憶が途切れて……。


 次に目覚めたのが、ここ?


 視界がはっきりしてくると、自分の“身体”の異常に気づいた。

 手がない。足もない。動こうとしても、動けない。

 どころか――感覚が全体にとろりと広がっている。


 え、何これ。

 液体? でも、なんか……あったかい……。

 白い。粘度がある。何かに包まれてる……というか、入れられてる?


 目線を落とすと、陶器の縁が見えた。


 まさか、俺……“お粥”になってる?


 冷や汗も出なかった。出せないから。

 だけど、体中を緊張が駆け巡った。いや、駆け巡るというか、全体的にぷるぷる震えた。


 そのとき。


「リシェリア様、本日のお食事は、滋養粥でございます」


 誰かの声が聞こえた。

 女の人。澄んだ声だった。


 そして――ゆっくりとスプーンが俺の“身体”に差し込まれた。


 うわ、やめろやめろ待って待って!俺、食われるんか!?

 やばいやばい、声出して止め――


「……まって……ッ!」


 その瞬間、声が漏れた。


 人間の声ではなかったかもしれない。

 けれど確かに、自分の“意志”が、空気を震わせた。


 それを聞いた相手は、驚きのあまり手を止めた。

 目の前にいたのは、金色の髪に、透き通ったような瞳をした少女。

 ベッドに横たわり、病に蝕まれた身体で、ふるふると震えていた。


「……いま、……しゃべったのは……この、おかゆ……?」


 少女が、俺を見つめてそう呟く。

 澄んだ瞳が、どこか不思議そうで、でも、少しだけ懐かしさを滲ませていた。


 そのとき、初めて俺は、自分の声が彼女にだけ届いていることに気づいた。


「え、あの、俺……えっと、いや、そうなんだけど……」


「わたし……夢を見てたの。温かいお粥に、心を包まれる夢。……その声と、同じ……」


 少女はゆっくりとスプーンを器に戻し、俺を見下ろして微笑んだ。


「……もしかして、あなたは、誰かの気持ちなの?」


「気持ち?」


「優しくて、温かくて、ちょっと切ない味。そんな、お粥の気持ち」


 ……俺は返す言葉を見つけられなかった。

 でも、何かが確かに、心の奥でほどけた気がした。


 そうか。

 俺はもう、人間じゃない。

 でも……この人を癒すために、ここにいるのかもしれない。


 その日からだった。

 王女リシェリアと、“喋るお粥”の奇妙な共生が始まったのは――。

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