第3話──誰でもつけてる香りの中で、たったひとつを探す

その香水は、街に溢れていた。

駅のホームで。

通りすがりのカフェで。

すれ違う女性の髪に、袖に、さりげなく纏っていた。


アメジスト・グレース。

もはやありふれた香り。誰もが、さりげなく、誰かを真似て纏う。


「思い出しましたか?」

そう問いかけてくる人は、皆、違う温度の声をしていた。

けれど、誰も“あの温度”ではなかった。


あの日の彼女は、

悲しみを隠すように笑い、

優しさの奥に深い孤独を抱えていた気がする。


香りは似ていても、

心が香っていない。

そんな違和感だけが、胸に残った。


そんなある日、一人の女性が病室を訪れた。

髪から、風のように香りが舞った。

アメジスト・グレース──それも、よく似ている。


「初めまして」

柔らかく、美しい声。けれど、その中に、何かが欠けていた。

優しさをなぞってはいる。でも、それは感情ではなく、模倣だった。


「あなたのこと、ずっと見ていたんです」

「え?」

「事故のことも、香りを忘れなかったことも、全部」


彼女の声は、どこか哀しくて、でもどこか歪んでいた。

その後ろに、“本当の誰か”の影が見えた気がした。


「あなたの目が覚めるって聞いた時、どうしても……どうしても、会いたくなって」

「どうして僕に、そこまで?」

「……ただ、可哀想だと思っただけよ。誰も来ないあなたに、何かをあげたかっただけ。」


沈黙が流れた。


「……その香り、本当にあなたのものですか?」


僕の問いに、彼女は一瞬だけ固まった。

だがすぐ、微笑んだ。哀しみと、どこか諦めたような笑みだった。


「いいえ、違うわ。でも、私でもいいと思ってほしかった。香りがあれば、騙せるかもって──思っただけ」


目が見えないからこそ、

香りを信じて生きていた。


でも、

香りは、記憶をなぞるだけではない。心をなぞるものだ。

そう思った。


彼女の香りの奥には、何もなかった。

空っぽのまま、香水だけを纏った声。

それは、愛じゃなかった。


──彼女は、涙をこぼしながら、病室を去った。

「ごめんね、こんなことして。でも、あなたを想ったのは本当よ」

その言葉だけは、香りの奥で、少しだけ揺れていた。


僕は、あらためて決めた。

目が見えなくても、記憶がなくても、

“香りの奥にある温度”だけは、間違えない。


たとえ、世界に何百人と同じ香水をつけた人がいても──

たった一人だけは、“あの温度”で香る。

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