第2話──香水の名前は「アメジスト・グレース」
「これは、最近どこでもよく売れている香水なんですよ」
そう言ったのは、病室に入ってきた女性だった。
少し落ち着いた大人の声で、声だけを聞けば、どこか心地よく、包まれるようだった。
僕は、視界のないまま、その香りを感じた。
──そう、それだった。
この香り。
記憶の奥にひとつだけ残っていた、ぬくもり。
「アメジスト・グレースって、言います。ラベンダーとホワイトムスクが重なって……甘くて、でも静かな香り」
「……あなたは、誰ですか」
「私は……病院でボランティアをしていて。あなたの看護記録を読んで、気になって……」
彼女の言葉はやわらかい。
でも、どこか作られているような、よそよそしさもある。
本当に彼女なのか? あの香りの記憶は、本当にこの人のものなのか?
「これ、よく売れてるんですか」
僕の問いに、彼女は少し笑って答えた。
「ええ、かなり人気ですよ。あなたみたいに“この香りだけ覚えてる”って言う人、多いみたいです」
それを聞いた瞬間、心の中がぐらりと揺れた。
唯一の記憶だった。たったひとつ、心の支えだった。
──なのに、それが“よくある香水”だとしたら?
じゃあ僕が追っているのは、ただの幻だったのか?
「……本当に、その香りだったのか、わからなくなってきた」
手のひらに顔を伏せた。闇の中で、たったひとつ信じていたものが崩れ落ちていく感覚。
自分が“何者なのか”さえ、見失いかける。
でも、
それでも、
あの香りが胸を締めつけた事実は、消えない。
「でも……きっと、どこかにいるんです」
女性の声が優しく続いた。
「あなたが“この香りに”心を震わせた誰かが」
彼女は、僕の手をそっと握った。
その温度も、香りも、どこか似ていた。でも、違う。
香りの奥にある感情が、違った。
──あの日の香りは、
もっと、切なくて、温かくて、ひとりの人を深く想う香りだった。
だから、僕は立ち上がる。目が見えなくても、記憶がなくても、信じたい。
たとえ、誰かが同じ香水をまとって、
僕の前に“偽りの愛”として現れても。
香りだけは、騙せない。
きっと、
“本物”の彼女の香りは、
どこかで、
僕の中に、まだ生きている。
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