第3話
会計を済ませた鷹野幸夫と杉村佐和子が、山手医院の病棟から表に出ようとした時、入れ違いのように男が病棟に入ってきた。
「佐和子。よかった、間に合った」
グレーの細かいチェック柄のジャケットを脱ごうとしていたその男は、佐和子を労るように声をかけた。
「今日は休みだって言ったじゃないか。迎えに来たんだよ。駐車場に車を停めてある」
「ありがとう、茂晴さん。でも、一人で帰れるって言ったはずです。申し訳ないわ」
「気にしなくていいんだよ」
温厚そうな声で話すその男は、佐和子の夫・杉村茂晴だった。
「鷹野さん、夫の杉村です」
「ああ、そうでしたか、初めまして。鷹野と申します。お世話になります」
「初めまして。妻がお世話になったようで。ありがとうございます」
「いえいえ、そんなことは。では、杉村さん、私はここで失礼します」
幸夫が礼を尽くしてその場を後にしようとした時、佐和子は両の手を差し出して幸夫の右手を包んだ。
「本のお話し、また今度したいですね。お元気でね、鷹野さん」
不意を突かれた幸夫は、ただ「はい、杉村さんこそ」と応じるのが精一杯だった。
「さっきの鷹野さんだっけ、ずいぶんと親しそうじゃないか」
「本の趣味が合ったんです。お話ししたのは、今日が初めてです」
「責めてるわけじゃないよ。勘違いしないでね」
駐車券を精算機に差し込みながら、茂晴は言った。
「わかってます。鷹野さんも、この病院の患者さんなんですよ」
「じゃあ、いろいろと相談に乗ってもらえるといいね。いい人そうじゃないか」
「そう、ですよね」
そう呟いたきり、佐和子はぼんやりと車外を見やっていた。師走の近い街並みも、今の佐和子には無機質なものとして映じていた。
あの握手はいったい何だったんだろう。幸夫が気を取り直したのは、駅の改札に着いた頃だった。スマートフォンを確認すると、姪の鷹野美由からのLINEスタンプが、何件も溜まっていた。これはまずい。幸夫は急いで美由へメッセージを送った。
「むかつくー」
こう返信は書かれていたが、スタンプのキャラクターは笑い顔だった。
「お母さんがご飯食べにおいでって」
先週は美由の数学の勉強を見る約束だったが、体調を崩して休んでしまっていた。今日はこの足で、義妹と姪に会いに行くのがいいだろうと幸夫は考えた。
「もしもし、美由ちゃん。今電話しててもいいかな。さっき薬をもらったところだよ。六時くらいにはそっちに着けると思う。うん。麻美さんによろしくな」
手土産にドーナツでも買ってから行こうか。あと、プレゼントにもらった『モモ』のお礼も考えておかないとな。幸夫は楽しげに考えながら、ホームへの階段をゆっくり降りていった。その脇を、足早に駆け下りる若い男女があった。電車に駆け込むなんて、随分としなくなったものだ。幸夫は、もう走ることなどないだろうと考えていた。
(つづく)
律動 鈴元 松司(すずもと・しょうじ) @machinaka
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