律動

鈴元 松司(すずもと・しょうじ)

第1話

 九月が終わろうとしているのに、外に出ると真夏のような熱い空気の固まりに入っていくようだ。すっかり濡れてしまったハンドタオルで、鷹野幸夫は首筋の汗を拭っていた。昨夕は東京・練馬区の実家に出向き、弟・友昭のため焼香を済ませてきた幸夫は、今日は二十分かかる山手医院まで、炎天下を歩いていた。もう一枚大きめのタオルを持ってくるべきだったと思いながら、幸夫は立ち止まってペットボトルの栓をひねった。

「こう暑いんじゃ、出かけるのが二日続くのはしんどいな」

 毎月一回、山手医院の精神科へ通院していた幸夫だが、診断名が変更されたことを理由に、しばらくの間は月に二回に増やすよう指示されていた。

「帰りはバスを使わないとダメだな」と幸夫は考え始めていた。

 精神科に内科が併設されている山手医院の待合室に着くと、幸いなことに強めの冷房が効いていた。待合室ではまばらに患者が診察を待機している。診察が終わる頃には汗も引くだろうな。幸夫のペットボトルは、この時ちょうど空になっていた。

 幸夫がこの山手医院に通うようになって、早くも十五年になろうとしていた。小さな学習塾で講師を務めていたものの、同僚や保護者たちからの、いわゆるパワハラやカスハラのために心が折れ、精神を病んだのだった。

「花岡先生、よろしくお願いします。今日も暑いですね」

 診察室のドア脇のディスプレイに受付番号が表示され、幸夫は診察室へと入っていった。中で待っていたのは、幸夫にとって五人目となる主治医の花岡優希美だった。年下ながら、細やかな配慮と的確な判断をしてみせる花岡に、幸夫は大きな信頼を寄せていた。

「いかがですか、体調は。弟さんの命日と聞いていましたが、ご家族とはお会いしたんですか」

「はい、焼香だけしてきたんです。両親とも元気そうでした。気にしてはいたんですが、特に変わったことはありません」

「そうですか。ご家族に合うのを気にされていたようだけど、もし何かあるのでしたらお話しなさってくださいね。それで、診断を変えてから一か月になりますけど、気分が上がったりする大きな波はありませんか」

 花岡は幸夫の症状について、鬱病ではなく双極性障害だと判断していた。八月のことであった。前任の医師から「鷹野さんは双極性障害の疑いがある」と引き継いでいた花岡は、幸夫のカルテと言動からその確信を強め、診断名の変更に至った。

「はい。診断が変わったことで、むしろ病状について腑に落ちることが多いです」

「そうですか。よかったです。鷹野さんはよく勉強してくださるから、理解も進んでいるんだと思いますね。ご自分の病状に向かい合うのは、とてもいいことだわ」

「ありがとうございます」

「次は診察の前に、採血をしましょう。病院に着いたら、先に採血室に行ってください。検査の結果によってはお薬を調整します。場合によっては、お薬を増量します。お食事は、採血の二時間前までに済ませておいてくださいね。それじゃ、お疲れさまでした。暑いので気をつけてお帰りくださいね。お大事に」

 花岡は軽く会釈をして受診票を手渡すと、にこやかに幸夫を送りだした。


「すいません、ちょっと冷房が強過ぎると思うんですが」

 診察を済ませた幸夫が、ロビーで会計と処方箋を待っていると、あまり見かけたことがない折り目正しい女性が、腕をさすりながら事務員に話しかけていた。事務員は申し訳なさそうに応対はしていたが、結局のところは細かい温度調整は効かないのだと説明していた。そうだよな、女性には寒いかもなと幸夫は思っていた。

「すぎむらさん、すぎむらさわこさん」

 しばらくすると、会計が済むのを待っていた杉村佐和子が事務員から呼び出されていた。そうか、すぎむらさんって言うのか。幸夫にしては珍しく、その人の名に聞き耳を立ててしまっていた。何の病気だろう。気になるな。その出で立ちと名前の響きは、幸夫に不思議な印象を残したようだった。


(つづく)

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