第18話 記憶の中の音

その日の放課後、心音はまっすぐ帰宅することも、どこかに立ち寄ることもできなかった。

 ただ、足の向くままに歩いて、気がつけば公園のブランコに座っていた。


 少しだけ、冷たい風。

 でも、それがかえって気持ちを落ち着かせてくれる。


 (あのとき……澄香は、なんて言おうとしたの?)


 奏多の口から聞いた「まだ伝えてない」という言葉が、頭の中で何度も反響する。

 心音は、彼を信じたいと思う一方で、どうしてこんなに心がざわつくのか、わからなかった。


 すると、携帯が震えた。


 《From: 澄香》


> 「……話したいことがあるの。

 明日のお昼休みに、音楽室に来て。」




 心音はしばらく画面を見つめたあと、そっと返信を打った。


> 「わかった」






 そして翌日。昼休み。


 音楽室の扉を開けると、そこにはひとり、澄香が立っていた。

 ピアノの前ではなく、教室の中央で、まるで誰かを待つように。


 「来てくれて、ありがとう」


 そう言って、澄香は深く一礼した。

 いつもの強気な笑顔ではなく、どこか素直なまなざしだった。


 「心音さん、昨日のこと……聞いてたんでしょ?」


 「……はい。少しだけ」


 正直に言うと、澄香は微笑んでうなずいた。


 「奏多が隠してるのは、ね……“彼がピアノを弾けなくなった時期”のこと」


 心音の目がわずかに見開かれる。


 「中学の終わりごろ、彼は音楽をやめようとしてた。……というか、やめさせられそうになってたの」


 「……どうして?」


 「彼のお父さん、昔はピアニストだったの。でも怪我で演奏を諦めて……その反動で、奏多にすごく厳しくて。

 “音楽なんて、飯の種にならない”って」


 心音は息をのんだ。


 「でもね、奏多は──あの人は、音をやめなかった。

 心を閉ざしてたけど、ピアノだけは、手放さなかったの」


 澄香の目が、まっすぐこちらを見据える。


 「だから、今でも誰かにすべてを話すのは、怖いんだと思う。

 本当は、心音にだけは……伝えたかったんじゃないかな」


 静かに、沈黙が降りた。


 その沈黙の中に、たしかに“音”が聞こえた気がした。

 奏多の、震えるような音が。


 「……ありがとう、話してくれて」


 心音は深く頭を下げた。

 そして、ゆっくりと顔を上げたとき──その目は、もう迷っていなかった。


 「わたし、もう一度、ちゃんと向き合いたい。彼の音と、彼自身と」


 そう言った心音の背中に、澄香はそっと小さく「がんばって」と呟いた。


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