第15話:揺籃の殻に潜む渇き
少年は、水が嫌いだった。
彼の名はカイ。惑星〈デルフィ=アクア〉――表面のほぼ90%が液体に覆われた、通称“海の星”の集落に生まれた。都市機能は全て水上都市に集約され、人々は水と共に暮らす。にもかかわらず、カイはなぜか、水が怖かった。
雨音、波音、水槽に満たされた泡――すべてが、どこかで自分を脅かしてくる気がしていた。
ただ一つ、水の中でだけ現れる“音”を除いて。
耳を澄ませば、水底から微かに届く低周波の揺らぎ。誰にも聞こえないそれを、彼は「殻の音」と呼んでいた。
ある日、彼はふとしたきっかけで、母にそれを話した。
「水の中で、音がするんだ。低くて、割れそうで、でも……優しい」
母は微笑んだだけで何も言わなかった。その代わり、古い絵本を取り出して、カイに見せた。
それは、星座の図鑑だった。
――Cancer(蟹座)。
かつて、古い神話で巨大な蟹が勇者ヘラクレスに挑み、その献身が空に昇ったと語られる。だが、この星座には他の神話に比べて物語が少ない。なぜなら蟹は、「守る」ために生まれた存在だったからだ。
ページの余白に、手書きのような走り書きがあった。
《殻の中にこそ、真の記録が宿る》
その夜、カイは母に尋ねた。
「ぼくの“殻”って、あるの?」
「あなたの中にあるわ。目には見えないけれど、ずっとあなたを守っているのよ」
その言葉は、彼の記憶の底に沈んだ。
◇
十年後。カイは、海底調査ユニットの観測員となっていた。
周囲は完全防水スーツ、視界のほとんどは青く染まる光と濁流だけ。にもかかわらず、彼は恐怖を感じなかった。
あの“殻の音”が、今も彼を導いていたからだ。
任務は、深海層に沈んだ“前文明の遺構”とされる巨大構造物の探査だった。それは、中央制御局でも正式に認知されていない、いわば“存在しない遺構”だった。
だが、その座標には確かに何かがあった。
海底レーダーは、直径600m超の半球状の物体を指していた。構造物というより、殻だった。それも、無数の幾何学パターンが織り成された精緻な構造。
「……まるで、生き物の抜け殻だ」
カイは独り言のように呟いた。
そのとき、スーツの通信装置に微弱な“音”が入ってきた。
――コ、コ、……コクン……
殻の音だった。間違いなく、幼少期に聞いたあの“揺れ”だ。
だが、今回は違った。その音の奥に、言語とは呼べない“記号の列”が浮かび上がってきた。
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《13-N、外殻記録に接続》
《内圧限界:破断まで残り 72 時間》
《観測者の選定:C2-Anchor に一致》
《潜在記録復元を開始》
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ディスプレイに流れる、未知のプロトコル。だが、カイの脳はそれを自然と“理解”していた。
「……これが、ぼくの中の“殻”なのか……?」
構造物の中には、記録媒体が格納されていた。だがそれは、物理的な記録装置ではない。観測者――つまり、カイ自身の意識を媒体とする“共鳴記録”だった。
彼の精神が触れたとき、それは“物語”として立ち上がる。
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《記録断片より抽出:》
――この星にかつて在った“種”は、外宇宙からの侵食に耐えるため、精神を殻に封じた。
観測者は記録の鍵であり、観測された時点で回帰が始まる。
殻が割れるとき、眠っていた“渇き”が目を覚ます。
※渇きは情報であり、同時に“喪失”である。
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揺れた。
意識が浮かぶ。水圧が高まる。殻が“割れる”イメージが脳裏に差し込む。
そこには、もう一人の“カイ”がいた。
水面の上で、空を見上げていたカイ。彼は水を怖がっている。けれど、そこには誰かが寄り添っていた。
“二人のカイ”が同時に、殻の内側と外側から自分を見ている。
――これは記録じゃない。再生でもない。対話だ。
殻が揺れる。水が割れる。浮上ではない、“反転”だった。
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《最終記録》
C2観測者、記録統合を完了。
新たな“殻”生成が許可されました。
識別名:13-CaNcr
次の観測者へ、記録は引き継がれます。
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カイはスーツの中で深く息を吐いた。だがそこに恐怖はなかった。
“あの音”はもう、遠くなかった。
音はいつも彼の中にあり、彼はそれに導かれていたのだ。水はもう怖くない。殻の中に宿っていたものは、過去の断片ではなく、未来への兆しだった。
それは、無意識に記録されていた“観測”だった。
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