第11話 正義の名のもとに潜む陰
夏の陽が翳り、王都を包む空に薄曇りが広がっていた。
カイン・グランディールは、王宮の奥まった回廊を歩いていた。季節は確かに進んでいるはずなのに、肌に触れる空気はどこか重い。城の石畳も、今日は足音を吸い込むように鈍く響いていた。
――兄上の婚約が発表されて、四か月あまり。
町ではアリアの名が持ちきりだった。加護を用いて干ばつ地を癒やした、療養院で子どもたちを救った。そうした“美談”が、まるで布教のように王都全土へ広がっている。
それが、カインには歯がゆかった。
(……僕のほうが、先に見つけていたのに)
彼女の笑顔を知っていたのは、誰より自分だったはずなのに。
ふと足が止まる。向かった先は、王宮の一室。名目上の応接室だが、実際には「要人との密談」が行われるために設えられた場所。重い扉の向こうには、既に客人たちが待っていた。
「おお、第三王子殿下。ご足労いただき恐縮です」
深く頭を下げたのは、三人の上級貴族。侯爵家の当主、そして古参の大臣、さらにはかつて宰相に名を連ねたという引退貴族。顔ぶれを見れば、ただの挨拶でないことは明白だった。
カインは表情を変えず、応じる。
「挨拶が必要なほど、私の立場は高かったでしょうか。兄上は王太子に就き、私は三男。肩書きはあるが、義務も責任も伴わぬ、いわば“自由人”です」
「自由だからこそ、可能性があるのです」
侯爵が穏やかな笑みで言った。
「現王の御代も、そろそろ次代への橋渡しが本格化いたしましょう。だが、その先に立つ者が、果たして民を背負える器かどうか……」
「……つまり、兄上は不適任だと?」
「我々が申し上げているのは、あくまで“王妃候補”の問題です」
カインは目を細めた。
「……アリア嬢の出自か。彼女が伯爵家の令嬢であることは、……確かに格式という意味では劣るかもしれない。だが、彼女は――」
声がわずかに揺れる。
――彼女は、僕のものだったはずなのに。
「彼女は民に慕われている。それは否定できないでしょう」
老大臣が口を開く。
「そうです。しかし、王位というものは“愛される”だけでは務まりません。王族の血脈にふさわしい格式、秩序、そして……相応の配偶者を迎えたことで得られる政治的安定が必要なのです」
「そして殿下こそが、それを成し得るお方だと、我々は信じております」
……来たな、とカインは思った。
テリウスが断ったという話は聞いていた。兄のように芸術に没頭し、王家のしがらみから距離を置く弟は、最初から候補ではなかったのだろう。
だから今、この場に自分がいる。
「……私は王位を求めたことなど一度もない」
「それが、よろしいのです」
大法官の目が鋭く光った。
「王位とは、求める者に与えられるものではありません。むしろ、拒み続ける者にこそ、時に“背負わされる”のです」
部屋の空気が、いっそう静まった。
――求めていないからこそ、ふさわしいと?
そんな理屈があるものかと、カインは喉元まで反論を上げかけた。だが、言葉にならなかった。心のどこかに、くすぶる火があったのだ。
(僕なら……もっと、民に近い王になれるのではないか)
(兄上のように型に嵌まらず、自由な発想で――)
思いは次第に形を持ち始めていた。
* * *
その少し前――。
ミレーネ・ヴァレリアは、控えの間で立ったまま窓の外を見ていた。夏の雲が厚く重なり、遠くで雷の音が微かに響いている。
(……また、あの人はひとりで向き合っている)
ここのところ、カインの予定を管理するのは彼女の役目だったが、最近、王宮内で“応接室”という名の密談の場に彼が呼ばれることが増えていた。
ミレーネは扉の前で深く息をついた。
(あの人は何を話しているのだろう。わたしには何も話してくれない……
あの婚約解消のあと、まだ正式な婚約者にもなれていない。私は一体カイン様にとって何なのだろう)
けれどそれを、問いただすこともできなかった。
自分が選ばれたのは偶然。ずっと気にかけてきたのも、報われるような感情ではない。
それでも――少しでもそばにいたいと思ってしまう。
ふと、手のひらに視線を落とす。
学園時代の友人に頼んで縫ってもらい、今朝届いたハンカチだった。
淡い薄青の糸で縫われたその布は、薬草の香りがほのかに染み込んでいた。熱を下げる効果がある、旅人が好んで持つ小さな“護り布”だ。
(きっと、今の彼には、護るものが必要だと思うから――)
ミレーネは、そっとそれをポケットにしまった。
(わたしにできることなんて、この程度の小さなことばかり。でも、何もできないよりは――)
そして、いつものように笑顔を浮かべ、ノックをする。
* * *
そこへ、ノックの音。扉の外に、ミレーネの声が聞こえた。
「カイン様。そろそろ、午後のご予定がございます」
「……すまない。すぐ出る」
カインは立ち上がった。
「考える時間が必要だ」
「もちろんです。殿下のご意志が第一。……我々は、王国の未来のために、誠実な選択を願っております」
貴族たちは頭を下げた。
扉の向こう、ミレーネの姿があった。笑顔は変わらない。だが、その瞳に一瞬、不安がよぎったことを、カインは見逃さなかった。
――君は僕を信じている。
その信頼を、裏切ってはならないはずなのに。
なのに、なぜアリアの姿が脳裏から離れない。
自室に戻る道すがら、カインは初夏の風に吹かれた。
揺らぐ影の中で、自分がどこに立っているのかさえ、わからなくなりかけていた。
* * *
ダラル侯爵家の応接室。
重厚な木彫の扉の奥には、冷えた紅茶と甘くない話題が揃っていた。
「……ミレーネ・ヴァレリア。名門とは言い難いが、話すに足る女だな」
ダラル侯爵は、無表情に言い放った。
円卓にはほかに三人――かつての宰相経験者、老いた枢機卿、そして現役の大法官が顔を揃えている。
「正直なところ、王太子妃の器なんてもってのほか。血統も、影響力もなさすぎる。
――そもそも男爵家の娘に何ができる?」
「まったく。アリア嬢とて伯爵令嬢だが、少なくとも民への影響力はある。加護もあれば、王族の信頼も厚い。……それに比べて、この令嬢には、何の後ろ盾もない」
「だが、使える」
その言葉に、一瞬、空気が止まった。
大法官が静かに続ける。
「カイン殿下は、王太子の影として長く過ごしてきた。だが今や“アリア嬢を失い、周囲に無視されている哀れな王子”という印象だろう」
「その彼の隣に、野心を燃やす女が立っていたら?」
レオナールが、ふと目を細めた。
「……まるで、カイン殿下が再起を期しているかのように見える、というわけか」
「そのとおり。――あの令嬢の出自など、どうでもいい。ただ、彼女が“焚きつける火種”として機能するのなら、それで十分だ」
「つまり、道具、だな」
「王妃には据えぬ。だが、玉座を揺るがす風としては、適度に扱える」
誰の口にも敬意のひとかけらもなかった。
令嬢の志や理想など、彼らにとっては瑣末なこと。
必要なのは、「扇動できる女」――それだけだった。
侯爵は指先で杯をくるくると回した。
「問題は、あのミレーネが、自分が“操られている”と気づくほど賢いかどうかだな」
「気づいても構いません。気づいた頃には、もう降りられない場所にいればいい」
杯が静かに置かれる音が、会話の終わりを告げた。
その場にいた誰ひとりとして、彼女の名を「敬称付き」で呼ぶ者はいなかった。
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