第10話 風の中の穏やかな覚悟
王宮の裏庭に吹き抜ける風は、すでに夏の匂いを含んでいた。
第二王子であるテリウス・グランディールは、手にした木炭でスケッチ帳の上に影を刻みながら、静かに時を過ごしていた。
描いているのは、噴水越しに伸びるオリーブの木の枝。そこに止まった一羽の小鳥。淡く揺れる木漏れ日。
政治の場では何一つ役立たぬ構図だが、彼にはそれで十分だった。
「兄上が玉座に向かって歩むなら、弟の務めは“騒がぬこと”、だろう」
ひとりで呟いた声は、誰に聞かれるでもない。だが、心の奥底にだけは誠実に届いていた。
兄・ユリウスが王太子としての道を歩み、今や王妃候補であるアリア・フェルネスト嬢との婚約を国中に知らしめた。その流れは穏やかだが、確かに王統の方向性を定めようとしている。
ならば、自分の役目は一つ。
――波立たせないこと。
それが、芸術の道に身を投じると決めた自身なりの、王家への誠意だった。
* * *
「殿下、いかがされますか。
――ここまで声が高まれば……いずれ、動く者が出てまいります」
そう囁いてきたのは、側近の老執事・マークスだった。忠義者であるがゆえに、心配する気持ちは痛いほど理解できる。
「私が王位を望んでいるなら、今ごろ貴族派を束ねて動いていたさ。……だが私は、あの椅子に座る欲も覚悟もないさ」
はっきりと答えると、老執事は口を噤んだ。だが、不安が拭えたわけではないだろう。
――その不安の一端が、今日、このあとに控えていた。
* * *
客間で待っていたのは、三人の上級貴族だった。侯爵家の当主、そして古参の大臣、さらにはかつて宰相に名を連ねたという引退貴族。
「殿下、我々はただ、王国の未来を憂う者です」
「兄君が王太子妃に選んだのは伯爵家の令嬢。格式という意味では、やや……」
言葉は慎重だったが、明らかな“代替案”を求める匂いが漂っていた。
テリウスは、マークスが入れた紅茶を口にした。
「皆さんの言うその令嬢が、各地で領民に寄り添い、加護をもって希望をもたらしていることは、……もちろんご存知ですよね?」
「……はい、それはもちろん承知しております」
「では、あなた方のおっしゃる“貴族の血統と格式”が領民に与えられた希望よりも勝る理由とはいったい何でしょう。
民の信頼よりも、肩書きが重いと?」
――誰も、返せなかった。
「私は、兄の選択を支持します。
……そして、私自身が王位を望むことは万にひとつもありません。どうか、それをお忘れなく」
それは、穏やかでありながら、断固たる意志だった。
* * *
その日の午後、バルコニーで風に当たっていたところに、もう一人の弟――カインがやってきた。
「兄上、相変わらずですね。風景なんかを描いて、いったいなにが楽しいんですか?」
「うーん、そうだな。絵にしようと見つめていると空気を感じられることかな。
……それより、君こそ少し落ち着いてきたかい?」
「……何の話ですか……」
すました顔だったが、耳が赤い。分かりやすい性格は、ある意味でテリウスには羨ましかった。
「もちろんわかっていると思うが、アリア嬢を手放したのは、君だよ。
だが……今もどこかで『僕のものだった』と思っていないか?」
「……そ、そんなこと……」
さらに真っ赤になるカインを気にせず、テリウスは話を続ける。
「彼女は、君の“もの”になったことは一度もない。愛を得るというのは、そういうことではないと……そろそろ気づいてほしいな」
テリウスの声は淡々としていたが、言葉のひとつひとつには芯が通っていた。
対するカインは、すぐには反論しなかった。ただ、唇を噛み、視線を逸らす。いつもなら何かしらの言い返しがあるのに、今日の弟はどこか違っていた。
「……あのとき、僕は……」
カインがぽつりと呟く。
「彼女が僕のもとにいて当然だと思っていた。子どものころからずっと、僕の隣にいたのはアリアで……」
その声には、幼さとは違う、傷のようなものが滲んでいた。
テリウスは黙って聞いていた。王族としてではなく、一人の兄として。
「でも、気づいたときにはもう、彼女は兄上の隣にいた。……あんなふうに、穏やかで、まっすぐで……。僕の知らない表情をしていたんだ」
指先が無意識に拳をつくる。悔しさか、それとも未練か。
「アリアは僕のものだった。……少なくとも、そう信じていた。でも、今思えば、僕は彼女の本当の気持ちを、何も見ていなかった気がする」
それは、珍しく正直な告白だった。
だが、テリウスは静かに首を振る。
「“ものだった”という表現が、もう間違っているんだよ、カイン」
「……」
「誰かの心を、“所有物”のように扱ってはいけない。たとえ相手が幼なじみであれ、許嫁であれ、心は勝手に手に入るものじゃない。大事に育てて、寄り添って、ようやく結ばれるものだ」
カインの表情がわずかに揺らぐ。そんな兄の言葉を、いったい何度聞いてきただろう。けれど、今日のテリウスの言葉は、なぜか胸の奥に重く沈んだ。
「……ミレーネは、僕のことを信じてくれています。僕も……彼女を大事にするつもりです」
少しだけ顔を上げて、カインはそう口にした。アリアのことを引きずりながらも、今の自分に差し出されている愛情に応えたい、という気持ちはあるらしい。
だが、テリウスの返事はやや皮肉めいていた。
「“つもり”か。……まあ、いいさ。彼女を裏切らないことだ」
「……兄上、そんな言い方をしなくても」
「本気で彼女を守りたいなら、“つもり”なんて言葉は出てこないはずだよ」
カインは返す言葉を失い、黙り込んだ。
その沈黙を破るように、テリウスはふと、やわらかく微笑む。
「けれど、君はまだ若い。いくらでもやり直せる。……だからこそ、軽々しく誰かの心に手を伸ばすべきじゃない」
「……」
「そして、ミレーネ嬢は見た目よりもずっと繊細な子だ。……表面だけをなでるような優しさで付き合えば、いつか取り返しのつかないことになる」
その言葉には、単なる忠告以上の真剣さがあった。王族としての名誉より、人の心の在り方を重んじる、テリウスらしい思慮の深さが滲んでいた。
「兄上って……ほんとに不思議な人ですよね。王子なのに、まるで王家の外にいるみたいだ」
「僕はもともと、王位なんて興味がない。……だからこそ、冷静に見えるのかもしれないな。君のことも、アリアのことも、そして……君がこれから何を選ぶのかも」
テリウスは再び、視線をスケッチ帳に戻した。
兄の言葉が、風のようにカインの胸をかすめていった。涼しげでありながら、どこか痛みを伴う風だった。
* * *
夜。
王宮のギャラリーでは、テリウスが絵筆を持っていた。描いていたのは、兄ユリウスとアリアの後ろ姿。祝祭の夜、彼らが並んで歩いた中庭での光景。
手を繋ぐでもなく、ただ肩を並べて、同じ方向を見ている二人。
「――あれが、王と妃のあるべき姿かもしれないな」
そう呟きながら、テリウスは描き続けた。
自らは王位には興味がない。
だが、兄の未来が輝くものであるようにと。
弟の背中が、静かにその希望を背負っていた。
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