湯船だけのヒーロー

ゆらゆた

湯船だけのヒーロー

「今日もちゃんと掃除しといたから」


そう言って、達也はタオルを肩にかけたまま、どこか得意げに胸を張った。涼香は冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、まばたき一つせず彼を見つめる。


「……また湯船?」

「そうそう! ちゃんとスポンジでこすって、ピカピカにしたよ」

「へぇ〜。でもさ」


コップに注いだ麦茶をひとくち飲む。冷たさが喉をすべっていくあいだ、涼香は言葉を選ぶ時間をもらっていた。


「私たち、湯船、使ってないよね?」


達也は「え?」と首をかしげた。気づいていない。自分が掃除してるそれが、誰にも使われていない“オブジェ”になっていることを。


「ここ半年、毎日シャワーだけだよ? 私なんて追い炊きのボタン、場所忘れかけてるし」

「でも掃除は大事だろ?」

「うん、大事だよ。使ってればね」


沈黙が流れる。冷蔵庫のモーター音だけが、部屋の中でがんばっている。


涼香は麦茶をテーブルに置いて、ゆっくりソファに腰をおろした。


「達也さ、なんで洗濯物は放置で、ゴミ出しも私任せで、ごはん作っても『ありがとう』ひとつ言わないのに、湯船だけはやたら誇らしげに掃除するの?」

「だって、あれなら俺にもできるし……わかりやすくキレイになるし……」

「なるほど、“できること”を“やってる感”に変えて、自分にポイントつけてるんだ」

「なんか言い方きつくない?」


涼香はソファに横たわり、天井を見つめた。


「じゃあせめて、掃除したあと湯船に浸かってみたら?」

「いや、暑いし……」

「ほら、使ってないじゃん」


達也が黙る。部屋の空気が少しだけ重くなる。


「達也が湯船を洗うのは、家事のつもりじゃなくて、自己満足なんだよ。それを“俺すごい”って顔されても、私には伝わらない」


言ってしまった。

けれど、どこかスッとした。まるで、誰も入ってない湯船の栓を抜いたみたいに、たまった水が音もなく流れていくような感覚だった。

達也はしばらく無言で立ち尽くしていたが、やがて小さくつぶやいた。


「……次、洗濯、やってみるわ」


涼香は、彼が本当にやるのかはわからないと思いつつ、ちょっとだけ目を細めた。


「うん、それなら“ありがとう”って言えるかもね」

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湯船だけのヒーロー ゆらゆた @yurayuta

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