第二章 湊鼠の湖

 西湖では早乙女の指示のもと、捜索が進んでいた。

「早乙女先生。お手伝いに来ました。赤城さんが怪我で動けないので代わりです」

 狐堂が声を掛けると、憔悴しきった医師はそれでもけなげに対応している。昨日からほとんど寝ずに大山の看護をし、落ち着いたところで担当医の南に代わって仮眠を取った矢先の失踪騒ぎだ。それでも病院職員で探したが見つからず、今は近くの村の消防団に協力してもらい、捜索範囲を広げて探しているという。

「申し訳ありません。それでは早速、狐堂さんには、職員と一緒に西湖の湖の中を探していただきたい」

 すでに数人がボートを出していたので、狐堂もそのうちの一艘に乗り込んで懐中電灯で照らしながら湖を捜索した。同乗の職員は厨房の人間だった。

「すいませんね。なんか取材で見えられたんでしょう。来る早々こんなことに巻き込んじゃって」

 実直そうな職人といった印象の男だ。

「大山さんってどんな方なんです」

「私は板前で患者さんの病気のことはわからないんですが、手術前は食堂で食事を取られていらっしゃいましたからね、何度かはお会いしました。何でも東京で自動車修理工場を経営なさっているとかで、刺身のお好きな方でしたよ。年は七十をかなり越えていて、腫瘍が出来ているので、それをとるとか言ってましたっけ」

「手術がうまくいかなかったんですかね」

「それはないでしょう。あの早乙女先生が執刀したんですよ。それに東京からその専門の医師も招かれていたし、厨房にも手術後一週間で重湯から始まる食事の用件が廻ってきましたからね」

 職人の言葉によれば失踪する理由はなさそうだ。西湖は富士五湖の中でも小さな湖だが、夜中の九時、十時に探すともなれば広く感じてしまう。湖の岸にはホテルやペンションが点在しているが、まばらな印象で建物からの光はあてに出来ない。さっきまで祭りでにぎわっていた河口湖とは趣が違う。十二時を廻った時点で早乙女が地元の消防団と協議して、捜索を明日の朝八時からにすると決めた。狐堂も明日、もう一度来ると伝えて泊まっていたワンルームマンションに戻った。

 病院の体制に問題はないか、ベッドに転がって考えた。職員の話では、回復に良いというので、病院敷地内、または病院の前の湖の岸には、散歩程度の外出は大いに進めているという。またこの日は河口湖の湖上祭で、付き添いがあれば花火見物に出かけてもいいということで、患者の家族もやってきて、病院はかなりごった返していたという。孤堂は午前中しかいなかったから知らなかったが、午後からは見舞客があふれていたそうだ。

 大山は四時の検温にはベッドにいたことが看護師の記録に残っているが、その後七時に巡回したときに姿が見えなかった。トイレにでも行ったと思い、その後三十分ほどして再度、見に行ったが戻っておらず、この騒ぎになった。つまり、四時から七時までの三時間の間に、人ごみに紛れて外に出たことになる。たぶん一番人の出入りが多い時間だ。出ていくにはもってこいだ。人混みなので監視カメラにもはっきりしない。

 翌日八時少し前に病院に着くと、黒塗りのベンツが入り口を塞ぐように止まっていた。出迎えた職員に横柄に対応する人間は年のころは三十半ばか、傲慢を絵に描いたような人物だ。うやうやしく中に通されていく様子を、脇のドアから狐堂は眺めていた。

「早乙女は何をしていたんだ」

 男は怒鳴った。現れた早乙女は挨拶をしたが、それに返事もせずに怒鳴りつける。

「お前がぼんやりしているから、病院の評判に傷がつくだろうが」

「申し訳ありません。今、御家族の方もこちらに向かっていらっしゃるということで、八時になれば地元の消防団の方々も来てくださることになっていますし、もっと広範囲に探せばきっと見つかると思います」

 怒鳴られても早乙女は穏やかに受け答えをする。

「見つからなかったら、お前の責任だからな」

「あの、早乙女先生はきちんと対応なされていました。第一、あの患者さんは南先生の担当ですし」

 脇から看護師佐々木圭子が早乙女の弁護をするが、男は聞いていない。怒鳴りながら病院の奥に消えていく。ややあって狐堂は圭子を捕まえた。

「今の人は」

「あの人ですか。兵頭真人さんですよ。ここの病院長の息子さんで、理事長をしています」

「ふーん、親子二代の医者か」

「いえ、あの人は医者じゃありませんよ。本当はね、院長先生は息子さんを医者にしたかったらしいんですけど、あの人は経済学部に行っちゃって、今じゃここの経営を、一応、任されているんです」

 佐々木の説明で狐堂は合点が行った。院長の息子だからあんな若造でも態度がでかいのだろう。横柄な口の利き方、ぞんざいな態度、人を見下した目、そのすべてが狐堂のもっとも気に喰わないタイプだ。

 そうこうしているうちに家族が来た。六十に手が届いた感じの中年女性とチンピラといっていい男だ。男の方の年は狐堂と大して変わらない。身なりもごくありふれたジャケットにチノパン、女性のほうはブラウスとスカートにニットのサマージャケットを羽織っているが、ごくごく平凡な庶民だといえる。あわてて駆けつけてきたからなのか、髪もやや乱れ、はいているものもつっかけだが、乗り付けた車はこれ見よがしに金をかけたようなベンツだ。それほどまでに混乱しているのか。早乙女が駆け寄りなにやら説明を始めているがあまり納得していない。男のほうが院長を出せなどと怒鳴っているので、ひとまず別室に通すようだ。あわただしく人が呼ばれ、圭子も狐堂のそばを離れた。

 さすがに狐堂も取材するのをためらった。もしかしたら行方不明者は死亡しているかもしれない。そんな状況で家族から話を聞くことは節度を欠いた行為だ。まだ家族ではなく、親族か知人でも着ていればそこから話を聞けるのだろうが、そんな人物は到着していなかった。

 結局八時というのにまだ出発の号令がかからない。消防団の男たちは湖のそばで手持ち無沙汰にしていると、誰かが叫んだ。

「人が浮いてる」

 多数の視線の先にうつぶせになって浮いている塊がある。消防団の男たちが観光用の手漕ぎボートを引き出し、岸に浮遊物を誘導する。その正体は誰もが想像したとおり、大山源蔵の遺体だった。長い間水の中に浸かってために生前の面影はなく、膨らんだぶよぶよとした肉の塊になっている。野次馬の多くが目をそむけ、医者が駆け寄ったが一目見ただけで死んでいるのがわかるだけに手を出さない。先ほどの家族が出てきたが、男のほうは一瞥しただけで顔を背け、女性のほうはその場に座り込んだ。

 狐堂はこのよくある愁嘆場を冷静に観察していた。最悪の事態にインタビューも出来ないが、手元のカメラですばやく写真だけは撮った。そのうち野次馬の誰かが死体に触れようとしたので、狐堂は怒鳴った。

「触るな、現場保存だ。誰もそこに近寄るんじゃない」

 人波がさっと引く。誰もが狐堂のほうを振り向き、空気が一瞬止まる。

「警察が来るまで、この死体に触れてはいけない。もしかしたら事件かもしれないし、そのためにも現場保存は最優先だ」

「あんた、警察か」

「新聞記者だ、こういうことには慣れている」

 とりあえず狐堂は現場写真を撮っておく。社員でもないし、中途採用ではあったが、一応、研修は受けていた。その新人研修のとき、事件現場に着いたら、すぐに撮るように教えられた。それが取材の第一歩だ。

 死体は十時間以上、水に浸かっていただろうと、狐堂は判断した。作務衣のような簡易な寝巻きの腹の部分にかなりの石が残っている。石を抱いて入水自殺したように見える。いくら湖の底であっても、夏場では腐敗が進むから、体内にガスが溜まり、浮力で浮いてくる。少々の石を重石がわりに抱いたとしても、沈んだままということはできない。浮かばないようにするには相当量の重石か、それとも零度に近い水温の湖底に沈まない限り難しい。たぶん昨日はまだ体内にガスは溜まっていなかったので、浮かんでこなかったのだろう。湖上を捜索してもそれらしい影も見つけることは出来なかったのはそのためかもしれない。

 ものの二十分もしないうちに警察が到着し、担当医や発見者から事情を聞いていく。狐堂も先ほど撮ったフィルムを提供した。もっとも、もう一本別に自分用に撮ってあるのだが、それは秘密にしてある。

「もうかぎつけたのか」

 不意に声を掛けられ振り向くと、暑苦しい顔があった。昨日、狐堂を筋の者と勘違いした土屋警部補だ。

「おれは元々この病院の取材で来たんだ。ここじゃ人手不足で交通課が何でもするのか」

「そうか、おれは元々刑事事件を追うデカだ。交通整理は手伝いだよ。おい、ここで事件の臭いでもするのか」

「今度の取材はもっと高尚で社会的なものだ。最新医療の実際と今後の展望と課題がテーマでね」

「元暴走族の暴力ブンヤが」

 土屋が勝ち誇ったように言った。狐堂の眉間にしわがよる。

「調べたのか」

 ついて回る前科、すでに服役も終わって綺麗な身になったと刑務官に言われてあの扉を出てきたというのに、まだ纏わりつかれている。

「勿論だ。こんな静かな田舎を荒らされたくないんでね。県警から鑑識を呼んでおいたから、じきに死体を動かせるだろう。観光シーズンに無粋なものを野晒しにしておけないからな。まぁ、おれの見たところではあれは自殺だ。担当の医者にも、おれはもう死ぬなんて洩らしていたらしいし、看護婦も聞いている。病苦で自殺、決まりだな」

「急いてはことを仕損じるって言うぜ」

「だったら抱きかかえているあの石はどう説明つけるんだよ。さっきうちの警官が病院のスリッパを岸で見つけたぜ。これだけ状況が揃っているんだから、百パーセント、自殺でけりだ。ハイエナのようにかぎまわるのは止めて、さっさと帰るんだな。ここはお前さんが出張ってくるような無法地帯ではない。のどかでゆったりと時間が流れる田園風景だ」

「ここでおれは引ったくりにあったぜ。昨日財布を奪われた」

「その程度のチンピラはどこにでもいるさ。夏場は多いんだ。届出をだしておけばもしかしたら見つかるかもしれない。可能性は薄いがな。邪魔になるからどいた、どいた」

 土屋は野次馬を蹴散らすように陣頭指揮を執る。この調子では記者発表のときにどれだけの情報が明らかになるかははなはだ心配だ。狐堂はバイクから望遠レンズを取り出し、少し離れたところから取材することにした。ついでに昨日とったデジカメの映像もチェックする。昨日の引ったくりは画像で見る限り四人、鮮明な画像は少なく、狐堂が追いかけた若い痩せた男だけが比較的鮮明に写っている。あの男なら画像がなくても似顔絵が描けるくらいに覚えている。まだ若い男、というより少年だ。年は十四、五くらいか、高校生とは思えない。背はあまり高くなく、肉付きも良くない。顔色もあまりよくないし、一見して栄養状態がいいとは思えない。だがそれを補うほど整った魅力的な顔立ちをしている。通俗的にいうハンサムという言葉が似つかわしい。十五前後の年齢からすれば、アイドル系の美少年といっていい。鑑識が到着するのに時間がかかっているので、狐堂は関係者のウオッチを始めた。

 土屋警部補、どこにでもいる四十台の男、どちらかといえばブ男に属する中肉中背のさえない男だ。水死体の家族は二人、六十前後の女性は妻だろう。気分を悪くしたのか、病院から折畳みの椅子が持ち出され、そこに座ってハンカチで顔を覆っている。小太りでごく当たり前の下町のおばさんという感じだ。背は百五十センチそこそこ、その割に胴周りは立派だ。その脇に立つ三十半ばの男は多分、息子。いらついてタバコをひっきりなしに吸っている。背は百七十くらいか、やせ型でやや猫背、一見してチンピラといういでたちだ。兵頭真人は一度現れたが、家族を一瞥してすぐに病院内に戻っていった。現在は早乙女が渉外を受け持っているらしい。穏やかな物腰で、人々の間を行きかい、話を聞いている。近在の消防団の男たちはすでに帰宅し、今は病院関係者と警察、少々の野次馬しかいない。

 死体発見から四十分が過ぎて、ようやく鑑識一行が到着した。さすがにそこはプロの仕事で、手際よく周りを改め、証拠らしきものを探し、遺体を検分した後、ストレッチャーに載せる。狐堂はさっと近寄り、訊ねた。

「どうですか」

 相手は狐堂を刑事か何かに勘違いしたらしく、事細かに報告してくれた。死後十二時間以上たっている。解剖を待たなくてははっきりしないが溺死の可能性が高い、等々情報を教えてくれた。

「お前、何をしている」

 当然、土屋がそれを黙ってみているわけがない。見つけるとすぐに飛んできて、鑑識と狐堂の間に立ち塞がった。

「あれ、こちらの方は富士吉田署の方じゃないんですか」

 鑑識課員が不思議そうに聞く。

「こいつは元暴走族のチンピラだ」

「それはないぜ」

 何がチンピラだ、これでもれっきとした新聞記者だと孤堂は睨み返した。

「うるさい。これ以上うろつきまわったら、記者発表のとき、締め出してやるからな」

 相当の剣幕で怒鳴りたてる土屋に閉口して、狐堂は退散した。しかし、十分な情報は集まった。近くのカフェでデジカメ映像をパソコンに取り込んで記事を作る。第一報を入れなくてはいけないが、まだ自殺とは決め付けない。

 自殺である。状況的に自殺だといえる。手術をして四日後、まだ術後の経過も万全ではない時期だ、うまくいったか不安になる。それでなくても錯乱し、自暴自棄になっていたと看護師たちはいう。大きな手術の後にこうなる例それほど珍しいことではない。それは狐堂も今までのいろいろな取材の際に見聞きしていた。土屋も自殺だという。県警の鑑識も自殺でしょうと言った。だが、ざわめく。なんとなく心がざわめく。自殺、状況がすべて自殺だといっているのに、心にしっくりこない。狐堂はデジカメの写真を何度も見返したが、別に変わったところはない。ごくごく普通の自殺風景。それがかえって引っかかる。それはさっきから野次馬たちが口にしていた、『呪いの映像』という言葉が呼び込んだ疑問なのかもしれない。

 記事を送ってしばらくして返信の電話がかかった。

「これで記事になるか」

 勿論、電話の主はキャップの大森だ。

「まだ自殺かどうかわからない」

「だったら警察署に張り付いて記者発表を聞いて来い」

 ごもっともです。しかし発表を聞いても、多分、自殺だといわれるだろう。このなんとも言えない心のささくれは一体何を意味しているのだろう。狐堂はバイクにまたがって、富士吉田警察署に向かった。

 昨日会った地元の有線テレビのクルーも来ていた。あと、地元紙と、タウン誌の記者が寛いだ様子で警察署の前の植え込みの前で座り込んでいる。

「たたりですよ」

 有線のカメラマンが口を切った。

「まさか、そんな」

地元紙が笑う。

「それが結構重要なタレコミがありましてね。あの仏さん。お化けを見たんですよ」

「怪談話でしょ。よくある話じゃありませんか」

「そんなもんじゃありません。何でも夜中にベッドサイドのテレビが勝手について、そこに自分の手術の映像が流れるんです」

「わ、グロ」

 タウン誌のカメラマンが大仰に怖がる。

「それもただの手術じゃなくて、自分の腹の中に腐った人の手首を入れられている映像なんですよ」

 有線の説明に、面々は頭の中でその光景を想像し、一様に目をそらした。

「それで、仏さん、大騒ぎして中の手をどけてくれと言ったらしいんですが、いくらCTスキャンしてもそんなものは見えない。で、幽霊に取り付かれたって思い込んで死んでしまった。と、そういうわけです」

「ハイテク時代の幽霊ってわけか」

 狐堂は呆れたように呟いた。彼は幽霊の存在を信じるほど、非現実的な人間ではない。すべての超常現象が今は解明されなくても何かしらの作為か、自然現象であると信じている。

「そんなに言わないで下さいよ。あの病院には何かある。今までにもタレコミがあって、そりゃホラー映画、真っ青の幽霊が出るんだ。それもすべてテレビ映像として」

 話し好きのカメラマンらしく、その話を延々とする。警察発表はなかなか始まらないし、狐堂を除いて皆地元の人間で顔見知りということもあって話に花が咲いている。最初は孤堂の存在もあって標準語で話していたが、話に熱が入ると、語尾に変わったイントネーションが入り、接尾語が聞き慣れないものになる。孤堂は方言だと気付いたが本人たちはそれほど意識しているとは思えない。

 ようやく警察の動きがあって狐堂たちは中に呼ばれたが、会議室といったところではなく、免許証の受付の前の少し広いところで、広報官が読み上げる文章をメモする羽目になった。

 大山源蔵、七十二歳。悪性腫瘍の摘出のため、この病院で手術を受けた。本人には良性の腫瘍だと告げている。腫瘍は広範囲に広がっており、手術は成功したが、予断の許せない状況だった。手術三日後の夜中、精神錯乱に陥り、鎮静剤で落ち着いたものの、自分はもう死ぬと口走り、興奮は完全には冷めなかった。病院が見舞い客でごった返し忙しくなった四時から七時の間にベッドを抜け出し、石を懐に抱いて入水自殺をした。遺書はなかったが、争った後もなく、履いていたと思われる病院のスリッパは湖畔の岸で見つかっている。この案件は自殺ということで処理される。

 簡単な発表で皆、淡々とメモを取り、テレビカメラを回している。ここは青木が原の樹海が近いためか、自殺は多い。自殺が日常茶飯事なので皆、あまり気に掛けない。発表が終わると急ぐでもなく、ぞろぞろと出て行く。狐堂は有線テレビのカメラマンを捕まえた。

「あの幽霊騒ぎ。本当なのか」

「あ、確かですよ。東京じゃお化けは出ないんですか」

「おれは見たことがないが。そのタレコミ、何度もあったって」

「ええ」

「誰が」

 狐堂に詰め寄られて、カメラマンはちょっと引く。狐堂の目つきの悪さは暴力団の比ではない。目つきの悪いやくざがこちらを見張っているという通報で警察が駆けつけると、取材で狐堂が張っていただけ、ということが何度もある。その警官にやくざのほうがずっと愛嬌があるといわれたのも一度や二度ではない。

「そんなに睨まないでくださいよ。電話ですよ。電話でいいネタがあるってかけてくるんです」

「勿論、金を要求するんだろ」

「当たりですよ。ま、一回一万と決めているんですけどね。そこでこの手のネタを出してくる」

「相手の名前とか聞いていないか」

「そんなもの言う訳ないでしょう。パシリのガキが写真を持ってきて、金を受け取る。電話の声は土地の人でしょうね。話し方に訛りがあるから」

 チンピラの小遣い稼ぎというところか。

「ネタは本物なんですかね」

「かなり確証は高いですよ。それで病院に取材を申し込んだんだけど、すげなく断られましたよ。その上あの理事長って言う若造が、名誉毀損、営業妨害だとかすごい剣幕で怒鳴りまくって、おれたちは追い出されてしまいましたがね。でもね、看護婦の話じゃ、どうも本当にあったらしくて、今度のこともそのお化けでおかしくなっちまった患者が突発的に湖に飛び込んだんじゃないかって、もっぱらの評判ですよ」

 気のいいカメラマンは自分のスタジオに戻り、狐堂は昨日盗られた財布の件を届けるためにまた警察の建物の中に戻った。受付の女性に渡された書類に書き込んでいると土屋が出張ってきた。

「財布ねぇ。本当に盗られたんだ」

 上から書類を眺めている。

「二千円ぽっちしか入ってなかったのか。他にクレジットカードとか、免許証なんか入ってなかったのかよ。あんたね、そんなちんけな盗難届、出さないでよ。こちらは忙しいんだから」

 言われて狐堂は手を止めた。確かに小銭だ。祭りの屋台を覗くだけだから貴重品は持っていなかった。カードや取材費等が入った札入れはバイクの物入れの中の鍵がかかる仕切りに入れておいた。だからあの財布が盗られてもそれほど困ることはない。ただ一枚の写真を除いて……。

「中に写真が入れてあったんだ」

「はい、写真ですね」

 受付の女性が気を利かせて代わりに書類に書き込む。

「届けは受理しましたので、見つかりましたらこちらから御連絡いたします」

 事務的ではあったが、女性はにこやかに笑っている。若い女性にはあまり土地は関係ないらしい。持っている小物は東京でも流行っている類のものだし、話し方、しぐさもあまり変わらない。

「出てくるもんか」

 土屋が捨て台詞を吐く。正確には出て行くのは狐堂のほうなので、捨て台詞とはいえないのだろうが、その言葉に反論しても始まらない。実際、すられたり盗られたりした財布が出てくることは少ない。しかも彼の財布はただの何の変哲もない合成革のパスケースでいかにも安物だ。しかもかなり使い込んでいたから、ごみと扱われても仕方がないような代物だ。通常犯人は足がつくことを恐れて、現金だけを取って残りはごみ箱に捨てる。そうなればよほどの高級品でもない限り出てこない。

「そうさ、所詮、写真の一枚くらい」

 声に出して呟く。所詮写真だ。それもかなり古い写真。ただ、それが彼の両親と写っている唯一のものだということが問題なのだ。

 父が女と家を出ていったとき、母は半狂乱になって父の物を処分した。父が写っている写真も例外ではなく、そのすべてを、記憶さえも捨て去ろうとした。あの写真はたまたま狐堂がノートの間に挟んでいたので、捨てられずにすんだ。実際、父が失踪して数年たった後、孤堂が自分の荷物の整理をするまで、狐堂自身がその存在を忘れていたくらいだった。おかげで母に見つからずにすんだのだろう。狐堂が生まれた村の近くの町の写真館で記念に撮った写真のテストとして、コンパクトカメラで撮った一枚だ。狐堂が写真館の主人からおまけだと言われて貰ったものだ。狐堂が八歳、母は今の狐堂より若く、父はちょうど同じ年だ。

 母は父の影をすべて捨て去ったはずだった。唯一残ったものは狐堂自身だった。狐堂は幼いころはまだ母親に似たところがあったが、長ずるにつれ、だんだんと父に似てきた。今、あの写真に写る父と自分を区別することは難しい。母は息子を見るたびに自分を捨てた男を見ることになる。彼女はどんな思いで狐堂を育てたのだろう。顔立ちも体つきもその声さえも父親に似てくる自分の息子に何を見ていたのだろう。

 狐堂は幼いころ、父が憎かった。母が父のことを悪し様に罵る言葉を鵜呑みにしていたが、少しづつ、疑問が湧いてきた。父はなぜ母と自分を捨てたのか、父と母の間に何があったのか。幼いころの父の思い出と、母親の言う父親像がずれていく。あれは幼いがゆえの思い込みで、本当の父は鬼のような男だったのか。神社の境内でキャッチボールをしてくれた男は母が言うとおり、孤堂の勝手な想像なのか。そうあってほしいという孤堂の作り上げた偶像なのか。それは今でもわからない。いつか会ったら確かめてやろうと思い、手近なところに入れておいた。あれから四半世紀近くたつが、会えない。生きていれば父は五十六歳、今、どこかの道路ですれ違ってもわからないかもしれない。自分自身の二十数年後が想像できないことと同じように、今の父はどんな風に変貌しているか、見当もつかない。

 今、父親に会ったら、どうしたいのだろう。殴りたいのか、怒鳴りたいのか、それとも殺したいのだろうか。父は憎悪の対象なのか、思慕なのか、憐憫なのか。会いたいのか、会いたくないのか、それさえもわからない。父がまだ家にいたころ、父は大きな存在だった。体も声も力も子供の孤堂にはかなわない大きな男だった。酒を飲んでは暴れまわり、どなり散らしたあの男、あの男は自分の子供である孤堂よりも趣味のバイクを大切にしていた。孤堂はもう子供ではない。今ならあの男にかなうだろう。腕も力も大きさも、殺すことさえも可能だ。だからといって殺したいのか、殺したくないのか。

「未練だな」

 狐堂は自嘲的に笑うとバイクにまたがって手近な店に行き、テーブルに陣取りパソコンで記事を作り始めた。デジカメの画像とともに大森にメールで送る。すぐ折り返しに電話が鳴る。

「警察発表では自殺なんだろう。さっさと戻って来い」

「まだ湖上祭の取材が残っている」

「あれか、いつまでだ」

「今晩、湖上祭の実行委員の反省会がある。それに呼ばれているんだ」

 電話の向こうで安堵のため息が漏れる。それを孤堂は勝手に了解の意味に解釈する。

「大森、頼みがある」

「取材費は振り込んでおいたが」

「ついでに本社のラボで兵頭総合病院について調べて欲しい」

「はぁ、まさかあの自殺が事件だなんて言い出すんじゃないだろうな」

「お前、やはり長い付き合いだな。よく判っているじゃないか。何か判ったらおれのパソコンにメールで送ってくれ。それと西湖の病院の設立のいきさつとか、その工事関係者、後、元ホテルだって言ってたから、そのホテルの元の持ち主や経営者についても資料が欲しい」

 長い沈黙が流れた。大森が電話の向こうでどんな顔をしているか、想像して狐堂は楽しくなった。

「おれはパシリか」

 唸り声がした。東洋新聞社警視庁記者クラブ詰めのキャップをパシリに使うのは、多分狐堂だけだろう。狐堂の生まれ故郷の村が水没して、母親の実家を頼って上京して以来、狐堂は近所に住む大森をこき使ってきた。高校でぐれた狐堂と違い、まじめにこつこつ勉強する大森は名門大学に進学し、新聞社に入社した。その後もごく順当に昇進している。片や狐堂は高校時代ぐれて暴走族に入り、高校を中退、かつ上げなどで補導され、高等少年院に放り込まれた。その後自衛隊に入るも、上官とうまくいかず、日本を飛び出して海外をウロウロし、紛争地域で従軍していた通信社の記者にくっついて従軍記者のまねごとをしているうち、新聞社に中途採用された。その手助けをしたのが大森であったが、二人の関係は上司と部下という立場を逸脱している。幼馴染の気安さがそのまま職場に出ている。表向き主従関係は逆転したが、実際のところ、今だに暴れん坊と苛められっ子に近い。

「まさか、お前を長年の友人だと思っているよ。頼りにしてるぜ」

 苦々しく絞り出すような声が、判ったとスマートフォンから流れたのを確認すると、狐堂はそれをポケットにしまった。

 しばらくして店を出て借りたマンションに戻った。何もすることがなく、景色をぼんやりと眺めていた。穏やかな、しかも冷涼な気候で過ごしやすい。部屋にクーラーは付いていたが、狐堂はここに来てスイッチを入れていない。そのくらい過ごしやすい場所で、人の行きかいもゆったりとしている。今も下の道路で腰の曲がった老人が背負い籠にいっぱいの野菜を詰めて、ゆっくりと歩いている。大半はトウモロコシのようだ。湖の端が少し望めるが、そこにも人影が見える。多分、観光客なのだろう。のんびりと湖畔を散策している。

「田舎はいいな」

 羨ましい、とそんな感慨がある。ここは時間が都会よりゆったり流れている。勿論、一日二十四時間は二十四時間だし、出勤時間や登校時間は似たようなものだ。それでも人々の時間感覚は都会のそれとは違っている。受付で待人がいても、その奥で談笑し、お茶などすすっている。顔見知りがいると話し込んでいるのも、仕事場にあるまじき行為だが、そんなものをとがめる空気はない。コンビニで買い物をしても、いわゆるマニュアル通りの対応ではなく、昔の小売商店の親父やおばさんを連想させる。笑ってしまうのはファストフードでさえ、都会のぎすぎすしたてきぱきさが抜けているのだ。普通待たせないだろう売れ筋の商品すら、待たされるが、地元の人間はそれをいらつくでもなく待っている。それを観光客がいらついて文句を言う場面を何度か見かけたこともあるが、それでもそれほど迅速になっているとは思えない。国道沿いに野菜や果物の露天が出ているが、地元の老人がのんびりととうもろこしを焼いていた。家族でやっているのか、小さな子供も夏休みで売り子をしている。半分は遊びで、半分は手伝い、そんな感覚で楽しんでいる。

 取材ならそんなもののほうが楽しい。ただ病院は田舎にあったが、中の時間は都会時間で流れているようだ。あそこは都会のサテライトのようなものだ。この場所の違和感が狐堂を捉えて仕方がない。

 小一時間ほどコーヒーとタバコでブレイクを取っていると、メールが来た。開封してみると兵頭総合病院の東京での規模と診療状況がまとめてあった。かなりしっかりとまとめてあったので不審に思ったが、その答えはすぐ判った。この病院の看護婦長と理事長、事務長が乗った車が事故に会い、多額の保険金を巡って保険会社と病院側がもめた事があったからだ。そのために事故を追っていた記者がこの資料をまとめていたわけだ。

 三年前、事故は起こった。三人に掛けられた保険金が総額十数億円にも及んだことから、報道も加熱し、関係者を追いかけたが、確たる疑惑が出てこなかった。大病院の幹部に掛けられた損害賠償保険が、相場の範囲内であったこともあって、報道は尻すぼみになったまま、保険金は支払われた。ただ、疑惑の塗りこめられた病院は経営がしづらくなったのか、移転が決まり、現在の西湖の新病院が翌年開業した。このあたりは早乙女の話とは食い違う。もっとも早乙女にしても、わざわざ病院の陰になるようなことを喧伝することもないと思ったのだろう。資料によるとかつて兵頭病院が立っていたあたりに、高層ビルが乱立しているのは確かだから、早乙女が嘘を言ったわけではない。

 狐堂は送られてきた資料を読みながら、心のささくれを納めることが出来なかった。事故と今回の自殺には何の関係も見当たらない。場所も違えば、関係者も違う。状況も違うし、保険金に絡むこともない。関係があるとすれば、兵頭総合病院に係わりがあるということだけだ。

 まだ資料は入り口だ。事故についてのことも報道の範囲内だし、追加の資料を待つしかない。また知りたかったこの病院の前身のホテルについては資料が来ていない。事件がらみのものではないのか、ラボで調べられなかったに違いない。このあたりにも不況のあおりでシャッターの下りたままの店が目につくから、その類のものかもしれない。そうなったら調べようがない。狐堂は手持ち無沙汰になって、ふと、美也子のことが気になった。彼女のマンションは歩いていける範囲内だし、見舞いに行くつもりで出かけた。

 途中、花でも買おうと思いついたが、花屋はない。道すがら店を探していると、薬局の店先に植木鉢が並べられている。しかもその鉢には値札がささっている。

「ここは薬屋だよな」

 店の看板は立派に薬局の文字が掲げられている。確か通り過ぎた肉屋の店先にもキャベツやトウモロコシが並んでいたと思い出した。田舎は都会では思いつかないような、途轍もないことを平気でする。狐堂はアスターの植木鉢を買い、それを下げて美也子のマンションを訪ねた。もっとも、孤堂にその花の名前はわからなかったが。

「あら、何でしょう」

 インターフォンを鳴らした途端、美也子がドアを開けた。

「無用心だな、ドアのレンズを覗いて確認をすることをしないのか」

「あ、そうだった」

 笑って照れ隠しをする。

「田舎はうらやましいな。疑うことをしないでもいいらしい」

「いえ、そんなことないわよ。ついうっかりよ。それに私は地元の人間じゃないわ。まぁ、上がってください」

 ゆっくりと足を引きずりながら赤城は部屋に通してくれた。ゆったりとしたワンルームマンションで、折りたたみベッドを美也子は何とか畳もうとしている。

「かせよ」

 言葉を出す前に、手を出しベッドを椅子にする。美也子は微笑んでコーヒーメーカーをセットした。

 昨日は夜中に女性の部屋を訪ねるという居心地の悪さで、部屋をまともに見ていなかったが、午前中、明るい時刻での訪問で、見舞いという大義名分もあれば、気楽に過ごせる。質素ではあるが整理された室内、パソコンが目立つがごくありふれた女性の一人暮らしだ。時々友人でも泊まりにくるのだろうか、クッションやキッチンの食器は数が多い。

「地元の人間じゃないってどこの人だ」

「東京」

「おれもだ。おれは練馬に住んでいる」

「二十三区内ね。私はずっと外れの西東京市。なんか変な名前よね。西の東なんてさ」

 けらけらと屈託なく笑う。

「就職のためにわざわざこんな田舎にやってきたのか。他にいい働き口はなかったのか」

「あら、これでもいい就職だと思ったわよ。だってコンピューターのオペレーターって、なかなか働き口がないの」

 オペレーターとは思わなかった。白衣を着ていないから看護師や技師ではないのはわかるが、たぶん事務だと思い込んでいた。

「事務員じゃないのか」

「残念でした。これでも専門学校では結構いい成績だったんだから。病院でも本当はコンピュータールームで、病院の医療事務を管理するのが仕事なの」

「ふーん」

 そういえば早乙女の説明でも最新のコンピューター管理のシステムで、誤診をなくし、薬剤投与も管理されて、過剰投与の危険を回避していると言っていた。そのためにはそれを操作する人間が必要不可避なのだろう。

 それからしばらく、狐堂は美也子と雑談をしたが、さしてめぼしい内容は聞き出せなかった。コンピューター専門学校を卒業したのはこの春、そのままこの病院に入ったので、それ以前のことは何も知らないと言う。年は二十三歳、まだ学生気分が抜けないと自嘲気味に話す。

「でも、ここのところ、仕事が大変なのよ。同僚の一人が出産で三ヶ月くらい前からお休みしているの。困っちゃう」

「仕方ないだろ」

「判っているわよ。協力しなくちゃいけないってことくらい。少子化だものね」

 美也子はニコニコと笑う。都会から来たというが、地元の人と同様の、ゆったりした笑い方をする。

「もう生まれたのか」

「ええ、二週間前にね、可愛い男の子だわ。そのために別院の一部に、無理やり産婦人科の設備を入れて、彼女、流産しやすいたちだとか、あれ、切迫早産だったかな、何せ危ない体質らしくって、それで大騒動だったのよ」

 確か、早乙女も産婦人科や小児科を新設したいと言っていた。設備も搬入しているとか、それの先駆けと言うことなのだろうか。そうでなくてはたかが一人の出産のために科を新設するとは思えない。しばらく話して狐堂の携帯にメールが入ったので、部屋を出た。

 メールは大森からのもので、中身はさっさと仕事を済まして帰れとある。後、もう少し病院の取材を詳しくしろとあった。

「へいへい」

 孤堂は携帯電話をマナーモードにしてポケットに入れると、湖上祭実行委員会の打ち上げ会場になっているホテルの宴会場に向かった。孤堂はナンパをしに来たわけではない。もっとも飲み会が仕事かといえば、いささか疑問だが、そんなところから仕事の糸口がつかめるのも確かだ。それに孤堂は飲み会が決して嫌いではない。むしろ大歓迎だ。

 一次会は堅苦しいお歴々の挨拶が主で、飲む時間がほとんどなかったが、二次会と称して若い連中が近所の飲み屋に誘ってくれた。祭りではどちらかと言えば下っ端、パシリに使われている連中だ。

 途中、繁華街で兵頭真人を見かけた。その脇に大山の息子らしき男がいる。孤堂の位置からでは表情は見えないが、二人でなにがしか話し込み、そのままバーに入って行った。孤堂はそのバーの看板をケータイの写真で撮っておいた。会員制と書いてあるちょっと気取った場所だ。

「あいつら、顔見知りだったのかな」

 親が入院しているのだから、顔を合わせたことぐらいあるのだろうが、父親の遺体が上がった日に飲みに行くとはちょっと解せない気がした。いつまでも店に入らない孤堂を祭りの連中がせかしたので、庶民的な居酒屋に入った。

「大変だったでしょう」

 孤堂はねぎらいの言葉をかけてビールを勧める。

「ま、祭りは若い人間が支えていますからね」

「そうそう、おれたちがいなけりゃ何もできないんですから」

「座っているだけで何かぶつぶつ言ってるジイサンたちに何ができるんだよ」

 同感だと孤堂は思う。大森のようにずっと椅子に座っていて記事が書けるか、足で書くんだよと孤堂は心の中で吠える。もっとも若い連中の愚痴というものは上役のこき下ろしと相場が決まっている。本当に上の人間が無能かどうかは関係がない。

「おれたちがいるから樹海の死体だって浮かばれるんだよ」

 一人がおかしなことを言いだした。

「それってどういうことです」

 孤堂の食指が動く。

「樹海って自殺の名所でしょう。あれの死体、おれたちが捜索に協力しているんだよ。死体を見つけて運び出し、葬式出して埋葬する。成仏してもらうためにね。おれたちがしなきゃ、爺さんたちにあんな中に入れって言えないでしょう」

「じいさんたちを入れたら、姥捨て山だよ」

 皆がどっと笑う。

「中に入ると磁石が利かないから出てこられないということですか」

 うっそうとした森の中、方角がわからなくなる。頼みの綱の磁石も、磁性を帯びた岩があるので使えないと、よく聞かされた。

「いや、出てこれるよ」

 けろっとして一人が言う。

「だって磁石が狂うって」

「それ、嘘」

 別の男も笑っている。

「あのあたりの岩って磁性を帯びているのは確かだよ。でも磁石を狂わすほど強いものじゃない。ま、直接岩にくっつけたらそれなりに影響はあるだろうけど、磁力って距離の二乗に反比例するんだよ。だからちょっと岩から離したら影響はない」

「はあ」

 孤堂は今までの常識がひっくりかえったような気がした。

「それって誰でも知っていることですか」

「ここらの人はみんな知っているでしょ。ときどき青木が原樹海の特集やってて、レポーターが磁石のことを言っているのを聞いてこちとら、大笑いしているのさ」

 でもどこかの誰かが磁石が狂うとか本に書いていなかったか。それを鵜呑みにしている人間が日本の大多数だ。

「ま、自殺するやつがいちいち地図と磁石を持って入るとは思わないから、みんなが勘違いしていてもどうってことないんじゃないかな」

 能天気に誰かが笑う。樹海はかなり誇張されて喧伝されているらしい。樹海と言っても海ほどの規模ではない。かつては国道すら樹海の中はうっそうと木が覆いかぶさるようだったそうだが、今はすっきりと伐採されただの森になっている。

「あの程度の森は他にいくらでもあるでしょう。何もわざわざこんな所に来て死ななくても、うっそうとした森くらいちょっと探せば方々にありますよ。迷惑だから他で自殺してほしいくらいです」

 酒が進むと男たちは勝手な事を口にする。捜索のついでにキノコを取っただの、観光客の女の子に声をかけるだの、話はそれていき、そのうち孤堂の意識もわけのわからない方向に向かっていった。


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