第一章 中津留達雄大尉

 中津留達雄なかつるたつおについて、同じ隊にいた脇田教郎わきたのりお主計大尉は「戦時色の強まる中で、珍しく温厚な人柄」と語り、部下たちは達雄が最後に特攻に飛び立つとき、

「いつもの慈愛をこめた目で、私たちを見つめられた」

と伝えている。上司からも、部下からも、その人柄は親しまれていた。



 達雄は、大正十一年一月、大分県津久見の徳浦に誕生した。気候は温和、回りにはみかん畠などのゆるやかな丘陵が広がっている。達雄は親の反対を押し切って、海軍兵学校へ進学した。


昭和十三年十二月、海軍兵学校七十期であった。昭和十六年十一月同校を卒業した後、少尉候補生の期間、巡洋艦「北上」、さらに駆逐艦「暁」に乗り込んでいる。

 この「暁」は昭和十七年十一月の第三次ソロモン海戦で撃沈された。だが、二四六名の乗員のうちの十二名の生存者があった。その一人が達雄であった。達雄は少年時代から泳ぎを得意とし、夏になれば毎日のように海に繰り出していた。その結果、十六時間も漂流したあげく、無事生還、帰国する。

 その後、三十九期飛行学生となる。艦上爆撃機かんじょうばくげきき艦上攻撃機かんじょうこうげきき偵察機ていさつきなどの専修者は宇佐で、実践用の飛行機を使っての最終の訓練を受け、達雄は教官として、そのまま大分県宇佐市にとどまることになる。


 


 達雄は昭和十九年一月、宇佐航空隊付教官となる。達雄は当時日本海軍の持つ最新鋭の艦上爆撃機「彗星すいせい」のベテランパイロットであった。そして、宇佐空と言えば「地獄の宇佐空」「鬼の宇佐空」と恐れられていた。海軍といえば、体罰が日常茶飯事にちじょうさはんじであり、特に少年兵などに対し、野球のバッドで尻を叩く、精神を鍛えるなどという名目で当たり前に、殴る蹴るという体罰がおこなわれていた。だが、達雄の場合、穏やかな優しい人柄であり、部下に対しても部下思いであり、周りの人間から、親しまれていた。


 達雄の父・明は常日頃から、息子に

「無駄な死に方をするな。軍人だからいよいよとなれば、身は国にささげなくてはならぬが、生きていても、ご奉公はできるものだから」

と、言い聞かせていた。これに対し、達雄は、

「僕は決して、死に急ぎません」

と、答えていた。また、知人宛の手紙にこうも書いていた。

軍艦旗ぐんかんきの下に働く事の出来るのは実に男子の本懐だ」

と。


 二村治和ふたむらはるかず一飛曹は、達雄に宇佐の練習航空隊の教官として鍛えられる。二村は宇佐を出たあと、谷田部航空隊などを経て、国分へ。そして達雄に再会した。達雄に、

「何か家庭に悩みはないか。健康に問題はないか」

と尋ねられた。そのとき二村は足が疲労性肉腫ひろうせいにくしゅになっていて、痛みをこらえて、我慢がまんしていた。達雄は「すぐ医務室へ行け」と叱りつけた。二週間で全快した。達雄のもとでは、どんなことにも耐えよう、どんなことでもしようと二村は思った。

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