【第18話 吾輩はゴブである】
風が優しく草原を撫でる。
朝の空は高く澄み、太陽は静かに東から昇り始めていた。
ひとつの岩の上に、ゴブがちょこんと腰掛けていた。
膝の上には、使い古された手帳と、骨付きのペン。
隣には、手記の最後のページがそっと添えられている。
ゴブは深呼吸し、空を見上げる。
「ふぅ……書くのは、むずかしいのだ」
ページをめくるたび、爺の文字が目に浮かぶ。
まるで、ひと文字ごとに声が重なってくるようだった。
「でも、ボクも──書いてみるのだ。旅のこと、みんなのこと。……ボク自身のこと、なのだ」
ペン先が紙をなぞり、静かな筆致で文字が綴られていく。
その一行目。
『吾輩はゴブである』
ゴブはぴたりと手を止め、頭をかしげる。
「……ちょっと、偉そうなのだ……でも、なんか、しっくりくるのだ、ゴブ」
思わず笑いがこぼれた。
その笑みの中には、どこか懐かしい温もりが宿っていた。
丘の上では、ミレイの笑い声が風に乗って届いた。
シンの低い声もそれに混じり、遠くで笑い合う二人の姿が揺れていた。
「……この世界に、問いが尽きる日は来るのか、なのだ」
ゴブはぽつりと呟いた。
その問いに答えるように、朝の風が優しく頬を撫でる。
それでも今は、この手帳の中に、ゴブの全てを残したいと思った。
この旅のことも、出会った人々も、自分が何を感じ、何を見てきたかも──。
「書くのは、伝えるため、なのだ。記すことで、“誰か”に届くのだ……きっと」
ゴブの目がやわらかく細まり、ペンは再び走り出す。
──誰かの問いに、届きますように。
その日、ゴブは手帳に向かいながら、これまでの旅路を思い返していた。
燃える森、霧の谷、空を覆った黒い影。
問いの書を求め、村を巡り、さまざまな言葉と人々に出会ってきた。
そのすべてが、いまこの瞬間につながっている。
「……ミレイは、どうしてボクと一緒にいてくれたのか……シンは、あの時、なぜ拳を引いたのか……、まだ全部は、わからないのだ、ゴブ」
──あの霧の夜、ミレイが手を握ってくれたことも。
──あの焚き火の前で、シンが何も言わずに寄り添ってくれたことも。
すべてが、答えのない出来事だった。
だが、わからないことを、書くことで残す。
その意味に、ゴブは少しずつ気づき始めていた。
──わからないこと。それこそが、生きるということなのだ。
手帳の中には、爺の残した問いの断片も並べられている。
どれも答えがない。けれど、それを読み返すたびに、ゴブは自分の言葉で問い返していた。
「どうしてゴブたちは、歩き続けるのか?」
「なにが“正しい”ということなのか?」
「人と人じゃない者の違いって、どこにあるのだ?」
問いの書には、最後の最後まで“答え”が書かれていなかった。
爺は、書かなかったのではない。書けなかったのだ。
「答えは、一人ひとり、ちがうのだ。」
それが、ゴブがこの旅で見つけた、たった一つの“確かなこと”。
風がまた吹き、手帳のページをめくっていく。
その一枚一枚が、ゴブの言葉で、ゴブの目で綴られていく。
──これが、ボクの“問いの書”なのだ。
──いつか、この問いが、誰かに届くように。
日が完全に昇った頃、ミレイとシンが丘を下りてきた。
二人は穏やかな笑顔を浮かべ、ゴブの手元の手帳を覗き込む。
「書けたの?」とミレイ。
「うん、まだ途中だけど……最初の一行は、書けたのだ」
ゴブは小さく胸を張る。
『吾輩はゴブである』
ミレイがくすりと笑い、シンも珍しく口元を緩めた。
「立派な語り部だな」
「語り部、なのだ……ゴブも、そういうの、目指してもいいのかもなのだ」
ミレイがそっとゴブの頭を撫でた。
「きっと、あなたの問いは、いつか誰かを助けるよ」
風が三人の間を通り過ぎる。
この場所、この時間、この空気に、しばし誰も言葉を継がなかった。
やがてゴブが立ち上がり、手帳をぎゅっと胸に抱えた。
「いくのだ、ゴブたちの次の問いに」
ミレイもシンも頷いた。
三人は肩を並べて歩き出す。
草原の果てへと続く道の先には、何があるのかまだわからない。
だが、それでいい。
風が問いを運び、記録官は静かにそれを見届ける。
羽根ペンを静かに閉じ、本を一冊棚に戻す。
そしてまた、新たな物語が誰かのもとに届くのを、遠くで待っている──。
(了)
■あとがき
ここまで『吾輩はゴブである』を読んでいただき、本当にありがとうございました!
拙い部分も多々あったかと思いますが、そんな物語に最後まで付き合ってくださったあなたに、心から感謝です。
ゴブという小さなゴブリンが、一歩ずつ問いを記録して、言葉と出会って、少しずつ変わっていく姿。
そんな彼の旅が、あなたの中にも何か小さな余韻を残せたなら……それだけでもう、十分すぎるご褒美です。
またどこかで、お会いできますように。
ありがとう、ありがとう、なのだ!
『吾輩はゴブである 〜奇妙なバディ!異世界人と紡ぐ、知恵と絆の旅路〜』 椎茸猫 @Runchan0821
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