3025

魚木まる

第1話

 この街には、思い出がない。宇宙と地表の間に広がる果てしない孤独、それを聞き取る人さえも、もう誰もいなかった。砂埃が、煙突から排出される煙塵に変わって乾いた世界を支配する。廃工場や吹きさらしの団地の残骸が、忘れ去られた古代神殿のような趣をもって、ただ静かに朽ち果てるのを待っていた。例えばここから見える箱の一つ、その細胞のような窓に目を凝らしてみるといい、そこには、確かに人が住んでいたのだろう。ぼろ布が掛かっているのがかろうじて分かるだろうか。かつてはこの刺すような日差しを遮断するために用いられたのであろう。しかし、そこにいったい誰が住んでいたのか、独身か家族かそれとも子に巣立たれた老親だったのか、君には分からないだろう。どんな食卓を囲み、何を思い何を語ったのか、あるいは語らなかったのか。知る由もない。

 けれどここを、美しいとは思わないか。……少なくともわたしは、そう思う。一切の雑多なものが消え、残されるべくして残ったものたちが、不思議な調和を讃えながら、人々の思惑の一切を拒み、今日この日まで存在していたのだ。別にわたしは人間が嫌いなのではない、こういう言い方をすると、人はわたしを人間嫌いの偏屈なやつだと評価するので、わたしはその訂正の度に少々苛立ちを覚えてくるほどなんだよ。確かにね、この世界ではもはや人間は希少な生命体であり、わたしも君もその一人だということは否定できない事実だ。

 そうわたしは、この場所に場所以外の意味が付与されていないということに対し美しいと言ったのだ。とすれば、今さっきわたしが美しいと言ってしまったことで、すでに何割かの美しさが損なわれてしまったのかもしれないね。美しさをもし測れたらの話だが。君は美しさをどうやって表すことができると思う? 古代の人々が残した絵画や彫刻や音楽や、そういうものは美しさの一定の基準や量を示すのだろうか。わたしにはどうも、それが根本的な何かを欠いているように思えるのだ。

 宇宙は人類の存在に関係なく美しいと思うか? 昔の友人は、人間が美を見出さない限りそこに美はないのだと言った。それも一理あるが、ではなぜ極限まで人類が滅亡に追い詰められた今、我々にとって脅威のはずのこの世界の理不尽さが美しいと思えるのだろう。わたしの故郷はすでにない。極端に高度化された文明の中で生きてきた我々にとって、「あの日」はこれまでにない衝撃を伴って我々の常識を覆した。あれから一度も帰っていないが、今でもたくさんの生命が……つまり人類以外の生命体が、あの地を支配していることだろう。緑の腕や手が四方八方に伸びて、街を包み込んでいた。わたしたちの何倍もあろうかという四つ足の非言語生命体が地を鳴らしていた。わたしは美しいと思ってしまったのだ、それを罪と呼ぶ人もいるけれど。

 そしてこの街を見てごらん。砂が電子回路のように全体を覆い尽くしてしまった。この砂は街の中央統制機関の隙間に入り込んであっという間に駄目にしてしまったのだろう。人類が何世紀もかけて発明した叡智の結集はいとも簡単に崩壊したのだ。何でもできると思っていた。だがそうではなかった。何に生かされてきたのかを、わたしたちは知らなかったし知ろうともしなかった。

 だから人間は滅びるのだ。自らのことも外界のことも知らず、ただ目の前にぶら下がったまやかしにそれらしい道理を当てはめて、それですべてを分かったような気になっている、弱く傲慢な生き物が生き残れるほどこの世は楽園ではなかったということだ。さっき「美しさを発見した」友人の話をしただろう、わたしは彼を馬鹿にしているようでわたしも同じだったのだ。つまり……君もわたしと同じだ、ということになる。そんなに怒った顔をしないでくれ。もうすぐわたしたちは死に絶えるのだから、最期ぐらい仲よくしよう。

 人類は最後まで愚かだった。だが、人類を美しいと思う存在もきっとあるはずだ。わたしがここに腰を下ろしたまま死ぬとする。すると体は干からび、白い骨だけが残るだろう。何かが私を見つけて、今のわたしのように、ほんのちょっと思考を巡らせてくれればそれだけでわたしの人生は救われるだろう。

 結局わたしも世界の枠組みからは抜け出せない、この期に及んでもだ。誰かに見つけて欲しいのだ。誰か、誰かわたしをこの世界から見出してくれ! 存在だけの世界に、ただ一つ意義のある命としてのわたしを見つけてくれ!

 ああ、君はゆくといい。わたしは、もう本当に歩けないのだ。もしかするとその先に、救済の道があるかもしれない。君は若い、まだ歩けるだろう。わたしはここに座って、あの世で友人になんと謝ろうかもう少しだけ考えてみようと思う。

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3025 魚木まる @uoki_maru55

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