6話:ご褒美
──翌朝。
朽ちた屋敷の中庭に、冷たい朝霧が立ち込めていた。
ひび割れた石畳の隙間から、小さな草が顔を出している。
セレスは、その中央で静かに術式の構築を始めていた。
猫たちは、壁際の影に身を伏せ、それぞれ配置につく。
“偵察と結界探知”の任務──その準備は、すでに整っていた。
昨日までの彼女なら、俺の助言がなければ術すらまともに展開できなかった。
だが今、迷いも、詰まりもない。
……まるで昨日までのあれが、演技だったかのように。
魔力の流れも安定している。
リンク越しの命令も、淀みがない。
まるで初めから自分の術であるかのようだった。
思っていたより適応力がある。
猫の視界が、俺の意識に繋がる。
ざらついた森の空気。靄の残る朝の匂い。
セレスは少し離れた位置で、静かに術式を維持していた。
その制御は精密で、正確だった。──だが、微かな揺らぎがある。
術式の回路に、俺の設計にはない“ズレ”がある。
……まさか、結界の“穴”を読んで、自力で調整したのか?
猫が一歩、足を踏み出す。
本来なら干渉されるはずの領域を、すり抜けて進んだ。
リンクの波が乱れないよう、魔力の流れに細工を入れたのだ。
俺の型を“基準”にしながら、自分の特性に合わせて書き換えた。
なるほど、やるじゃないか──
……が、それは危うい橋でもある。
リンクの回路。猫との精神接続を担う重要な経路が、俺の設計から微かに逸れていた。
セレスが、自分の魔力の癖に合わせて角度や流速を調整していたのだ。
理には適う。だが、それだけじゃ足りない。
精神回路は、感応に直結する。
その調整が猫たちの“心”にどう影響するか──彼女は、まだ読みきれていない。
「おまえ……」
俺が一歩踏み出すと、セレスはわずかに振り返った。
その表情に、怯えはなかった。確信──そして、ほんのわずかな誇りがある。
「昨日のままでは、不安定だった。
私の魔力は、あなたとは性質が違う。……だから、“私の流れ”に合わせて調整した」
口調は俺と同格。視線は揺れない。
敬意はある。だが、従属ではない。
「それで猫に影響が出たら、誰が責任取るんだ」
その一言に、彼女のまぶたがわずかに震えた。
だが、それは恐れではない。
すぐに唇を結び、まっすぐな声で言い返す。
「今、干渉を修正した。
誤差は最小。猫たちへの負荷も、許容範囲に収まってる」
そして、ほんのわずかに視線を上げる。
「……術師とは、結果に責任を持つ者でしょう?」
──言葉は正しい。だが、未熟。
俺はセレスの首輪に触れる。
これは、猫たちとのリンクを安定させる補助術式。
術の過負荷を分散し、暴走を防ぐために、俺が貸している“加護”だ。
つまり彼女はいまも、俺の術域の中にいる。
「次、勝手にいじったら──その首輪を、外す機会は二度とやらん」
その一言に、セレスはほんの一瞬、息を止めた。
だが頷いた。正面を見据えたまま。
──自分の力で、自由を掴もうとしている。
なら、試してみろ。
──空気が変わる。
俺の意識が、猫たちを通じて森に伸びていく。
結界の“膜”が薄くなっている場所を、慎重に探る。
一匹目──灰色の猫“スモーク”が、音もなく枝を駆ける。
セレスの術式が、それに追従する。
魔力の糸が絡まず、ぴたりと張られている。
回路の微調整は正解だったようだ。
「……通過、成功」
セレスがつぶやく。
猫は結界の縁をすり抜け、内側に滑り込んだ。
魔力の乱れは──ない。
リンクも保たれている。
二匹目、“ミルク”が別の方向から進入。
白い毛並みが、朝霧に溶けていく。
セレスの手が、わずかに動いた。
展開速度を調整している……まだ不安定だが、制御は保っている。
三匹目、“チャー”は裏手の斜面を這うように進む。
ここが問題だ。
このルートは結界の干渉が濃い──
「チャー、止まれ。……通すには補正が足りない」
俺が言うより早く、セレスが判断した。
手のひらに新たな術式を重ねる。
自ら設計した補助術。
簡素で粗いが、“今”に合わせて最小限の制御が施されていた。
──やるじゃないか。
猫は無事に通過。
三方向からの視界が、俺の脳内に重なる。
森の内部──
……ある。
薄く、だが確かに“気配”がある。
歪んだ魔力。小規模だが、生物的な動きもある。
「セレス、座標を共有。追跡術に切り替えろ」
「了解」
彼女の声に、もう迷いはなかった。
指示を待たず、自分で考え、動いている。
まだ荒削り。だが、成長している。
──それが、猫を通じて手に取るように伝わる。
なら、この任務が終わったら──
ひとつ、“ご褒美”を与えてやるとしようか。
三匹の猫が、それぞれの経路から目標地点に近づいていく。
霧の奥、歪んだ気配がはっきりとした“形”を取り始めた。
スモークの視界に、黒い影が映る。
異様に長い手足、獣のような関節のねじれ。
だが動きは緩慢。眠っている……いや、意識が散漫なのか。
「魔物……? いや、あれは……」
セレスが術式を再構築する。
結界に干渉せず、気配だけを追跡する回路へと切り替えていた。
動揺は……ある。けれど、操作に乱れはない。
ミルクの視界が揺れる。
影が一体……いや、もう一体。
木の陰に、別の異形が身を伏せていた。
チャーの尾が逆立った。
その視線の先に、黒い靄──いや、気配。
異形の魔物が、森の奥からこちらを“見て”いた。
精神リンク越しに、セレスと俺の術式が繋がっている。
もし辿られれば、屋敷の所在も、俺たちの術構造も漏れる。
──この距離、この敵、この術式。
今のセレスに、対応はまだ無理だ。
「戻れ、リンクを切れッ!」
俺の声が届く。
セレスは即座に反応し、猫たちを呼び戻しつつ、精神回路を強制遮断した。
次の瞬間、スモークの視界に魔物が飛び込んできた。
まっすぐこちらに──いや、“猫”に向かって突進してくる。
「セレス、反応防御術──張れるか?」
「やってみる……!」
彼女の両手が交差し、青白い術式が発動。
猫のまわりに薄い膜が張られた。
しかし──
魔物の爪が、その膜を裂いた。
スモークが跳ねるように後退し──木々をすり抜け、辛うじて逃げ出した。
「猫を下げろ、情報は得た。全員、回収に移れ」
セレスはこくんと頷いた。
顔色は蒼い。汗も滲んでいる。
けれど、立っている。
その手から流れる魔力は、途切れていない。
──魔物は二体。
眠っていたようだが、警戒は強まった。
この結界は“縄張り”だ。
何者かが意図的に魔物を配置し、外部からの侵入を防いでいる。
セレスが息を詰めたまま言う。
「……あれ、術で作られたものじゃない。自然発生した魔物……でも、誰かが誘導した」
「ああ。つまりここには、術師がいる」
“敵”が、いる。
術式を切断した直後、セレスの膝がわずかに揺れた。
だが崩れはしない。踏みとどまっている。
全猫、リンク解除完了。残留魔力も最低限に抑えた。
「撤退する。全ユニット、帰還誘導──始めろ」
セレスの術式が再展開され、猫たちの気配が順に屋敷へ向かって動き始める。
あの魔物たちは深追いしてこない。縄張りから出る気配はない。
朽ちた中庭に戻る頃には、朝霧もほとんど消えていた。
スモークが、音もなく窓枠に戻る。
続いてチャー、最後にミルク──軽やかな跳躍で俺の肩へ。
──それから数時間後、アトリエ。
日は傾き、薄暗くなっていた。
猫たちは静かに任務を終え、各自の場所に戻っている。
セレスも戻ってきた。
だが言葉はない──報告はもう済んでいる。
術式の干渉を、まだ引きずっているのか。
あるいは……ただ、俺を待っているのか。
俺は言葉をかけない。
だが彼女は、その場を離れなかった。
やがて、ためらいがちに唇を開く。
「……猫たちは無事でした。私も、任務を遂行しました」
「だから……“報酬”が欲しい。あなたの基準で、いい」
声にはかすかな棘があった。だが視線は、逸らしていない。
誇りを捨てたわけじゃない。
それでも──口にした。自分から、欲したのだ。
俺はゆっくりと振り返り、彼女の首輪へ指を伸ばす。
「……今日は、ただの安定だ。それでも、一歩は前進だな」
術式を一段、緩める。
繋がりの圧がわずかに弱まり、彼女の肩がふっと下がる。
「これは前借りだ。
次、また勝手に術をいじったら──首輪、締め直すぞ」
その一言に、セレスの肩がふるりと震えた。
けれど彼女は何も言わず、少しだけうなずいた。
俺はそう言って、セレスの喉元にそっと指を添える。
術の残響がまだ微かに残る首輪の上をなぞると、
彼女の呼吸がひとつ、浅くなった。
緊張とも、興奮ともつかない。
けれど確かに、内側で何かが揺れている。
しばらくすると、セレスのまなざしが少しだけ滲んだ。
光の中で、目元にかすかな潤みが浮かぶ。
それでも視線は逸らさない。
その奥にあるのは、悔しさと、誇り、そして──まだ消えない敬意。
自分のやり方で勝ちたい。
けれど、まだ俺に認められたい。
その狭間で揺れる、傲慢で未熟な才媛。
──なら、導く価値はある。
「……次は、もっと上手くやるわ」
そう言ったセレスの頬が、わずかに紅潮していた。
羞恥か、興奮か、それとも――その両方か。
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