第3話 落ちる君と翔ける僕③
受け取ったメモに書かれている病院まで、バスで約三十分。座席に腰を下ろしている間も、僕はずっとそわそわと落ち着かなかった。
赤い雨の中の半透明な竜。ようやく、その謎が解ける。当事者であるあの女性に聞けば分かることだろう。
到着と同時に、僕はバスを飛び出した。
病院に入り、駆け出したい気持ちを抑えるので精いっぱいだった。それでも、十分に人目を惹くほどには早歩きだったのだろう。すれ違う患者や看護師と、何度も目が合ってしまった。
記載されていた三階の病室の前で、僕は立ち止まる。
どうやら個室らしい。
「ふぅー……」
大きく息を吐き、そして、ゆっくりと吸う。
深呼吸。
逸る気持ちを落ち着かせるように、努める。
ノックをすると、すぐに返事が返ってきた。ドア越しでもよく通る、落ち着きのある澄んだ声だった。
「お邪魔します」
頭を下げながら、僕は病室に踏み入る。ほんの半日前までは自身も入院患者だったというのに、今は見舞う側というのは、変な気分だった。
「あなたが、私を助けてくれた人?」
「はい。丹羽竜典、と言います」
「その節はどうもありがとう。私は、柴嶺(しばみね)勇魚(いさな)。勇魚でいいわ、よろしく」
ベッドで身を起こしている勇魚は背筋をぴんと伸ばし、凛とした印象を受けた。艶のある長い黒髪がシーツの上を流れている。
すらりと伸びた鼻筋に、薄い唇、そして切れ長の目。世間一般の基準に照らして言うならば、美人と言われるものだろう。
僕よりも少し年上だろうか。だとしたら、大学生か? 大人びて見えるため、把握しづらい。身を包む薄青のパジャマがちょっと子供っぽく見えて、その情報が年齢の推測を余計に困難にさせている。
足元から、腰のあたりまでを覆う布団の上に置かれた右手。その手首から肩口までかけて施されたギプスに、思わず視線を注いでしまう。
「そこ、折りたたみの椅子があるから座って」
促されるまま、僕はベッド脇に置かれていたパイプ椅子を手に取り、それに腰を下ろした。
「単刀直入に聞くわ」
勇魚はベッドの上で僕の方へと向き直る。
「あなた、私の乗っていた竜が見えていたのでしょう?」
その質問に、僕の心臓が跳ねる。
どう切り出そうかと考えていた疑問が向こうから来るとは……好都合だ。
「そのことについて、僕も、話を聞きたいと思っていました。あれはいったい何だったのか。赤い雨の中、あなたは何をしていたのか」
僕の質問に、勇魚は目を閉じた。その反応が何を意味するのか僕には分からなかった。矢継ぎ早の質問に、もしかしたら機嫌を損ねたのかも、と少しだけ不安になる。
「……そうね。一つ、私と取引をしましょう。私はあなたの質問にすべて答えてあげる。おそらく、私はあなたの求める答えを持っているから。その代わりに、私の頼みごとを聞いてもらいたいの」
「いいですよ」
「即答とはね……。私が代わりの頼みごとに何を持ち出すのか、気にならないの?」
気にならない。と言えば嘘になる。
だが、そんなことで機を逃すわけにはいかない。気になることがあったのなら、他の全てを捨ててでもその答えを求めるべきだ……と思う。
「何でも聞きますよ。もちろん、その代わりに僕が気になっていることについて、教えてもらいますが」
僕の返答に、勇魚は目を細めて静かに口角を上げた。美人というのは、どんな表情でも絵になるらしい。本人は自然な笑いのつもりなのだろうが、僕にはまるでドラマのワンシーンのように思えた。
「契約が成立したところで、先にあなたの質問から答えましょうか。おそらくだけど、あなたの疑問に答えておいたほうが、私からの頼みごとを説明しやすいでしょうから」
「それじゃあ……あの竜は、いったい何なんです?」
「……あれは、私たち柴嶺の家に代々伝わる竜の魂。赤い雨を生み出す原因を撃退するための武器」
返ってきた言葉を聞いて、僕は頭を抱えた。勇魚の言うことは分かる。だが、内容を理解できたとは言い難い。
竜の魂とは? 赤い雨を生み出す原因とは? 疑問を解消するための質問だったというのに、余計に疑問が増えてしまった。
「ちょっと待ってください……余計に、分からないことが増えた気がする」
「気持ちは理解するわ。私の説明を聞いて一息に信用してもらえるとは思ってない。けれど、私の言うことは全て真実」
勇魚は、窓の外に浮かぶ真っ白な雲を見上げて、
「赤い雨が降る際の紫の雲。その雲の中には、鯨が浮かんでいるの。柴嶺家では、それを空鯨(そらくじら)と呼んでる。空鯨は大気中の水分などを吸収して、紫の雲と赤い雨とを生み出している」
言葉を一度切り、一呼吸置いた後で、
「柴嶺家は、そんな空鯨を倒すための家系なの」
と言った。
「鯨……って言うのは、海を泳いでる、あの、でっかい鯨?」
「そう」
「それが……空を飛んでるって?」
「そう」
「その空飛ぶ鯨が、赤い雨を降らせているって?」
「そうよ」
……訳が分からない。理解が追い付かない。
勇魚の口から放たれた突拍子もない真実に、僕はただ茫然としていた。彼女の言う真実を裏付ける証拠はない。だが、仮にこの話が嘘だとしたら、彼女はこんな真剣な眼差しで語るだろうか。
嘘をつくにしても、もっとそれらしい嘘が用意できるのではないか。
ぐるぐると自問自答し、その上で疑心暗鬼に陥りながらも、僕は何とか投げられたボールを咀嚼しようと努力する。
「分かってはいたけれど……理解不能、って顔をしてるわね」
嘆息をもらしながら、勇魚は呟く。
「空に鯨が飛んでて赤い雨を降らせている、なんて聞いて、はい分かりました! って言うヤツが居たら、そっちのほうがよほど異常ですよ。僕が混乱してしまっているのも、理解して欲しいです」
「気持ちは分かるわ。私だって、こんなことを母親から初めて聞いたとき、似たように混乱したんだもの」
「それに──」
口を開いたところで、僕のポケットから着信音が鳴り響く。
しまった。慌てて病院まで来ていたせいで、マナーモードに設定するのをすっかり忘れてしまっていた。
「──失礼します」
断りを入れて、僕はポケットからスマホを取り出して画面を確認する。
着信の主は、スカベンジャーズが社員全員にダウンロードさせている専用アプリからのものだった。
『赤雨(せきう)注意報。一時間以内に降り始める可能性が高い。業務可能な社員はその旨返信の後、事務所に集合すること』
と表示されていた。そして、そのまま続けて四谷副社長から僕個人に向けられたメッセージが受信される。
『先ほど専用アプリから全社員向けに赤雨注意報の連絡が行ったと思うけど、さっき伝えた通り丹羽くんに出動要請はありません。屋内に避難するようお願いします』
内容を確認して、僕は歯噛みする。
一拍置いて、勇魚の枕元に置かれていたスマホが振動する。それと同時に僕のスマホも、もう一度着信音を鳴らす。国が全国民にダウンロードするよう推奨している、赤い雨専用の天気予報アプリだ。
竜と鯨と君と僕。 東屋彦那 @azumaya_hikona
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