竜と鯨と君と僕。

東屋彦那

第1話 落ちる君と翔ける僕①

 灰色の空。

 紫の雲。

 赤い雨。

 ビルの隙間から覗くそれらに、僕──丹羽(にわ)竜典(たつのり)は防護服の中でひどく重い息を吐く。珍しくもない光景だというのに、気分は陰鬱へと引き込まれる。

 もう一度空を見上げた時、腰の通信機が振動する。その着信の合図に、僕は手探りで通信機のスイッチを押す。防護マスクの視界では、視線を落としても自分の腰までは満足に見ることはできない。

 この仕事を始めたばかりのころは、スイッチを押すのにさえ手間取ったものだが、ずいぶんと慣れてしまった。

 防護マスク内でノイズが走る。

 またか。

 辟易としながら、僕は足元のアスファルトを踏みしめる。近くに見えた精肉店の軒下へと非難させてもらう。

 赤い雨が降るのはいつものこと。赤い雨によって通信障害が発生するのも、いつものこと。

 通信が繋がるまで、棒立ちで雨に打たれているわけにもいかない。防護服とて、万能ではないのだ。

「──ら……──こちら、本部」

 ようやく復旧したらしい。

「こちら丹羽、聞こえます。どうぞ」

「──C地区の避難が完了していないらしい。至急、そちらへ迎え」

「丹羽、了解しました」

 ぶつり、と通信が切れる。

 もちろん、この岐阜市にC地区なんて名前の場所はない。正しい町名等で喋ると通信障害の影響などで聞き取れなかったり、聞き間違えたりすることが多いため、会社が便宜上岐阜市を切り分けてつけた名称である。

 C地区か。僕は頭の中で地図を広げる。今居るD地区より北側。ここから向かうのなら、直接大通りに出るよりも、このさびれた商店街に立ち並ぶビル群を縫って向かったほうが早そうだ。

 商店街にかかるアーチ状のガラス天井には数多くの穴が開いており、そこから赤い雨が降り注いでいる。

 一歩踏み出すたび、地面に落ちた雨が跳ね上がる。水気を弾く特注のブーツで、僕は地面を踏みしめる。

 裏道の多い商店街だが、ここらの地理は頭に入っている。どの道がどの道へと続いているのか、今更間違えることはない。

 次を右。

 その次は左。

 そのまま直進。

 思った通りの景色が前に広がる。商店街を抜けて、一つの路地に出る。この道沿いを進んでいけば、C地区に到着する。

 さらにもう一歩踏み出したところで、僕は思わず足を止めた。

 何だ。

 頭によぎる疑問。

 防護マスク越しに違和感を覚える。何か──風が変わったような。

 ふと空を見上げた時、僕は目を疑った。真っ赤な雨粒と、その奥に潜む紫の雲。その雨と雲の間に、何かが居る。グラスに注がれた水のように、何かが、時折きらきらと輝いている。

 その何かが、次第に僕の方へ近づいてくる。

 いや、違う。即座に否定する。近づいてくるんじゃない、あれは、落下(・・)している。

 落下によって位置が近づくとともに、僕はそれの輪郭をはっきりと知覚する。鋭い三本の爪を持つ足。空を覆わんばかりに広げられた翼。鱗を持つ身体。長く伸びた首から、歪に並んだ牙と角を持つ頭。

 あれは──竜だ。

 胸の奥が、熱くなるのを感じた。困惑と同時に、好奇心がふつふつと燃え上がる。一体あれはなんだ。いや、竜だ。実在するのか。なぜ、半透明で揺らめいているのか。自問自答を繰り返しながら、僕はただ黙って空を見上げていた。

 轟音。

 巨大な竜がビルに衝突し、割れたガラスが降り注ぐ。身の危険を感じて、ようやく僕の足が動いた。

「ぐっ」

 ガラスの雨を受けて防護服の一部、左腕の肘あたりが破れる。防護マスク越しに、中に来ていたTシャツが見える。

 赤い雨は生命を蝕む。濡れた場所からじわじわと広がり、病毒を招く。それゆえに、防護服が作られ、国からの支援金を受けて、赤い雨から避難する人間を補助するための会社が作られているのだ。

 腰のポーチから素早くテープを取り出す。防護服に穴が開いたとき用の、緊急で穴を塞ぐためのテープ。応急処置を済ませつつ、未だ降り注ぐガラスから逃れるように走る。

 路地の一角、かつては何らかの商業ビルが建っていたであろう場所は、今ではただの広場になっている。

 その広場の端で、僕は足を止めた。

 直後、目の前に竜が墜落する。足を上にして、背から。

 半透明でありながら、その竜にはしっかりと質量が存在していた。広場の土は抉れ、赤い雨で半ば固まった泥が、礫のように周囲へ飛散する。隣のビルの壁や広場を覆う塀へ、容赦なく。

 その礫は、もちろん僕にも例外なく襲い掛かる。両手を顔の前で重ね、咄嗟に防御態勢を取るが、それに何の意味もなかったということを、僕は吹き飛ばされながら実感する。

「──ッ!」

 それは僕の叫び声であったはずだが、礫を受けた衝撃と、背中から地面に着地した衝撃とで、自分でもなんと発声しているのか聞き取れなかった。

 視界の端で、先ほど塞いだばかりの穴が見えた。応急用のテープもどこかへ吹き飛んでしまったらしい。

 それどころか、起き上がろうとしながら目に映った防護服には、いくつもの細かい穴が開いている。泥の礫を受けたのだ、無理もない。

 鈍痛に悲鳴を上げる全身へ何とか命令を下し、僕は立ち上がる。

「……?」

 疑問符が、僕の頭を埋め尽くす。

 広場の地面は大きく抉れ、巨大な何かがぶつかったことを如実に示している。そして、その巨大な何かとは、先ほどまで捉えていた竜であることは間違いない。

 だが、起き上がった僕の視界には、何も映っていなかった。

 引きずるようにして、一歩一歩、至極緩慢な動きで僕は抉れた地面の縁へと移動する。

 僕が見たのはいったい何だったのか。その竜は、幻覚だったのか。脳内を巡る疑問符への答えを求めて、僕は歩く。

「これは……」

 抉れた地面の中心で、一人の女性が倒れていた。

 傍らへと行こうとしたところで、一際強い痛みが全身を襲い、僕は膝を折る。

 これは──まずい、気が、する。

 通信機のスイッチへ手を伸ばし、通信相手に繋がったかも確認せず、

「こちら丹羽。要救護者を発見、防護服が損傷したため、人手が欲しいです。現在地は──」

 早口で言う。最後は、ちゃんと言葉にできていたかどうかも分からない。

 真っ暗になった視界の中、地面に横たわる感覚だけが確かに響いていた。

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