游泳
赤野チューリップ
遊泳
記憶を美化して眠れない夜、物思いに耽る。出会った人の数より失った人の数の方が決まって多かった。出会いと別れが二娘一なんて想像上の話で数が合わないのなんてざらだ。
私の瞳の奥に潜む桿体細胞が頑張ったお陰で天井の模様がはっきりと見える。段々とそれは人の顔に形取られ“ある人”が脳裏をよぎった。私は目元まで毛布を被りそれを無視する。そんな私を見透かすようにある人は私に語りかけ、最後の言葉が鼓膜を揺らした気がした。
「私の事、忘れないでね。」
朝起きると取り外しの効かない疲れが全身を襲う。鉛でも貼りついたかのように瞼は重く気を抜けば深い眠りについてしまいそうだった。それはあの人のように永遠に眠ってしまうような、そんな感覚に似ていた。思考がぼやけて水中に存在するかの様な感覚。それだけを避けたい嫌悪感だけが私の重たい体を起こす。目下には昨日脱ぎ捨てた下着が散乱していて、片付けすらもままならない私は不健全な人間だと思う。昔から裸で寝るのが好きな妙な性癖がそんな道徳的欠陥を酷く誇張したが、男からしたらすぐに脱ぐ女は都合が良いという他面的見解が私の長所だとこっそり胸を張る。そんな胸も13歳の頃からワンサイズの増加を伴ったのみで随分と貧相なのだが、その点は静かに水に流すことにした。下手な連想ゲームが私の悪癖だった。
気がつくと無意識的に私はいつものリクルートスーツに身を包み扉に手をかけていた。キンと冷えたドアノブを握りしめ私は今日を歩み出した。
春を迎えた東京は人で混み合い四年目の都会暮らしにも慣れずにいる。特別快速の中央線は三鷹を過ぎれば中野まで止まる事もなくそれを過ぎれば段々と都会の街並みに車窓が移り変わり夜を知らない歌舞伎町のネオンも昼間には光を失い機能不全を患う。
都会に出て目が悪くなった。北関東の田舎で生まれ育った私の故郷には人の気配は愚か人工的な光すら目にすることはほとんどなかった。夜に見えるのは時を経て訪れた星の光と誰かに頼って光ることしかできない月光だけで、私の優秀な視細胞たちは人工的な光に頼らずとも暗順応を済ませることができた。それも古臭い武勇伝になりつつあるのは都会のせいで、ここ数年で都会への責任転嫁にはひどく慣れてしまった。いつしか摩耗した心も、相槌と他人への下手な気遣いが板についたのも、あれもこれも東京のせいにできる。私の都会での生活は不便ながらに便利だと思った。
就活先の最寄駅に到着した頃には昼過ぎを回っていて、面接までは残り1時間を切っていた。脳内では昨晩練習した言葉を復習する。志望動機と自己PR。那由多にされたありきたりな質問を面接官がして私はひどく慣れた様子でそれを返す。彼は静かに私が何度も推敲を重ねたESに目を落とした。吟味する素振りもなく彼はまた幾つか質問を重ねる。的外れで手応えのない感覚を味合うのは何度目だろう。せめて妄想だけでも上手になりたい。
そんな妄想が現実になったのは言うまでもない。
浅くなった呼吸を取り戻すようにシャツの第一ボタンを外す。滞っていた酸素が体一杯に吸収されると視界が少しばかりか鮮明に戻る。夢でも見ていたかのように惨敗した面接の記憶は朧げになっていた。日が落ち込み都会が本来の姿を取り戻す頃、携帯電話が震える。
“どうせ暇でしょ?飲みに行こう。”
私の苦労を知る由もないタカオが私を誘う。タカオとは大学の同郷の友人で彼もまた都会の波に飲まれた1人だった。
“暇じゃないけど飲みに行きましょ。”
“そういうとこ嫌いじゃないよ。いつものところでいいよね?”
“うん。”
“では1時間後に。”
端的なやりとりを終え空を見上げる。マジックアワーを終えた都会の空はやけに星が綺麗に見えた。
「また惨敗ですか。」
「おっしゃる通りです。」
薄汚れた大衆酒場でタカオが発泡酒を煽る。安酒のせいかタカオの顔はすでに赤かった。横の客が吐き出した副流煙で彼の顔が霞んで見えた。
「やっぱり私って社不だから世の中の人間が当たり前にやってること苦手なんだよね。」
「やだなによ。あたしの前でそれいうの?」
彼は逞しくも手入れされた綺麗な指先を顔の前で振る。品性のかけらも無い私と違い、彼の行動の一つ一つには意味を含んだ丁寧さをどこからか感じた。
「タカオは?就活上手く言ってる?」
「私も本命は全然よ。」
「それ以外は上手くいってるんだ。」
自分でも分かるほどに尻下がりに言葉が小さくなった。何一つ上手くいかない私とは違いタカオは容量がいいのだろう。
「何言ってんのよ。本命に行かなきゃ意味ないでしょうよ。あなた好きでもない男にフェラされて嬉しいの?」
よくわからない例えをタカオが出すと私は静かに考え込む。私は女だから陰茎は無いし、フェラをされた経験は無い。だからと言って性別が異なった同義のクンニをされた経験もない。フェラだって数える程しかした事がない。そしたらどうだろう。タカオにフェラしてみたらどうだろうか。いや彼は純朴に男の子が好きで彼はきっとそれを望まない。けれど、彼の例えにあるように好きでもないと言う点には当てはまる。けれど私は一人の女だ。では私が韓国で性転換の手術してみればどうだろうか。そうすれば彼の比喩の様な好きでもない男にはなれる。しかし、そうすれば私は好きでもない男にフェラされる経験はしていないことになる。それは好きでもない男にフェラしたという主観的経験だ。しかも私はタカオのことは嫌いではない。むしろ好きだ。それはもちろん恋愛的な目線では無く、友人としての好きであるけれど。ならばどうだうだろう。
私がタカオに…
「さかな。」
タカオが私の名前を呼ぶ。彼は優しい眼差しで私を見つめていた。
「ごめん。また入り込んでたわ。」
「考え込んだりするのも妄想をするのもさかなのいいところ。」
タカオは静かに私の手を握る。温もりのあるタカオの手は下手な男に触れらるよりも心地がよかった。
「あなたなら大丈夫よ。」
タカオはそう言うとジョッキの発泡酒を一気に飲み干した。
母は私を産んですぐに亡くなった。物心が着いた頃には母という存在は皆無でぶっきらぼうで素行の悪い父だけが私の唯一の肉親だった。そんな父が私の新しい母を連れてきたのは中2の頃で彼女は自分の事を秋子さんと呼んでと言った。秋子さんのその言葉が母の温もりを知らずに育った私を気遣って言ってくれた言葉だと言う事を知ったのは最近のことだった。
「さかなちゃん。ご飯どうする?」
家に帰ると秋子さんは必ずそれを聞く。
「なんでもいいよ。」
そう言うと秋子さんは決まって寂しげに笑うのだ。その表情の訳に気がついたのも最近の事だ。
「スーパーでバラ肉が安かったの。カレーライスとかはどうかしら?」
「いいと思うよ。私テスト近いから勉強するね。」
私はそれだけを言って2階の自室に籠る。勉強するというのは言い訳で正直秋子さんと同じ空間にいる事がその頃の私にはただ気まずかった。
部屋に入りベッドで横たわる。思い出せる筈も無い母の面影を私は秋子さんに重ねる。どうやってもピントの合わず不鮮明なままで秋子さんはまたあの下手な笑顔を私に向けた。
側頭部が脈打つような頭痛が私の起床の合図だった。お酒をひっかけて寝た朝はその現象に悩まされる。浅はかな睡眠に伴って見る夢は決まって秋子さんの夢だった。思い瞼と体に鞭を打ち私はカーテンを開ける。外は生憎の天気で窓の外には雫が張り付いていた。私の部屋は一階だからきっと外からは私の裸体が晒されている。それを見た男は私に誘われているかと勘違いして私の部屋のインターホンでも押すのだろうか。それとも私の裸体をひっそりと心の奥にそっとしまい込んで夜の肴にでもするのだろうか。それとも雫で曇る窓の中の私の姿は朧げなシルエットとなって想像力を掻き立てる材料にでもなるのだろうか。それとも。
妄想渦中の私をスマホのバイブレーションが現実に引き戻す。生乾きの下着を身につけた。お気に入りの藍色の下着は着心地が良くてもう3年間は愛用し続けていたせいかやけに下れて元気がない。その上からはタカオが手土産で買ってきた沖縄の某有名ビールのTシャツを着込み、ショートパンツを履く。やっとスマホを開いた。
“就職採用試験結果のお知らせ”
お決まりのお祈りメールは何度目だろうか。開かなくてもわかるその内容に私はまた暗い気持ちになる。どっと溜まった二酸化炭素を吐き出すように特大の溜息をつく。窓が冷たく濡れていて、私の代わりに涙を流す。どうしようもない。ただその一言に尽きる私の人生はどうしてこんなにも惨めなのだろうか。考えても答えがでない。私の人生を一本の映画に比喩すれば起承転結も皆無もないつまらないB級作品であるのだろう。きっとこの先も。
気づけばまた自分の世界に潜り込りこもうとしていた。
抱かれたい夜は決まって彼を呼ぶ。タカオからは辞めろと言われた彼との関係も早いもので一年が経つ。
「後で辛い気持ちになるのはさかなの方よ。」
タカオの言葉はいつも正しかった。しかし私も醜い人間の一部で性欲には負ける。
“夕方には着く。”
私は彼の帰りを静かに待った。
インターホンが鳴り、時間感覚を失った私がドアスコープを除くと灰色の背景をした彼が落ち着いた様子で立っていた。よかった。チェーンを外し彼を招き入れると彼はか細い声で私に尋ねた。
「何かあった?」
「別に何もないわ。だから呼んだの。」
一言言うと彼は私の唇にそっとキスをした。持っていたコンビニのビニール袋が床に落ち鈍い缶の音が玄関に響く。彼の手は私の尻に触れていた。
高校時代に好きだった「もうすぐ春」というピアノ曲がラブホテルで流れる定番のBGMだと知った大学一年の夏、不快感から私のアソコは濡れなかった。ベッドでのテクニックに自信を持っていたサークルの先輩は勿論お酒のせいにして私の乾いたアソコに隠部を入れた。摩耗して物理的に熱くなった私のアソコに先輩はだらしなく射精した。
「よかったね。」
個人的意見を述べて先輩は煙草を蒸す。文字通り肺の中にも入らない軽やかな煙が間接照明に照らされる。初体験なんてそんなものだと私は思った。
セックスをする度にそんな思い出が蘇る。目の前の彼を真正面から捉えきれず、不義理な自分に嫌気が刺す。セックス中に別の男を考えるのマナー違反だ。
「おれさ、将来子供はふたり欲しいんだよね。」
虚な目をした彼が天井を眺めてつぶやいた。裸体で将来の話をする彼を私は軽く聞き流す。行為後の男の話は殆ど嘘だとタカオが言っていた。
「いい父親になりたいよな。」
彼が私を覗き込む。同意を求める彼の姿は賢者とも思えぬ程に情けなかった。
「知らない。」
「なに冷たくね?賢者タイム?」
黄色い歯の彼が八重歯見せながら笑う。
「いい親なんかになれないよ。君も私も。」
「なんだよそれ。」
彼は不貞腐れたように起き上がり服を着た。
私は布団を耳まで被り目を瞑る。
「まあ行くわ。また連絡する。」
そういうと数秒後には扉の閉まる音が聞こえゆっくりと目を開けた。暗い天井の模様が段々と輪郭付けられる。まだ大丈夫だと思った。
太陽を背にして列車の連結部付近の座席にもたれかかる。その方が目には良くてよく眠れた。馬鹿なAIが気を遣い昔追っていたバンドの曲を流す。実家まで帰る約100kmの道のりにしては彼らの出した曲は少なすぎた。実家に行くのは数年ぶりで、ふと思い立ったら行動に移せる私の長所だ。あの人に呼ばれている気がして、貯金を叩いてここまで来た。父に挨拶だけでもしていくか。けれど今日は平日で父も仕事だろうか。寄せては返す波のように思いが消えゆく。それ以上に連想の余地はない。
父たった一人で住む一戸建ての我が家は機能不全を患ったガラクタのように人の気配がない。ドアノブに静かに手をかけると当たり前のように鍵がかかっていた。もう一生使う事も無いと思っていた鍵穴に鍵を挿入すると、すんなりと扉は開き嗅ぎ慣れた芳香剤の香りが鼻を包み込む。
「ただいま。」
居るはずもないリビングに向かい声をかけてみても、独り言が壁に吸収されるばかりで何の返答もそこには無かった。私は住居に侵入する犯罪者の面持ちでゆっくりとリビングの扉を開き窓際に静置された仏壇に向かう。思い出す事もできない母の笑顔と下手くそに微笑む見慣れた秋子さんの姿がそこにはある。二人の母をそっと眺める。どちらが本当の母なのか私にはもう見当がつかない。いつからか二人の面影は重なり、一つの線となった。忘れていけないのはどちらだろう。我ながら最低な考えが花を咲かせた。何故だか涙が止まらなかった。
生き辛くなったのはいつからだろう。
どちらの為でもない花を手向け、私は家を後にした。帰り際の父からの着信を私は無視した。
鱗を纏う美しい魚よ
いずれは陸へと貴方は上がる
鰭は地面を踏み締め足となる
いずれ貴方は海の美しさを忘れる
さして尚、貴方は美しい
“暇でしょ?飲みに行くわよ。”
帰りの列車でタカオからの変わらぬ言葉を眺める。
新宿で降りると決めていた。ネオンが輝き細胞が死ぬ。うまく見えない、うまく歩けない。
せめて上手に泳ぎたい。
完
游泳 赤野チューリップ @akano_1999
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