竜骨生物群集

青のり磯辺

竜骨生物群集

 鯨の亡骸を礎として、その骨に特殊な微生物や甲殻類などが群がって形成される、独自の生態系を、「鯨骨生物群集」と言います。それは、深海に沈む鯨の骸から始まるゆえに、「Whale-fall」とも呼ばれております。

 では、竜の亡骸が深海に沈んだら、一体、どのような生態系が築かれるのでしょうか。

 今回は我々海洋学者のロマン、「竜骨生物群集」について、一つ、語らせていただきましょう。



 竜のお方は、これ以上深い色はないだろうという、夜の帷をそのままに身に纏わせたような、黒の鱗をしていらっしゃったそうです。その黒さと言えば、天体観測に出かけるときなどは、その巨体も、すべて闇夜の黒に紛れてしまうほどでございます。

 いつの代でも、観測手を背に乗せ、翼で空を掻き、雲の上に出た竜のお方は、星を見る背の観測手に「なにか語れ」と命じます。その代もそうでした。

 背に乗せた観測手の女に、竜のお方は「なにか語れ」と命じます。

 観測手は申しました。


「あなたの黒がこれでもかと艶々しておりますから、わたくしは、わたくしの髪が黒いのを誇りに思っております。あなたも生まれつき、黒に染まっていたのでしょうか」


 竜のお方は答えます。


「私は、生まれたときは、白に染まっていた」


 竜のお方が昔、白かったことは、ただ一つ黒く染まっていない、そのまなこを見れば察せました。観測手は、「それはそれは無垢な色をしていたでしょうね」と、竜のお方がまだ白かったころのお姿を見られないのが、残念に思います。

 竜のお方は続けて、


「だからこれは、太陽に焼かれて、焦げたせいであるぞ」


 そう答えると、また続けて、こうおっしゃいました。


「お前たちは、竜ならば太陽に近づいても焼かれぬと思っているのだろうが、竜とて、自らの吐く炎に焼かれぬ程度の耐性しかないので、太陽の熱などは痛くてたまらぬ」


 観測手はそこでふと、星を紙に写すのを止めて、自分が跨る竜のお方の背を見ます。竜のお方の広い背は、鱗の一縷の隙間なども残さずに、みんな真っ黒です。


「痛くてたまらないのに、全身を黒に焦がしてしまうぐらいに、太陽に近づいたのですね」


 観測手は不思議そうに問いました。

 竜のお方の大きな翼が、ごう、ごう、風を切る音がします。


「お前の先代も、先先代も、その先代も、そのまた先代も、みな、『私が死んでしまったら、私の遺体は太陽に投げ入れて、燃やしてください』と言うから」


 寂しげな声音をしてそう言うと、竜のお方は空を見ます。観測手もまた、竜のお方の視線を辿るようにして、空を見ました。

 月は満ちていて、すっかり肥え太って、美しくございます。


「その度に、太陽に投げ込んできた」


 竜のお方はぽつりと、小さなお声で、言葉をこぼしました。

 観測手は、竜のお方に身を寄せます。人間にとって雲の上は、大変に寒くてたまりません。なので観測手が竜のお方に抱きつくと、肌をじわりと染め上げる竜のお方の体温が伝わり、ちょうど良くなるのでした。


「……お前たちは、なぜ一様に、太陽に焼き殺されたがる? 」


 観測手は、竜のお方の問いに答えます。


「憧れているからでしょう。死んだ人が星となって帰ってこないのは、夜空がそれほどに心地よいからなのです。我々はそう信じています」

「星は死者ではない」

「ええ、存じております」


 夜空の星々は、我々の普段生きている、下界とそう変わりありません。この世界だって星の上にあるのですから。死んだ人のいる夜空も、この星とそう変わりないのでしょう。

 人類は星への憧れを追って、その真実に辿り着いてしまいました。


「しかし未だ、我々はこの星を出たことがありません。我々は未だに、我々自身の手で、空を飛ぶ術を見つけられていないからです」

「空を飛べたとしても、お前たちは空気が無ければ死ぬであろう」

「では、空気を持って飛ぶ術を見つけましょう。そうやっていつか、人は空を飛んで見せます」


 竜のお方はぐるると喉を鳴らし、「なぜそこまでして」と思いました。

 観測手は繰り返します。


「憧れているからです」


 そして、続けます。


「この目で見るまで、我々は信じません。もしかしたら、あの月の表面にでも、先祖たちは居を作って暮らしているかも知れませんよ」

「見てきたことがある。月面に人間はいないぞ」

「我々が行かなければ、この証明に意味はできません」


 観測手は困ったように笑って、竜のお方の背を撫でました。

 長く生きていると言うのに、竜のお方は人間たちのことを、ちいとも理解していない様子でいらっしゃいます。


「我々は、あなたに憧れているのですよ。あなたのように空を飛び、あなたのように星を飛び出し、あなたのように他の星を見たいのです」

「星が見たいから、私のようになりたいのか」

「あなたの在り方が眩しいから、でもあります。あなたの様になりたい。そもそも人は、尊大な光をもつものに焦がれて、追いかけるたちをしておりますから」


 竜のお方は、ぼう、ぼう、と炎を吐き、翼を動かすと、時の観測手をもっと高くへ連れ出しました。

 天体観測の記録がまた一からやり直しになるので、観測手は、「本当に困ったお方だ!」と思います。何も、照れたからと言って、こんなやり方をせずとも良いではありませんか。


「いつかあなたが背に乗せずとも、人はあなたと同じ高さで、世界を見るようになりますよ」

 

 しかし観測手の言葉は、竜のお方にとっては見当違いな慰めでありました。


「そこまで私に憧れていたなら、一人ぐらい太陽ではなく、私の炎に焼かれたいと申しているだろう」


「おや」と声を上げ、観測手は思います。

 竜のお方は照れたのではなく、拗ねたのかもしれません。


「ただの一人もいなかったのですか」

「ただの一人もいなかった」


 なんと言うことでしょう。竜のお方は、まるで子供のように不貞腐れて、頬を膨らませてしまいました。

 時の観測手は「まあ、まあ」と高い声を上げます。

 竜のお方は観測手の声の様子から、喜んでいるように思い、さらに機嫌を悪くしました。

 ですが、観測手は竜のお方にこう言ったのです。


「ならわたくしが死んだら、わたくしの亡骸はあなたが燃やし尽くしてください」


 竜のお方はそれを聞くと、途端、眼を吊り上げて問いました。


「私を憐れんだか!」


 その語気は荒く、竜のお方が吐く炎のように熱く、燃え盛るようです。

 しかし、観測手は力強く否定しました。


「いいえ、いいえ! あなたが未だ、歴代の観測手を、あなたの炎で焼いたことがないと知ったからです!」


 竜のお方の熱にも負けぬ勢いでした。


「……あなたがわたくしを今代の観測手に選んでから、十年。ずっと、お慕いしておりました」


 彼女は、竜のお方が背に乗せて、夜の闇を物ともせず空に飛び上がるこの天体観測の日を、年中思って暮らしているのです。

 竜のお方が連れ出す空の高みで、竜のお方は観測手とともに星を見上げ、戯れに、「あの星はいつできた」ですとか、「あの星座の成り立ちは」ですとかを語られますが、


「あなたの語る物語が、いつかの観測手が語ったものばかりだと悟ったとき、わたくしは酷く落胆いたしました。わたくしだけではなかったのだと」


 竜のお方と二人きりで星を見たのは、何も、今代の観測手だけではないのです。

 観測手は皆、竜のお方に選ばれて、竜のお方の背に乗り、共に雲の上まで飛んで、星を見るのですから。歴代の観測手は皆そうです。


「湖に連れ出してくださいましたね。お身体を清めるのを任されました。……そのことでさえ、一体今までに、何人の観測手が任されたのでしょう」


 そう思うと彼女は、心の臓が暴れ回って、肋骨の内側を掻きむしられたような心地になって、堪らなくなってしまうのです。


「気が狂うかと思いましたよ」


 竜のお方は、時の観測手の告白を受けて、その白い、純真な眼をぱちぱちと瞬かせ、振り返ります。


「死んだ後、遺体をどうされるか、希望を聞き届けていただけるのなら、……わたくしは、あなたの好きにされたく存じます」


 竜のお方が見たとき、時の観測手たる彼女は、顔を可哀想なほど茹で上げて真っ赤にして、観測記録の書たちに顔を埋めていたそうです。


「お前を焼いてもいいのか」

「構いません」

「日の光の届かぬ深海に置いても、その隣で永遠の眠りについても」

「ご随意に」

「お前を星にくれてはやれぬぞ」

「あなたが隣にいてくださるならば」


 ——本望にございます。


 と、時の観測手はお返事なさいました。

 嫉妬しいの竜のお方はこう続けるのです。


「海の底では、今度は魚に気を取られるのではないか。海の外に行きたがるだろう。お前たちは、私を相手に粘って空に近付くほど、好奇心が旺盛だ」


 しかし、時の観測手も嫉妬しいでございましたから、


「あなたが隣で眠ってくださるのではないのですか。それならば、あなたが魚について語ってくださるでしょう」


 と答えます。


「そうしたらわたくしは、魚ではなくて、わたくしに魚を語って聞かせるあなたに、また恋をいたします」



 ——そう言う訳ですので、太平洋の深い深い海のどこかに、竜のお方とその恋人様は、眠っておられます。

 その場所は竜のお方しか知らないはずでしたが、竜のお方は人間に甘くあらせられますから、竜の死後、竜の亡骸から始まる生態系を観察するためなどと、おためごかしを申し上げて、聞き出した者がおりました。


 それが、「竜骨生物群集」でございます。


 結局は、深海圧に耐えられる装備は、まだ研究段階にありますので、竜のお方に申し上げた生態観察は叶っておりません。だから我々海洋学者は、「お二人の眠りを妨げてはいけませんから」などと言い訳して、この物語を語り継ぎながら、深海探索ドローンの完成を待っているのです。

 大昔に竜がいたことは、ええ、お分かりですよね。今日も末裔の竜たちが、元気に空を飛んでいらっしゃいますから。つまり、かの竜のお方とその恋人様は、確かに、この海に、絶対に存在しています。

 そう分かっているのですから、欲深い人間として、手を伸ばさないわけには参りません。

 だってほら、今日も飛行機が飛んでいる。

 遥か彼方を見上げれば、人工衛星だって。


 「Dragon-fall」。——恋とは凄いものですね。

 高く高く飛べる竜を、深海まで落としてしまうのですから。

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