@Sh-Ryokuto
第1話 理想郷 Antithesis
N81国幸都区は昼間でも空が薄暗く、通り過ぎる家々はランタンを吊るしている。極彩色の灯りが街を暖かに染めて路上が光に満ちていた。光の集う場所ほど人は多く、大通りの街明かりは路地裏までほんのり照らしている。この区で行き交う人の多くは東洋様々な国の伝統衣装が混ざったような色鮮やかな服を纏っている。少年はその合間を流れるように駈けていた。洋服を着た人もいるが皆どこかしらに東洋の趣がある装いである。白色電球に吸い寄せられる夜の蛾のように少年は街で1番明るい通りへ出た。寺子屋帰りに近くの露店で買った串刺しのいちご飴がランタンに照らされてキラキラと輝いていた。時刻は午後5時。雨の気配がぐっと濃くなり、少年はそれから逃げるように家路を急いだ。
「ただいま、
カロクと呼ばれた男は調薬する手を止めて少年の方を振り返る。
「おかえり、セヌ。この時間帯に帰る時は傘を持ってでていけといつも言っているだろう。」
小柄な体躯に白い肌。色素の薄い虹彩。中性的で時折どこか淡い印象を醸し出すこの男は薬屋の店主でセヌ少年の養父だ。セヌは口をとがらせて言い訳をする。
「急げば降り出す前に帰れるし。今日も間に合ったんだから……」
カロクの鋭い視線が向けられた。
「そ、それよりさ、新作の果実水どのくらい売れた?」
セヌはカロクから逃げるようにカウンターの奥の棚に並ぶドリンクバーへ向かった。
「盛況だぞ。もうほとんど売り切れてる。」
「俺の果実水は天下一品だからな。」
セヌは得意満面の顔でガラス製の瓶に僅かに残った飴色の液体を確認した。
カロクは、お前は反省の色が見えないな、全く……とぼやきながら外出の準備をする。
「じゃあ店番は任せたぞ。夕飯はなにがいい?」
「今日は魯肉飯とトマト湯の気分だ。あ、甘味に水崎水仙堂の落花生豆腐も食べたい。」
「あのもちもちした豆腐か。ちび助も喜ぶだろうな。では買い出しに行ってくる。」
カロクは、着崩れた着物をきっちり直し片手に空瓶を入れた買い物袋を持ち、右手で傘をさした。砂糖など一部の食料品は空の瓶を持ってけば半額で買えるからだ。
「いってらっしゃい。先生はヒョロいからアヤカシに襲われねぇようにな。」
セヌの言葉にカロクは一瞬笑みを消し、目を伏せた。その一瞬の陰りは、幼い彼には見えなかった。
「五月蝿い。」
そういうとカロクは小雨の降る夕方の街中へ消えていった。ある日を境に、夕方になると決まって雨が降るようになったこの町は今日も雨が石畳に染み込み、幸都の三番街はいつものように観光客のざわめきに包まれている。古びた暖簾が揺れるあの店もまた、そんな雨の風景に溶け込んでいた。
昔ながらの生活や伝統を大切にする現実都市きっての観光名所――幸都、三番街の一角にその店はあった。
薬屋「煎華堂」と聞けば医療の発達した現代に残る4軒の薬屋の1つで、その妙薬、秘薬を求めて世界中から人が訪れる名店である。セヌは寺子屋から帰ると夕飯の買い出しに行く嘉六に変わって店番を任されていた。セヌは最初の作業を決めるべく店内をぐるりと見渡す。ガラス戸の入り口ごしにランタンの暖かな光が流れ込むソファ席は常連のおばあちゃんたちが腰を掛けて果実水を飲んでいた。談笑するおばあちゃんたちに挨拶をし、棚の商品を補充をしに行く。入り口奥の薬棚や日用品の棚はきちんと整理されており、カロクの調薬した常備薬もいつも通りほとんど売り切れているようだ。店内のカウンターには客がいない。閉店までまだ1時間ほどあるがやれることは全て片付けてしまった。暇を持て余したセヌは通りに面した果実水テイクアウト用のカウンターで寺子屋の課題を進めていた。おばあちゃんたちの国営老人ホームの話題をBGMに黙々と微分法の問題を解いていく。ようやく課題を終わらせて閉店準備に取り掛かる17時半頃、入り口の右隣にあるテイクアウト用カウンターから40代後半くらいの大柄な男が顔を覗かせた。その赤毛によく合う水色の羽織りをかけたこの男はN81国収容区に収容された異能力者(アヤカシ)を管理する監視官だ。
「よおセヌ坊、新作の果実水出したんだって?」
「待ってたぜ、
「もう梅の季節か、じゃあそいつをくれ」
「30円ちょうどだな、まいど。」
「水仙堂の果実水はいつ飲んでも絶品だなぁ。」
「だろ!新作は旦那の分で完売なんだ。ところで旦那、仕事はどうしたんだ?」
「ん?今日はもう終いだ。」
セヌは軽蔑の目で五郷を睨んだ。
「ちゃんとやってるって。それに、このN81国でアヤカシが最後に発見されてからもう10年経つ。俺がふらついてるのはこの国が平和って証拠だ。良いことじゃないか?それよりさ、酔い止めちょうだい。これからもう一軒飲みに行くから。」
異能力者というのは特殊な能力を持つ生命体の総称だ。人智を超えた力を持ち、直接見たものはほとんどいない彼らをN81国では国の伝承にある妖から名を取ってアヤカシとも呼んでいる。
「だけど、今後アヤカシが現れない保証なんてどこにも無い。」
その時、ちょうど五月蝿いチビがびしょ濡れの状態で散歩から帰ってきた。
「あ、イサトだ!また職務怠慢か?給料泥棒なのか。」
「リョクトか、今日も騒がしいな。今帰りか?」
「そろそろカロクが帰ってくる頃だから私も帰って来たのだ。ご飯のために。」
この黄金色の髪を持つ忙しない少年、リョクトはいつも雨に濡れて帰ってくる。いくら傘を持っていけと言っても聞かないので周囲の人間はもう諦めている。
「おっと、そいつは厄介だ。じゃあまたな、セヌ坊、リョクト。風邪引くなよ。」
今日も嘉六に会わないつもりなのか。と言う前に五郷は酔い止めを片手にふらりと立ち去った。
――ちりん。
風もないのに、風鈴が小さく鳴った。澄んだ音ではあったが、その奥には、どこか不穏な気配が潜んでいた。それは、空気を裂いて何かが通り抜けたような、あるいはもともとそこにいた“何か”が、今ふと顔を覗かせたような――。音はすぐに途切れたが、そのあとの静けさは妙に重く、深く、耳の奥にまで染み込んでくるようだった。
「全く元気がいいね、あの子たちは。カロクさんも大変だ。」
背後から不意にかけられた声に、カロクは振り返った。
「
カロクの問いに、ヨアンと呼ばれた黒髪の男は、その背後に視線を向ける。そこには、先ほど立ち去ったはずのイサトが、いつの間にか静かに立っていた。完全に気配を消していたが──恐らく、それは無意識の習慣なのだろう。
「セヌの奴、ますます“あいつ”に似てきたな。」
イサトがぼそりと呟く。
それに応えるように、ヨアンも肩をすくめながら言った。
「血は争えないね。僕は遠目から見てるだけだけど、最近じゃ見た目も瓜二つだ。……リヨクの奴、精神的に大丈夫?」
心配しているような言葉だったが、カロクには、ヨアンの目元がどこか楽しげに歪んでいるように見えた。
「……表面上はな。」
カロクは苦虫を噛み潰したような顔で言い放ち、それ以上の言葉を拒むように背を向ける。
「話はこれで終わりだ。もう来ないでくれ。」
それだけを言い残し、セヌたちの元へと足早に戻っていった。
残された二人のうち、イサトがその背を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「……そうだな、もう来ないさ。」
「ただいま。サボってないだろうな。」
「帰って一言目がそれかよ。たった今最後のお客が帰ったとこだよ。」
「イサトのやつか。」
「ご名答。今日も昼から飲んでたぞ。」
「全く、お前はあんな大人になってくれるなよ。」
「なあカロク、イサトの旦那と何かあるの?」
渋い顔をするカロク。
「別に嫌だったら言わなくて良いんだけどさ。」
「なら言わん。いつか知る時が来るかも知れんがな。この話は終わりだ。急いで店じまいを終わらせろ。」
「わかったから急かすなよ。」
「リョクトも手伝ってやれ。」
「わかった!」
柔らかな雨の降るいつも通りの朝。今日も変わらず庭の花壇に虹が掛かっていた。セヌが起きればすでにリョクトの姿は無く、おそらくいつものように神社へ散歩にでも行っているのだろう。彼はじっとしていられない性格だ。午前5時半、セヌは顔を洗い着替えると水分を補給する。冷蔵庫から冷えた果実水を取り出し、グラスに注いだ。冷たいのをぐいっと喉に流し込むと幽かな涼しい甘味が身体に染み渡る。次はカロクを起こしに行く番だ。ギィと音を立てて彼の部屋の引き戸を開ける。彼は均整の取れた寝息を立て、扉の開く音もセヌの気配にも気づいていないらしい。窓掛けを開けると小窓から仄明るい夜明けの光がカロクの顔を明るくする。春風のように健やかな寝顔が眩しさで険しい表情に変わった。小窓を開けると新鮮な空気が流れ込む。冷たい風に触れて頭が冴えるのを感じた。冷たい風に触れて、頭が冴えるのを感じたセヌは、いたずらめいた笑みを浮かべる。「よし、やるか」そう言うとセヌはカロクの布団をガバッと剥がし瞬時に手を両脇に突っ込んだ。カロクはヒャっと声を上げて目を覚ました。
「セヌ、お前またこれか……!」
カロクは苦々しい顔で身を起こしまだ少し眠そうな目で、セヌを見つめる。
「……あのな、せめて起こし方を考えろ。いつもこうやって目が覚めると、心臓に悪い。」
「でも、起きるだろ?」
「起きはするが……」
今朝もカロクの小言は寝起きから快調だった。機嫌の悪いカロクと共に庭へ出て草木の手入れをする。薬草や野菜、果物を摘み、土間にある台所へそれらを運んだ。流し台に水を張り氷を入れるとそこに果物をつけておく。カロクは、水洗いした薬草を干しに調薬室へ向かう。戸を開け放って朝の風を招き入れ、柱に埋め込まれたホロ端末を軽く一撫でする。浮かび上がった天気図には、「本日の湿度:高、薬草の乾燥にご注意ください」と、気の利いたコメントが添えられていた。一方のセヌは朝ごはんの準備に取り掛かる。今日の朝御飯は昨日の残りものを消費したい。冷蔵庫の中身と睨めっこをする。
「うーん。今日の朝ごはんは夕餉の残りの魯肉飯に豆腐を入れたものと海七草の味噌汁、浅漬けと干し桃にしよう。」
浅漬けと干し桃は作り置きしてあるし魯肉飯も豆腐を入れて火を通すだけだ。その代わり味噌汁に手をかける事にしよう。ベースは鰹出汁で一重草、和布蕪、海蘊、海苔、布海苔、和布、とろろ昆布を軽く火にかけ味噌を溶かす。沸騰直前で火を止めると分厚い麩を入れた。心地よい包丁さばきで葱を刻む頃、ちょうど7時になったようで先日の店の売り上げや客の傾向などのデータを割り出したホロモニターが眼前で起動した。海南社のAI、カイナが店の業務管理をはじめ、健康管理や通話まで幅広く生活をアシストしており、セヌはこれを7時に自動的に起動するよう設定しているのである。こちら、本日のニュースです。そう言ってAIカイナはニュース用のモニターを追加で表示した。
今日のニュースです。――異能者収容区の新設についての情報です。耳飾りからニュースの音声が静かに流れる。幸都区の隣、望郷区の海上に建設されていた異能者収容区が、ついに完成したらしい。モニターには、白髪の青年――異能者の代表イザナ・ノアと、国の大臣、
望郷区はいったいに穏やかで無く、と言って一見するだけでは分からないのだが貧民街が形成されており幸都区の子供は必ず寺子屋へ入ると毎年の安全講習で望郷区の路地に入らないよう厳重注意を受ける。その望郷区にさらに物騒な収容施設が完成したわけだ。今後は望郷区への通路として幸都にも異能者を制圧するための軍人、監視官なる人達が行き交うだろう。監視官に憧れていたセヌはその事実に内心ワクワクしていた。 朝食が完成した頃合いに、ちょうどリョクトが散歩から帰ってきた。玄関を開けた音に振り返ると、髪を跳ねさせた少年が勢いよく駆け込んできた。散歩から帰ってきたばかりの体から、外の冷たい空気が一緒に流れ込んでくる。部屋の中がわずかに引き締まった。
「干し桃がある!」リョクトは目を輝かせて叫ぶと、迷うことなくいつもの席に腰を下ろす。朝から相変わらず食に貪欲である。まもなくして、薬草を干し終えたカロクも居間に姿を現し、三人は連れ立って食卓を囲んだ。あたたかな湯気の立つ味噌汁の香りが、静かな朝の空気に広がっていく。
食後、皿洗い当番のリョクトが台所に踏み台をせっせと運ぶ。踏み台をもってしてもステンレスの蛇口に背伸びしながら、器用に水を出すその姿に、セヌは小さく笑った。一方でセヌは、調薬室に戻ったカロクから一包みの薬袋を受け取り、今日の配達先を確認する。薄く染みの残る封筒には、達筆な筆致で「鷹見
「五番街の外れか。あの人、今日は施設のほうか……」
セヌは呟きながら、玄関先の棚に置かれたトランスフォーム型の電動バイクを起動する。整備された小ぶりな車体が、電子音と共に自動で形を変え、彼の身長に合わせて調整された乗車形態になる。
このバイクは、年齢制限が無く免許も不要な、安全性の高い代物であり、セヌにとっては趣味の延長線のような愛着ある乗り物だった。軽やかな走行音を響かせて、彼は街路へと滑り出す。
街の一角では、宗教家らしき者が路上に立ち、理想郷を謳う声を上げている。
@Sh-Ryokuto
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