第22話

 ボートはゆっくりと湖の中心に向かって進んでいた。周囲を囲む木々のざわめきも、空をわたる風の音も、どこか遠くから聴こえるように思えるほど、穏やかな時間が流れていた。


 白い日傘の影の中で、紅茶の香りがふわりと立ちのぼる。陶器のティーカップがそっと差し出され、その指先に触れた黒青は、小さくため息をついてからそれを受け取った。カップの中には、柔らかな金色をした紅茶が揺れている。


「なんだか、ボートに乗って猫娘のメイドたちとお茶するのって……平和でいいな」


 黒青の呟きに、隣に座る猫耳のメイドが、やさしく微笑んだ。ボートの揺れに合わせて、彼女のリボンのついた帽子がふわりと揺れる。


「私たちの世界は、本当はこんな風に……穏やかで、のんびりした世界なんですよ。戦争とかなくて、誰も辛いことがなくて……それは、悪い意味とか良い意味とか、そんなことを考える必要もないくらいに、ね」


 笑い声が風に混じって水面に落ちていく。湖の向こうでは白い鳥が羽ばたき、青と緑の景色に白い線を描く。


「この紅茶、本当に美味しいよ……ボートなんて、危ないだけだと思ってた。でも、こんな紅茶が飲めるんだったら……またボートに乗ってもいいかな」


 黒青は目を伏せて笑った。どこか守るように、紅茶の湯気の向こうに、曖昧な自分を閉じ込めるように。


「あなたは、いつも不安定な精神を抱えたままなのですね。本当にそれで……世界を修復させるだけの力があるなんて、誰も……考えつかないでしょうね」


 メイドの声は優しかったが、どこか鋭さもあった。まるで湖面の下に潜む真実を、すくい上げるような言葉だった。


「私は何も“修復”なんかしてないよ。人よりもというか、ちゃんと生きていくには……“人間らしく”しなきゃいけないって思ってるだけ」


 風が吹いて、日傘の影がゆらぐ。ボートがわずかに軋んで、湖の水がきらりと反射した。


「そんなこと考えるのは、あなたくらいですよ。みんな“自分のことばかり”。でもその“自分のことばかり”って、他人を貶めたりすることの、自分のことばかりです」


 猫耳のメイドはティーカップにそっと砂糖を一匙落とし、かき混ぜながら言葉を続けた。


「未来の人の“介入権”っていうか、その“権利”って……生存権も含まれてるわけだから。未来の人たちにとっては、我々が彼らの首を絞めてるっていう悲しい状況は、避けたいよね」


 黒青はしばらく黙って、ボートの端に寄りかかり、空を見上げた。雲がゆっくり流れていく。何百年も前から変わらず、けれど確かに違う時間を生きているように。


「……あなたらしいセリフですね、今日は。ボートに誘って……良かった」


 猫娘のメイドは微笑んだ。その微笑みは、世界の秘密を少しだけ知っている者のもののように、どこか切なげで、あたたかかった。

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