こんにちは赤ちゃん

紙の妖精さん

第1話

夕方六時。

空はすでに青から藍へとゆるやかにグラデーションを描きながら変わりはじめていた。

家々の窓にはちらほらと灯りがともり、風が乾いた葉をかすかに揺らしながら吹き抜けていく。街灯がぽつぽつと点灯しはじめ、その光が長く伸びた影をアスファルトに描いていた。


その街角に、ひとりの小さな人影があった。

黒青(くろあお)。小学校の制服を着た少女は、背中に赤いランドセルを背負い、両手でその肩紐をぎゅっと握りしめながら、住宅街の外れにある一台の自動販売機へと歩いていた。


歩幅は小さいが、迷いのない足取り。家へ帰るには少しだけ遠回りになるのに、それでも彼女はこの道を選ぶ。

理由はただひとつ。この古びた自動販売機でジュースを買うことが、彼女にとって日々のささやかな気晴らしだったから。


「今日はオレンジにしようかな…」


小さな声でつぶやきながら、制服のスカートのポケットに手を突っ込み、指先で確かめるようにして小銭を取り出す。百円玉と十円玉が冷たい金属の重みを持って掌に転がった。

そのまま慎重に投入口に入れると、機械はカタンと鈍い音を立ててそれを受け入れた。


「えっと、これかな……」


指先をボタンに伸ばしかけたそのときだった。


――ガコンッ


何かがズレるような、不自然な音。思わず身体がびくりと反応する。

その直後、自動販売機全体がかすかに震えた。まるで機械そのものが生きているかのように。

そして…………。


正面のパネルが、ゆっくりと、けれど確かな力を持って外側へと開きはじめたのだ。


ガガガ――ッ


耳にまとわりつくような金属の軋む音。重い何かが、ゆっくりと世界を開いていく。

黒青はとっさに二歩、三歩と後ろに下がった。ドアの開く軌道上に立っていたのだ。

反射的に体をひねる。その小さな身体は、思いがけない俊敏さでスレスレにそれを避けた。

風を切るような冷気が機械の内側から吹き出し、黒青の頬に触れた。


「な、なにこれ……」


思わず漏れた言葉は、誰にも届かず宙に溶けていく。


開かれたその内側には、彼女の知っている自動販売機の構造は存在しなかった。ジュースの缶も、取り出し口も、釣り銭口もない。

代わりに、そこには分厚い鉄製のドアがひとつ――まるで工場か施設の防火扉のような、異質で不気味な存在が、静かに、そこに佇んでいた。


ドアの表面にはところどころ赤茶けた錆が浮いていて、取っ手の部分には誰かの指の痕がまだ新しく残っているようにも見える。

何より奇妙だったのは、その扉が、まるで黒青が来るのをずっと待っていたかのように、自然に、そして不可解なタイミングで、再び音を立てて――


ギギギ……ガガガ……


ゆっくりと、また開いたことだった。


背後の世界が街灯に照らされていく一方で、そのドアの向こうには、明かりの届かない闇がぽっかりと口を開けていた。

そこには古びた階段があった。コンクリートの段差が、下へ下へと続いている。途中からは完全な闇の中へと飲み込まれており、先がどこまで続いているのかもわからない。


その穴の底から、ひやりとした空気が吹き上がってくる。

まるで地下に眠る別の季節が、そこに潜んでいるかのようだった。


黒青は立ち尽くし、目を凝らしてその中を見つめた。心臓がどくん、どくんと鼓動を打つ音が、なぜか自分だけに響いて聞こえる。

どこかで引き返すべきだという声がする。けれど、それと同時に、彼女の中に芽生えていた小さな“知りたい”が、その声を上回った。


黒青は小さく息をのむと、足元を確かめるように一歩、また一歩とその階段へ足を踏み入れた。

自動販売機の外の世界の光が、背後でゆっくりと遠ざかっていく。代わりに、何か別の光が、奥の奥でかすかにまたたいているようにも見えた。


そうして、黒青は知らない世界へと、静かに降りていった。

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