狂気猫
改案堂
やがて猫になる
次の患者さん、どうぞ。
はい、はじめまして。初診の方ですね。残念ながら当診療所は何かご提供したり情報を発信するところではありませんので、そういった意味であなたのご興味に沿ったお話ができるかどうかわかりませんが。それでも最近皆様お付けになっているマスクや耳栓をつけないとは、珍しい初診さんですね。
それにしても狂気猫、ですか。
最近そういったご相談をお伺いすることが多くなりましたね、ええ。あなたが初めてではありませんよ。あっ大丈夫です、ご心配なく。当院では御覧の通り感染症防止策としてアクリル板の仕切りをしておりますので、存分にお話をお聞かせくださいね。お時間も、初診の方ですから充分に取れるよう調整してあります。やっぱり直接お話をする機会は楽しく過ごしたいですからね。
ご趣味で小説を書いてらっしゃる、素敵ですね。その延長として、カクヨムというウェブサイトで狂気猫についてご興味をお持ちになった、と。
私も仕事柄様々な情報を収集することもあり、あなたのおっしゃるサイトも存じております。ホラーという分野は、都市伝説や集団意識の臨床的な情報も含まれていますからね、精神内科重宝する先生方もいらっしゃるくらいですよ。私ですか?お恥ずかしながら、少々齧る程度ですが嗜んでおりますよ。
はい、あ、一般的な情報で構わないので狂気猫について知りたい、と?
……そうですねぇ、具体的な患者さんの情報は提供出来ませんが、猫についてご興味に沿いそうなお話をしましょうか。少し落ち着いた方が良いようですからね。
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猫に関わる奇妙なご相談を頂くようになったのは、本当に最近の事です。確か、最初にお伺いしたのは例の感染症が社会問題として広まった直ぐ後の事と記憶しています。
いらっしゃったのは、冬場でもTシャツで外出するような、壮健な男性でした。スポーツジムのインストラクターを務める彼は焦燥しきった様子で、相対的に線が細い奥様に付き添われてのご来院です。
男性は、自宅から猫が逃げた!猫が!猫が!と強く主張するのですが、奥様からの事前相談では愛犬が失踪したのこと。暫く自力で捜索したものの見つからず、ある日から猫が!と叫ぶようになり、訝しんだ奥様からの連絡がきっかけでした。
彼に犬種は?と尋ねると、猫種はボクサー、名はワン太郎だと。お写真を拝見したところ、にこやかなご本人様と映っているのは賢そうなボクサー犬でした。
奥様にお伺いしたところ、彼は犬、という存在を認識できず、全て猫と言い換えてしまうようなのです。
実際私も様々な観点で彼の診察を重ねましたが、家で飼う家猫とは別に、狼から人類と共に生きる猫へ進化した、という、なんとも奇妙な世界観をお持ちでした。
のちに脱走したワン太郎君は無事保護されご夫婦の元へ返されたそうですが、彼が異常に猫可愛がりする他は以前と変わらない飼い方に戻ったそうです。
ご報告いただいた奥様も、もう犬は認識できないようでしたが。
このケースはご夫婦そろって犬に対する認識が"猫"という言葉に替わった以外は、日常生活に支障をきたさなかった平穏なケースですね。狂気、と呼べるほどの事はありません。
この例では。
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診療の経過観察判断から半年ほど経ってからでしょうか。猫に関するご相談で次にいらっしゃったのは、妙齢の女性。いわゆるパンクファッションの、特徴的な装飾を好む目を引く出で立ちの方でしたね。
彼女は感染症の発見前から通院なさっていましたが、以前から患っていた拒食症が進行し、食べ物が全く喉を通らなくなってしまいました。
ある日から、台所に猫がいるようになった、と。
台所だけでなく、コンビニの猫コーナーや猫屋の総菜猫まで、数少ない好物の猫が可哀想で食べるに忍ばず、ついに液体しか喉を通らなくなったので相談したい、と真剣におっしゃいます。
パン、という存在を認識できず、全て猫と言い換えているようです。
私もパンが好物でして、お昼に食べようと通勤前に買ってきた辛口ビーフカレーパンとクリーム・カスタード・こしあんの三色パンを見てもらったのですが、彼女なんて答えたと思いますか?
茶虎猫と三毛猫を袋から出しましたね、ですよ!
私ちょっと笑ってしまいました。仕事柄そんなことをしてはいけないんですが、つい気心が知れていたからというか。中身を教えていないので何か分からなかったはずなのですが、言い当てた点は少し不気味でした。
彼女は小麦粉やイースト菌など、構成要素は個別に認識できるようなのです。ただ組み合わさってパンになると途端に猫、と言う。
世の中にはパン以外にも食べ物はたくさんあるでしょうに、とお思いでしょうか。彼女はもともと重度の偏食で、食べ物はジャムトーストとチョココロネ、飲み物はビールとコーラしか口にしない生活を十年以上続けていました。
なかなか食生活も改善されず、当然ながら健康状態も思わしくなかったのですが、パンを猫と認識するようになってからは、日に日にやつれ、最終的には総合病院へ入院なさったそうです。ただし病状は、高血圧や糖尿病ではなく、野良猫を齧ったことによる重度の敗血病でしたが。
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それからというものの、特定の何かを猫と認識する方の相談が増えました。
特に転換点と言えるのは、彼でしょうか。
数字の7を猫と認識する、体格の良い中年男性。
彼は公認会計士という職業柄数字に接する機会が多く、とある日から突然仕事が出来なくなったのでどうにかしてほしい、と駆け込みで診察にあがられました。
流石に診療所に来てまでひと昔前の芸人の真似をする人は居なかろう、と思い数字を数えていただいたところ、1、2、3、4、5、6、猫、8……と続けるのです。
倍数では猫とならず、13、14、15、16、じゅう猫、18……となるようですが、掛け算は猫イチが猫、ご本人は至って真面目ながら苦しそうな表情で呻くようにお答えなさいました。
私も、この時は大分困惑しました。
ただ彼の場合更に時間経過とともに他の数字も猫に置き換わって行き、遂には数字を全て猫としか認識できなくなってしまい、最終的にはやはり緊急措置入院なさいました。
物質ではなく概念を猫に入れ替えられる、この意味が解りますか?
この頃からです、実に様々な概念を猫としか認識できなくなった誤認症の方々がご相談にいらっしゃるようになったのは。
ある方は睡眠を、ある方は運動を、またある方は歌唱を、曲線を、エネルギーを、気流を、温度を、ありとあらゆる何かについて猫と認識する方が次々と相談に来るのです。
そうです貴方も猫なのでしょう?
わかっておりますとも。
猫は可愛いですからね、自分の好きなものを猫だと思い込むのは至って普遍的な事なのです。
もはや、猫なしでは生きられない。そうでしょう、だから貴方もこの診療所にご相談にいらっしゃった。猫を、猫を、猫を求めて!
……ほら、あなたも猫からの狂気を、狂気猫を体験できませんでしたか?
ははは、ちょっとした冗談ですよ。今日はたまたま診察の予約も空いていましてね、時間の埋め合わせで狂気猫について語りたかったのですよ。サービスですよサービス、昨今の精神内科の乱立で、当院も少し工夫が必要でして。
だから、認識を弄る猫、狂気猫は冗談の中だけの話ですからね。
今日のところは普段の辛い気持ちを和らげる鎮痛剤と、お疲れのようなので睡眠をとりやすくする導入剤、それから深く眠れる睡眠改善薬を処方しておきましょうね、それではお大事に。次回の予約は……
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……今日お話しした特別隔離室の患者さん、絶好調でしたね。なんですか、狂気猫って。
ああ、あそこは一般的な病室では同居できない特別な人達だけが選別されて入室するからね。
彼は、どこが特別なんです?
彼は、対話干渉性認識誤認感染症候群と言って、直接会話した人間の認識を変えてしまう感染性疾患のキャリアなんだ。だから、マイク・スピーカを通じず直接会話した人間は、例外なく狂気猫という概念に取りつかれてしまう。
今回の配属では不注意で残念だが、君も緊急で隔離処置しなければならなくなった。
そんな、じゃあ僕もあの柵の向こうの、猫たちの仲間入りですか!あれ、ちょっと先輩、背伸びして話聞かないつもりですか、襟が突然せりあがって前が見えません、袖も長くなってベルトも、あれ、あれ、あっ、……
もう私のイヤホンにはニャーニャーという鳴き声しか届かない。
認識の誤認なぞというから皆誤解するんだ、肉体こそ精神の玩具であり認識の変異でいとも容易く変質するという現実を受け止めるべきではなかろうか。
医療の最前線を甘く見てはいけない。正しい知識こそ、最大の防疫手段なのだから。
狂気猫 改案堂 @kai20220512
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