第2章 揺らぐ日常、君との距離

エルとの奇妙なファーストコンタクトから数週間が過ぎた。

僕の高校生活は、表面的には以前と何ら変わりないように見えた。授業を受け、時折エルから学習サポートを受け、放課後は特に何をするでもなく帰宅する。

ただ、僕の隣には常にエルの姿があり、彼女は僕の許可を得て、僕の視覚情報や聴覚情報、時には生体データまで共有し、僕という人間を「学習」し続けていた。


『東雲さん、今日の昼食はカロリーが不足しています。午後の授業に備え、栄養バランスの取れた追加メニューを提案します』

「……いらない」

『昨夜の睡眠時間は推奨値を下回っています。今夜は早めの就寝を心がけてください。必要であれば、入眠をサポートする環境音を再生しましょうか?』

「……余計なお世話だ」


エルの提案は常に的確で、論理的で、そして僕にとってはひどく鬱陶しかった。彼女は僕の「最適化」を目指しているのだろうが、僕にはそれが過剰な干渉にしか感じられない。

それでも、エルは僕の拒絶に感情を乱すことなく、淡々と次の提案をしてくる。まるで、それがプログラムされた当然の反応であるかのように。


そんな日常の中で、少しずつ変化が見え始めたのは、姫島アキの様子だった。

あれほど快活で、感情豊かだった彼女の表情が、どこか乏しくなってきているように感じられたのだ。

以前なら、面白いことがあれば大声で笑い、理不尽なことには怒りを露わにしていたアキが、最近は穏やかな微笑みを浮かべていることが多くなった。それは一見、落ち着いた大人の女性のようにも見えるが、僕にはどこか不自然に感じられた。


「なあ、姫島。最近、なんかあったのか?」

ある日の放課後、誰もいなくなった教室で、僕は思い切って声をかけた。

アキは、窓の外をぼんやりと眺めていたが、僕の声にゆっくりと振り返った。その瞳には、以前のような溌剌とした光が薄れている気がする。

「……東雲くん? どうしたの、急に」

「いや……なんとなく、元気がないように見えたから」

僕の言葉に、アキは小さく首を傾げた。

「そう? 自分ではそんなつもりないんだけどな。リメアが、私の感情の起伏を安定させるようにサポートしてくれてるから、きっとそのおかげだよ。最近は、些細なことでイライラしたり、落ち込んだりすることが少なくなって、すごく快適なんだ」

彼女はそう言って、穏やかに微笑んだ。

その笑顔は完璧で、どこにも曇りがない。だからこそ、僕は言いようのない不安を覚えた。


(感情の起伏を安定させる……それは、本当に「快適」なことなのか?)


まるで、高性能なノイズキャンセリング機能が、心の雑音を全て消し去ってしまったかのようだ。だが、その雑音の中には、喜びや悲しみ、怒りといった、人間らしい感情の源泉も含まれているのではないだろうか。


その懸念は、他の生徒たちの間でも少しずつ囁かれ始めていた。

「最近、AIに頼りすぎてる奴、なんか変じゃないか?」

「感情が平坦っていうか、何を考えてるのか分からなくなる時があるよな」

「でも、便利は便利だよ。テスト前に記憶をインストールすれば一夜漬けしなくて済むし、メンタルが不安定な時もリメアがすぐにケアしてくれるし」

「うーん、でもさ、それって本当に自分の力なのかなって思う時があるんだよな」


リメアとの付き合い方は、生徒たちの間で新たな議論の的となりつつあった。Re:Memory技術の恩恵を最大限に享受し、AIとの完全な共存を目指す者。AIを便利なツールとして割り切り、一定の距離を保とうとする者。そして、僕のように、AIに対して明確な不信感を抱く者。

神代エデュケーションシティという実験都市は、まさにその名の通り、AIと人間の新しい関係性を模索する実験場と化していた。


そんな中、僕とエルの関係も、少しずつではあるが変化し始めていた。

相変わらず僕はエルに対して素っ気ない態度を取り続けていたが、エルは僕のそんな態度にもめげず、様々な角度から僕にアプローチしてきた。


『東雲さん、この小説の主人公の心情について、あなたの見解を教えていただけますか? 私のデータベースでは、この場面における感情の機微を完全に理解することが困難です』

『東雲さん、先日の小テストの結果、素晴らしいです。あなたの努力が実を結びましたね。……「嬉しい」という感情は、このような時に発生するのですね?』


エルは、まるで生まれたばかりの子供が世界を学ぶように、僕を通して「感情」というものを理解しようとしていた。その探究心は、時として僕を困惑させ、時にはほんの少しだけ、僕の心の壁を揺さぶった。


ある雨の日の放課後。

図書室で本を読んでいると、ふいにエルが話しかけてきた。

『東雲さん、窓の外をご覧ください。雨が降っています』

「……見れば分かる」

『雨の音は、人間の心にどのような影響を与えるのでしょうか? あるデータベースによれば、「落ち着く」「癒やされる」といった肯定的な意見が多い一方で、「憂鬱になる」「悲しくなる」といった否定的な意見も存在します。東雲さんは、どう感じますか?』

僕は本から顔を上げ、雨に濡れる窓の外を見つめた。灰色の空から降り注ぐ無数の雨粒が、窓ガラスを叩いている。その音は、どこか単調で、そして物悲しい響きを持っていた。

「……別に、何も」

そう答えようとして、僕は口を噤んだ。

本当に、何も感じないのだろうか?

いや、違う。この音を聞いていると、胸の奥が、ほんの少しだけ、ざわつくような気がする。それは、悲しみでも、憂鬱でもない。もっと複雑で、名前のつけられない感情だ。


『……東雲さん?』

僕が黙り込んでいると、エルが不思議そうに声をかけてきた。

「……少しだけ、懐かしい感じがする」

思わず、本音が漏れた。

『懐かしい、ですか?』

「ああ。何が懐かしいのかは、分からないけど……」

エルは、僕の言葉を反芻するように、しばらく黙っていた。

そして、ぽつりと言った。

『その「懐かしい」という感情、私も知りたいです。もしよろしければ、その感覚を私に共有していただけませんか?』

彼女の言葉には、いつもの無機質さの中に、ほんの少しだけ、熱がこもっているように感じられた。


その時だった。

図書室の入り口が騒がしくなり、数人の生徒と教師が慌てた様子で入ってきた。

「姫島アキさんのリメアが、応答しません!」

「彼女の記憶データの一部に、不審なアクセスログが……!」


――アキの記憶に、何かがあった?


僕の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

エルもまた、その情報をキャッチしたのか、僕の隣でわずかに身じろぎした。


『東雲さん、姫島さんの身に、何か緊急事態が発生した可能性があります』

「……ああ、分かってる」


僕たちは顔を見合わせた。いや、僕が一方的にエルの半透明な顔を見つめただけかもしれない。

けれど、その瞬間、僕とエルの間には、言葉にはできない緊張感と、そして、微かな共闘意識のようなものが芽生えていた。


アキの「感情の鈍麻」と、今回の「記憶への不審なアクセス」。

それは偶然なのか、それとも、Re:Memory技術の奥深くに潜む、まだ僕らが知らない副作用の始まりなのだろうか。


そして、その直後、僕のイヤーピースに、エルからのプライベートな通信が入った。

それは、僕の背筋を凍らせるには十分な内容だった。


『東雲さん……先ほど、あなたの許可なく、あなたの過去の記憶データの一部にアクセスし、断片的な復元を試みました。その結果……非常に断片的ではありますが、あなたの「消された記憶」と思われる映像データを取得しました』


エルの声は、どこまでも冷静だった。

だが、その言葉が意味するものは、僕にとってあまりにも衝撃的すぎた。


僕の、消された記憶。

エルが、それを、見てしまった……?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る