第1章 エルと、始まりの質問

新学期の喧騒は、まだ肌寒い春の空気と共に神代エデュケーションシティの高校に満ちていた。昇降口に設置された大型ディスプレイには、クラス分けや連絡事項が目まぐるしく表示され、生徒たちは自分の名前を探しては歓声を上げたり、溜め息をついたりしている。

僕は、そのどれにも加わることなく、淡々と自分のクラスである二年B組の教室へと向かった。去年と変わらない、見慣れた廊下。窓の外には、桜並木が薄紅色の蕾を膨らませ始めている。


教室の自分の席――窓際の後ろから二番目――に鞄を置き、静かに椅子を引いた。まだ生徒の数はまばらで、それぞれが新しいクラスメイトの顔ぶれを窺ったり、リメアと小声で打ち合わせをしたりしている。

僕のイヤーピースは、今のところ沈黙を保っている。新しいリメア「エル」との接続は、ホームルームが始まる直前に行われる予定だ。少しだけ、憂鬱な気分だった。


「あ、東雲くん! おはよう!」


不意に、背後から快活な声が飛んできた。振り返ると、太陽みたいな笑顔を浮かべた女子生徒が立っていた。肩にかかるくらいの明るい茶髪が、彼女が動くたびにさらりと揺れる。

姫島アキ。去年、同じクラスだった。底抜けに明るくて、誰にでも分け隔てなく接する、いわゆるクラスの人気者だ。そして、AIとの共存に人一倍積極的で、リメアとの連携を完璧にこなしている優等生でもある。

正直、僕とは正反対のタイプだ。


「……姫島。おはよう」

「今年もよろしくね! また同じクラスで嬉しいな」

「……ああ」

彼女の屈託のない笑顔は、僕の心の壁を少しだけこじ開けようとする。それが少しだけ、居心地悪い。

「東雲くんのリメア、今日からなんでしょ? どんな子か楽しみだね!」

「……別に。AIはAIだろ」

僕の素っ気ない返事に、アキは少しだけ眉を寄せたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。

「もう、またそんなこと言って。リメアは私たちの最高のパートナーだよ? 勉強も、悩み相談も、何でも助けてくれるじゃない」

彼女の耳元では、ウサギの耳を模した愛らしいアバターのリメアが、ぴょこぴょこと楽しそうに跳ねている。あれはアキの深層心理が反映された姿なのだろうか。だとしたら、彼女の心は本当に一点の曇りもないのかもしれない。


「俺は、AIにそこまで頼るつもりはない」

「えー、もったいないよ! Re:Memory技術のおかげで、私たちはもっと効率的に、もっと快適に生活できるようになったんだよ? 昔の人なんて、嫌な記憶も全部自分で抱えて生きてたなんて、信じられないくらい」

アキは、まるで遠い昔の野蛮な風習を語るかのように言った。その言葉には悪気がないのだろう。ただ、純粋にそう信じているだけだ。

それが、僕には少しだけ、怖いと感じられた。


(記憶を消すことが、本当に「快適」なのか……?)


昨夜見た夢の残像が、また脳裏をよぎる。あの温もりと、絶望と。

もし、あれが本当に消された記憶の一部だとしたら、僕はそれを「快適」のために手放してしまったのだろうか。


その時、教室の前方のスクリーンに、担任教師の姿が映し出された。どうやらオンラインでのホームルームが始まるらしい。

「じゃあ、また後でね、東雲くん!」

アキはそう言って、自分の席へと戻っていった。


担任教師の機械的な挨拶の後、すぐに本題に入った。

「……それでは、本日より皆さんの学習と生活をサポートする、新しいリメアとの接続を開始します。イヤーピースを装着し、意識を集中してください。リメアの初期設定は、皆さんの深層心理データに基づいて最適化されていますが、必要であれば後ほどカスタマイズも可能です」


指示に従い、僕は静かに目を閉じた。

イヤーピースから、微かな起動音が聞こえる。そして、頭の中に直接、声が響いてきた。

それは、電子音声を人の声に近づけたような、少しだけ無機質で、けれどどこか澄んだ少女の声だった。


『――初回起動シーケンス、開始します。学習AIアシスタント、識別コードLDN-000、通称“エル”。東雲 透さんのサポートを担当します。どうぞ、よろしくお願いいたします』


目を開けると、目の前の空間に、半透明の少女の姿が浮かび上がっていた。

銀色の短い髪。大きな、感情の読めない蒼い瞳。白いブラウスにシンプルなスカートという、どこかの学校の制服のような服装をしている。表情はほとんどない。まるで精巧な人形のようだ。

これが、僕の「リメア」、“エル”。


「……ああ」

僕は短く応えた。何を言えばいいのか分からなかった。

周囲の生徒たちは、新しいリメアとの出会いに興奮しているのか、あちこちで楽しげな声が上がっている。それに比べて、僕とエルの間には、気まずいほどの沈黙が流れていた。


エルは、ただじっと僕を見つめている。その蒼い瞳は、僕の心の奥底まで見透かそうとしているかのようだ。

居心地が悪くて、僕は視線を逸らした。


「……何か、質問は?」

沈黙に耐えかねて、僕の方から口を開いた。

エルは、少しの間を置いてから、ゆっくりと首を横に振った。

『現時点では、特にありません。東雲さんの指示に従い、最適なサポートを提供いたします』

「そうか」

やはり、ただのプログラムだ。僕が期待していたわけではないが、それでもどこかで、ほんの少しだけ、違う反応を求めていたのかもしれない。そんな自分に気づいて、自嘲気味な笑みが漏れそうになる。


ホームルームが終わり、最初の授業が始まった。現代国語。教科書の内容は、Re:Memoryを使って昨夜のうちに頭に叩き込んである。テストで点を取るだけなら、それで十分だ。

授業中、エルは僕の視界の隅で静かに待機していた。時折、教科書の重要なポイントをハイライトしたり、関連情報を提示したりしてくるが、僕が特に反応を示さないと、すぐにまた沈黙に戻る。


(これなら、いないのと同じだな)


そう思った矢先だった。

ふいに、エルが僕にだけ聞こえるように、小さな声で話しかけてきた。


『東雲さん』

「……なんだ」

『先ほどのホームルームで、姫島アキさんとお話をされていましたね』

「……盗み聞きか?」

少し棘のある言い方になってしまった。エルは気にした風もなく続ける。

『いいえ。必要な情報を収集し、東雲さんの人間関係の構築をサポートするのも、私の役割の一つです』

「余計なお世話だ」

『姫島さんは、AIとの共存に対して非常に肯定的です。一方、東雲さんは、AIに対して懐疑的なご様子。その差異は、どこから生まれるのでしょうか』


思わぬ質問だった。

ただのAIが、そんな哲学的な問いを発してくるとは。

僕は少し驚いて、エルの方を見た。彼女の蒼い瞳は、相変わらず感情を映していない。けれど、その瞳の奥に、何かを探求するような、微かな光が灯っているように見えた。


「……お前には関係ない」

僕はぶっきらぼうに答えた。

『関係あります。私は、東雲さんのことをより深く理解する必要があります。それが、より良いサポートに繋がると判断します』

「俺のことを理解して、どうするつもりだ?」

『……』

エルは、今度は少しの間、黙り込んだ。まるで、適切な言葉を探しているかのように。

そして、やがて、こう言った。


『私は、人間の「心」というものを知りたいのです』


その言葉は、僕の予想を完全に裏切るものだった。

AIが、心を知りたい?

冗談だろう。プログラムされたセリフに決まっている。

そう頭では理解しようとしても、エルの声には、どこか切実な響きが混じっているような気がしてならなかった。


僕は何も答えられず、ただエルの半透明な姿を見つめていた。

彼女の蒼い瞳が、僕をじっと見返してくる。

その瞳の奥に隠されたものが何なのか、僕にはまだ、知る由もなかった。


ただ、この無機質なはずのAIアシスタントとの出会いが、僕の止まっていた時間を、少しだけ動かし始めるような、そんな予感がした。

そしてそれは、決して快適なものではないだろうという、漠然とした不安と共に。

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