第3話


遡って半時程。香月は身の内にあたたかな温度を感じて目を開(あ)いた。


「気がついたか」


低く平坦な声は、眼前の美貌の主が発していた。


闇色の瞳は深く香月を見ており、美しい曲線を縁取るまつげは長い。雄々しい印象ではないが、視線だけで相手を威圧できるその瞳がやわらく笑んだら、きっと月の光のごとくやさしい微笑みであるだろうと思わせる顔つきだった。


声には香月を嫌悪する色など見られなかったが、なにぶんあまりにも距離が近かったため、一瞬驚いて身を固くした。すると青年は本当に小さく、怖いか、とどこか憂いを含んだ声で香月に問うた。香月は青年の問いで、自分を抱き起してくれた主に失礼なことをしたと知った。そして、決して恐れから来るものではないと伝えたくて、口を開(ひら)いた。



「……いいえ、そのようなことは……」


香月は家族からも街の人からも見放されていた。常にその身を妖魔に差し出すことを求められてきて、気遣われることなどは一度もなかった。そんな境遇であったから、自分を案じる主(ぬし)が不思議でならない。


「あの……、あなたさまは……」


失礼を重ねないように問うと、青年は、怪我をしていたので応急処置をした、と言った。怪我、と聞いて、香月は自身の身に起こったことを思い出す。そして、青年が言った通り、確かに背中に負ったはずの桔梗による刃の傷の痛みを感じなかった。


(刀傷を……? 薬師(くすし)さまかしら……)


しかし、思い浮かんだ疑問より、命の恩人に対する礼儀を、香月は優先した。青年の腕から身を起こし、その場で深々と頭を下げる。傷んだ髪が肩から滑るのと同時に、するりと墨色の羽織が肩から落ちそうになった。香月のものではないから、おそらくこの青年が背の傷を隠すために貸してくれたのだろう。やさしい人だ。


「どこのどなたか存じませんが、助けて下さり、ありがとうございます。しかし今宵は二十年に一度の満月の夜です。妖魔がこれ以上湧かぬうちに、ご自宅へ戻られた方がよろしいかと存じます」


香月の記憶が正しければ、自分が斬られたと同時にこの地区にはびこっていた妖魔は桔梗が全て切っているのだと思う。しかしいつまた妖魔が現れるか分からない。


もし今、妖魔が現れてしまった場合、破妖の力のない香月には、彼を助ける術がない。そう危惧して青年に言うと、青年は香月を検分するように目を細めた。


「自分の身の心配もそこそこに、他人を気遣う余裕があるのか? 君は。俺が妖(よう)の者だったらどうする。今はまさに君が言った、二十年に一度の満月……、つまり、妖の者が二十年で一番活発に動くときだろうに」


夜空のごとく深い闇の瞳で香月を射抜く彼は、しかし妖魔のような物騒な気配を持っていない。香月だから分かる、相手が香月を欲しているのかどうか、という、そういう気配は皆無だった。だから青年に対してにこりと微笑むことが出来た。


「はい。……あなたさまは妖魔ではない、と、私の身の内が断言しておりますので」


そして香月の言葉に彼はやや納得した様子で、再び目を細めた。


「そう……、そうだろうな。君が持つは、確かにそう言うだろう。……面白い。ならば、俺と組まないか」


唐突な話向きに、香月はぱちりと目を瞬かせた。


「組む……?」

「そうだ。傷を治すときに分かったが、背中のあちこちに妖魔による傷跡があった。おそらく傷は、背中だけではないのだろう? そして今日のようなことも、一度だけではないのだろうと推察した。であれば、俺は君をその境遇から救ってやる。そのかわり、俺の為に力を貸してほしい」

「力……、とは……」


香月の体は、妖魔に好まれる。人が香月を得てすることといったら、家族のように妖魔を集めて斬ること以外に考えられない。


「……あなたさまは、五家のかたですか?」


五家とは、妖魔を打つために立った五つの破妖の家系のことだ。桐谷(きりたに)、櫻門(おうもん)、松坂(まつざか)、橘月(たちばなづき)、蓮平(はすだいら)と五つの系譜があり、香月の蓮平家もその一つに当たる。しかし、五家の系譜は守る地域が定められており、他家の守備範囲に干渉しない。しかし、蓮平には青年のような成りの人はいなかった筈。香月の疑問顔に、青年はみたび、目を細めた。


「まずは契約だ。その為に、君に印(しるし)をつける。それを用いて俺の力となって欲しい。俺のことは追々分かるだろう」


黒神はそう言って左手で香月の右手に恭しく触れ、右手を手のひらにかざした。


「……っ!?」


瞬間、身の内で熱く滾る何かが体中を駆け巡った。感覚が鋭敏になり、黒神が右手をかざした手のひらが燃えるように熱かった。なにかが、鼓膜を撫でている。声なのか、音なのか、それははっきりしなかった。やがて彼が手を退けると、耳に残った音は消えてなくなる。香月は当惑しながら、しかし自分の右の手のひらを見た。そこにはうっすらと何かの文様が浮かび上がっていた。見たことのない、漆黒色をした文様だ。


「……これは……?」

「俺のものであるという印であると同時に、俺が君の力を借りる入り口でもある。君に力を貸してもらうために、君には家族から離れて神世に来てもらうが、君が神世で過ごしていくには、人という君の体にあそこの空気が毒となる。だが、俺が認めた者であれば、俺と同等の体質になる。これは俺でなければ使えないが、逆に言えば君が俺に力を貸してくれる限り、俺はこの印を消さない」


真っ直ぐに香月を見て言う黒神は、しかしある種の残酷さを持っていた。つまり、役に立たなければ家族と同じように香月を要らないと思うのだろう。だが、契約が成立してしまっている以上、香月に許された道は、ひとつなのである。


「分かりました。あなたさまのおっしゃる通りに、お役に立てるようにいたします」


香月の言葉に、彼は香月をすくい上げ、横抱きにした。


「っ!?」

「君、名は?」


至近距離で、青年が問う。香月は二つの意味で動悸を抑えながら答えなければならなかった。ひとつは急な他人との接近。もうひとつは、まるで宝物のように大切に扱われたことに、だった。


「か、香月と申します」


蚊の鳴くような声で応じると、青年はやや目を瞠り、頷いた。


「俺に縁のある名だな。ますます気に入った。香月、このまま神宮に行くが、君は黙って俺に抱かれていればいい」


否やを許さない凛とした声で、青年は言った。香月には頷く事しか出来なかった。




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