第2話

大陸の東の果ての更に海を隔てたところに、ひとつの小さな島国があった。神の守りしこの小さき島国には、神の御力を頂き、街を、国を、異界からの侵入者・妖魔から守る破妖五家が存在した。


その一家・蓮平は、二十年に一度の神の降臨を、御座所の一角である神の間・神宮にて神官と巫女に見守られながら、今か今かと待ち構えていた。桔梗たちが座す広間の正面には五尺は超える鏡がしつらえられており、その上部には紙垂が括られている。鏡の前には刀掛けに載せられた破妖刀が置かれ、神降臨の際にその神力を分けてもらう準備は既に万端だった。


やがて巫女の鳴らす鈴の音に乗って、その鏡からさやけき光が零れはじめ、淡い金色の光が部屋に満ち溢れると、一人の男が音もなくその場に現れた。


男は艶やかな腰までの黒の髪を緩く束ね、なだらかな曲線を持つ闇色の瞳を湛えている。頬骨から顎にかけては余分な肉はなく、また唇は薄くそれが少し引き結ばれていて冴えたる面持ちだ。黒檀のごとく深い黒の着物に同色の羽織を身に着けた体躯は程よく筋が付き、すらりと背を伸ばして座したる桔梗たちを一瞥した。現れた男に、父親は顔を伏せたまま恭しく申し述べる。


「黒神さま。我ら蓮平、二十年のお務めを果たし、今ひとたびお力となるべく、今代はこの者にお力を頂きたい」


ぬかづいて申し述べる父親の言葉に、桔梗が平伏したまま男――黒神――の前へ膝行(しっこう)でにじり寄った。刀掛けから手に捧げ持ち、神に差し出したるは、刃の毀れたひと振りの破妖刀。先程香月を斬った刀である。黒神はその刃をじっと見つめる。


「お前がこの者を斬ったのか」


黒神は静かに言った。え、と、桔梗が顔を上げる。視線の先には冷ややかに自分を見下ろす黒神に抱かれた香月が居た。


「お、お姉さま……!」


桔梗の声に、平伏していた父親も顔を上げ、驚愕した。


「香月……! 桔梗、お前、手心を加えたのか!?」

「そんなわけありません! じゃあ、やっぱり刀が旧かったのがいけなかったの……!?」


父親も桔梗も、確かに斬って捨てた筈の香月を見て、動じている。神官はぴくりと片眉を上げたが、彼らは気づかない。桔梗たちの騒ぎを、黒神は冷ややかに蔑視の視線を向けた。


「お前たちは街の者、国の民を守るために居るのではないのか。その責を果たさず、よくもまあ図々しく我が力を欲したものだな」


部屋の空気が凍えるような冷徹さで、黒神は言った。父親が震えあがりながら、しかしさらに申し述べる。


「お……、お言葉ですが、黒神さま。その者は人の成りをした妖魔。黒い血を流すなど、人ではありませぬ……!」


父親の言葉に、母親も我に返る。


「そうです、黒神さま! この娘がこの街に妖魔を引き寄せているのです! 黒神さまのお力で、その者を消して頂けませんでしょうか!?」

「姉はあなたさまの手足にもなれない無能ものだったのです! 街に混乱を招く、忌むべき姉です!」


母親も桔梗も黒神を前に香月の存在を認めたがらず、これを好機とばかりに香月の排除を陳情する。ひたすらに家族の役に立とうと、自らを餌にして来た香月は、自分はこうまでも彼らから疎まれていたのかと悲懐(ひかい)し、家族たちから目を背けた。……香月を抱いている黒神の腕に、力が籠る。


「お前たちは、この娘が持つ力を見定めずに己が刃を向けた。その行い、浅はかにも程がある。この娘は我が希望。我が赦し。本日この時をもって、この娘は俺の住まう神世にて預かる。俺が完全たりえた暁には、お前たちの力など微塵も欲しない」


そう言って、黒神は香月を抱いたまま桔梗たちに背を向けた。その背に桔梗が追いすがる。


「黒神さま! 私たちをお見捨てになるのですか!? 蓮平家に生まれ落ちて十五年、来る日も来る日も黒神さまの手足となって働いてきましたものを……!」


桔梗が黒神の着物の袂を握るが、黒神はそれをにべもなく払いのける。


「触れるな。下衆が」


静かな怒気を露わになり、黒いもやが黒神の周りに湧きたった。


「ひっ!」


本能的な恐怖に、桔梗が手を引く。じわり、と、妖魔に触れた時のような皮膚の焼ける痛みが走った。やけどを負うほどではないが、じりじりとした熱のくすぶる感覚が手の甲に残る。

黒神はもはや桔梗たちと必要とせずに、鏡に向き直り、溢れる光の中、その中に消えた。桔梗は自身の手の甲と、鏡の中に消えて行った黒神を見比べて、戦慄く唇をぎゅっと噛んだ。


「お父さま……」


二人が消えた鏡を見つめたまま、桔梗は自身の抱いた疑問を言葉に載せる。


「お父さま……。あの方は一体……?」


呟き、振り返ると、父親が憎悪を露わにした顔で、二人の消えた鏡を凝視していた。


「堕ち神めが……。私たちの邪魔などさせぬ……!」


神官が難しい顔をして目を閉じた。

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