終章

 鳥居は神社の入り口であると共に、まったくの偶然によって鉄塔が繋ぐ別次元世界との門でもあった。中谷は溜め息をつく。不気味な建材の集合体である銀の構造物が思い起こされた……銀は、最も電導性の高い金属の一つだ。あれは、太古の時代に落雷を集めるためだけに考えられた、醜悪な避雷針なのだ。現代なら、それは銀で造る必要はない。勝手に雷電を引き寄せる高い鉄塔が、いくらでもあるのだから。

 今や塔の頂上には稲妻が次々と突き刺さり、地面をも揺らす轟音が鳴り続けていた。音と光が激しさを増し、前に落ちた雷光が消えないうちに次の雷が後を追い、それが頂上付近をのたうつように迸っているうちに次の衝撃が……まさしくそれは地獄の一角を思わせる光景だった。

 かつてこの世に繰り広げられたことのない異様な落雷の爆撃が、すべてたった一つの塔に集中している。常識外れな帯電によって、周囲に焦げ臭い香りが放たれ、疾風のような静電気によって大気そのものが緊張している。鼓膜を突き破らんばかりの雷電の絶叫だけが放埒に、暴力的に、爆発的に響き渡った。

 眩惑に四方を囲まれ、五体を脅かす灼熱の爪に、六腑が恐怖に呻いて嘔吐感を訴える。ポオの「メイルシュトロームに呑まれて」でさえ、音を描くことまではできなかった。

 貪欲な口を開ける大渦とは異なり、歪にねじ曲がった螺旋階段めいた目の前の雷は、大自然の謙虚な悪戯などではない。明らかに何かが集められている、もしくは固く閉ざされた扉を少しずつこじ開けてゆくような、高ぶる緊迫感が見るものを取り囲み、脳髄まで痺れる電気の圧力の前に、言葉を失うほかなかった。有賀裕哉を除いては。

「ご覧よ、これは不思議なことなどでハない。すべて自然の理ノ内に、たダし人類が想像だにしナかッた果てしなく大いなる自然の内に、まったく幻想のモノでない原理に内包された現象だ」

 有賀の恍惚とした歓喜の声は、雷の音に擦れながらも辺りに響いた。ビリビリと空気を伝わる電流の気配が、中谷の怖気立った全身を包んで、言い得ない悪寒のつたを絡ませる。

 連なるといって差し支えない落雷の嵐は、その威力でもって今にも鉄塔を粉砕しかねないほどで、それも刻一刻と激しさを増しゆき、国中の電気すべてがこの一カ所に注がれているようだった。

 それは自然のわざであるはずがなかった。少なくとも、落雷と呼ばれる浮遊電子の放電現象の自然な姿でなかった。厳然と目の前に広がる光景は、壮絶な偶然の一致を、即ち古の祠を守護する鳥居の真正面に高く突き立つ鉄塔を見いだした男の、痴れた確信と邪悪な韻によって生み出されたものに他ならなかった。鳥居は聖域と俗世を隔てる性質ゆえに、今は絞られたゲートの役割を果たしており、その反対側にて参道に繋がっている名もなき道に、曰く言い難い瘴気じみた埃が舞っている。地面が油ぎった虹色に照り返し始め、雷光が弾けるたびに不快な艶の上を青白い火花が滑走する。心騒がす虹色のスペクトルは、どのようにしてか地面を離れて煙の坂道のように緩やかに鉄塔へと伸び、その中腹へと繋がっていた。

 耳をつんざく無数の轟雷が止めどなく降り注ぐ鋼の塔。非実体的にゆらめく道めいた極彩色のスペクトル。毒々しい埃が漂い不気味に艶めく地面。古来の魔力を枯らしながらもそびえ立つ鳥居。これらを認めた中谷は、有賀のような興奮と陶酔に抗いながらも、すべてを理解した。

 道ができていた。雲の中か、空か、宇宙か、とにかくどこかと鳥居を繋ぐ一本の通路が、今その目の前で完成しつつあったのだ。

「成しエる。まッタく伝承と記録の通り。すべては本当のことで、今こコで俺によって再現サレようとシている!」

 有賀は感涙を溢れさせた目を見開き、雷光の眩しさなど気にならないかのように鉄塔の頂を凝視していた。

「なぁ、有賀!」

 中谷はかつての友の名を呼んだ。有賀は不気味に痙攣しつつその方を向いたが、虹彩が異常に狭まり赤らんだ瞳と、吊り上げた口角の端から細かな泡が溢れる様は、疑うべくもなく正気を失ったものの表情だった。顔面は薄く青ざめているのに、高揚から耳が焼けんばかりに火照っている。鉄塔への距離が中谷よりも近く、強力な静電気に身を晒しすぎたか、その動きは以前にも増して異常なほどの震えを伴っていた。

「有賀、僕のことが分かるか」

 中谷は有賀の最後の理性を取り戻し、この超常現象の説明を求めるつもりでいたが、有賀が次のように述べた内容を聞いて、人間が経験できる内で最たる絶望を味わうこととなった。明らかな理性を掲げ、しかし確実に狂った声色で、彼はかく語ったのだった。

「人類が初めてこの門を開いたのは、俺の知る限りでは1928年、マサチューセッツ州での邂逅だ。このときには驚くべきことに、偉大な神と人間の間に産まれた兄弟の記録が残っている。これ以降では1935年、ロードアイランド州で、異次元の存在に呼びかけたと思われる一連の事件が起こった。直接的ではないが、これらよりも早い1925年には、人類のものでない街の残骸が太平洋で見つかっていて、そこにははっきりと、具体的で未知の神性へ対する信仰の痕跡が残っていたという。

「そして最近では、ハワイ州の医師が告白した、ある牧師の一連の復活祭だ。生き証人の述べたところでは、その牧師は死の果てに存在する大いなる神と実際に接触したのだそうだ。科学と魔法、人体と宇宙がやはり直接的な繋がりをもっていることは、数々の記録によって既に証明された。

「見てみろ! あるものは儀式を、あるものは犠牲を、あるものは生涯を用いて成したことは、俺がたった一つ偶然を見つけだし、呼びかけるだけでよかったわけだ。間違いなく俺は今、神だとか超文明だとかエイリアンなどと名付けられた、生死と時間に縛られず、むしろそれらを包み込んで存在する唯一のものと語り合っている! 次元の背景そのものだ!」

 もはや現実とは思われなかった。中谷はまばゆい光の暴力から視力を守るために腕で陰を作らなければならなかったし、徐々に間隔を狭めていた雷の連撃は、今では地鳴りのような凄まじい圧力を伴って注がれる、歪な螺旋形の光線と化していた。熱せられた鉄骨がジリジリと喘ぎ、焦げた悪臭が強まった。

「有賀!」

 中谷はなおも呼びかけた。かつて有賀裕哉だった男の表情は逆光でほとんど見えなかったが、笑い声を漏らしているのだけが分かった。

「なぁ、もうやめにしないか、有賀。お前が本当のことを言っていたのは間違いない。それを証明しただけで充分じゃないか?」

「黙っていろ! あのものが今こちらへ出てこようとしているのが見えないか。お前は俺が戯言を言っていると思いこんでいるんだろう。真実を前にして、今まで信じていた世界が崩れるのが怖いんじゃないか。塞がれた感覚器官の廃墟に閉じこもって、有限の安寧あんねいを貪る凡人と同じだ。精神に課せられた使命を忘れ去り、ただ無為に心臓を動かすだけの、終わった人類だ。

「俺は違う。断じて違うぞ、中谷。俺は追求の使命を見つめ続けた。生命がこの世に仕組まれた理由を探し求めて、そして誰も、地球のどの生命もたどり着かなかった答えを手にした。これこそがその成果だ! 俺が知性の勝者だ!」

 長時間に渡って電気の波に身を晒した結果、確かにその男の神経系は変調をきたしていた。脳の秘められた領域が無理矢理にこじ開けられ、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚のどれでもない感覚でもって宇宙を捉え始めていた。未だ名付けられない別次元感覚に脳髄がとっぷりと浸かりきり、泳いでいるような、呑み込んで包んでいるような、回り落ちて薄らぐような、恍惚とした陶酔のうちに、そのものの影を認識していた。

 一方、中谷に打つ手はなかった。くっきりと浮かび上がった鉄塔と鳥居を繋ぐ道は、そこを通る存在がいることを暗示していたし、激しさのとどまることを知らない雷電は、果てしない宇宙の深淵から迫り来るものを、確実にこの地へ導くこれ以上ない信号であると思われた。

「まだ……道が疎らだ」

 突然、男が呟いて、足早に歩き始めた。

 ぶつぶつと不可解な言語を発しながら腕を水平に伸ばし、広げた手のひらを煙状のスペクトルへ向けて、ゆっくりと左右に振り始めた。その軌跡はちょうど前方の道をなぞり、鳥居の近くの油ぎった艶のある地面から、絶えず雷の襲撃を受ける鉄塔の頂までを、土木職人が丹念に建材を補強するように、重々しく往復した。中谷はその挙動が有賀が喫茶店でしきりに見せた手癖と妙に重なって見え、彼が異常に前もっておぞましい補助の練習を欠かさなかったことを知った。

 これまでと異なる風が吹き始めた。はっきりと鳥居から鉄塔を走り抜けて空へと吹き上がる強風が感じられ、中谷は身を強ばらせる。見れば、男が呪文を唱えながら手を往復させる度に、毒々しい埃や不快な艶がその度合いを強めてゆき、先ほどとは比較にならないほど狂気じみた様相を表してゆくのが見て取れた。

 鉄塔へと注がれる螺旋状の電撃は依然として轟音を響かせて、まさに鉄塔の延長を成す、連続した雷光の柱と化し、黒々と焦げた鉄骨の中腹から、オーロラのように輪郭を描く極彩色の帯が坂となって滑り落ちている。その先には、大理石めいた照り返しと不快な光沢が不思議に共演する禍々しい地面が続き、暗い影を伴う真紅の鳥居が、それらの終着点としてそびえ立っている。覚めない悪夢のようなこの光景の前に、中谷の心はただ慄然として震え、次に訪れる変化を見るのを恐れるよりほか、まったくもって為す術がなかったのである。

 唐突に辺りが真っ白な光に覆われた。一際強烈な落雷が放たれ、「道」をなぞりながら目の前を走り抜けたのである。

「いいぞ。もう少しだ」

 喜びの声を漏らしながら、なおも呪いの言葉が続き、間を置かずに再び雷が疾駆する。男の手は辻風のような雷電が走る度にびくりと跳ね、その体は一瞬だけ後ずさるが、すぐに「道」の間近までにじりよって、その仕事を完成させようとしている。辺りには衝撃と焦げた悪臭が伝わって、ついに中谷は目を背けた。

 電流、轟音、光、衝撃、暴風、悪臭、そして恐怖が渦を巻いて中谷を取り囲み、ただただ終わりを――それがこの悪夢のものか、世界のものかは知れないにしても――望むだけだった。

 そしてある考えが浮かんだ。速やかにこの邪悪な儀式を停止させる可能性を持つ、ただ一つの手段が。

 中谷は再び、親友と呼んだ男の方を見た。矢継ぎ早に駆け抜ける稲妻を前に、つかず離れずの距離で呪文と動作を繰り返している。圧倒的な電気の砲弾が目前を過ぎる度、その体は強ばって痙攣気味に退き、また半歩前へ出る。発狂を極めた男が、それでも電気を避けていた。

 中谷は眩む目を擦ってから、決然とした顔つきで歩き出した。まっすぐにその男の背中を目指して。

 あたりの大気に撒き散らされる静電気が皮膚をくすぐり、筋肉がギシギシと軋む。非常識に強力な電気風呂に全身が浸かっているような感覚だ。体が思うように動かず、足を一歩踏み出すだけでも気力を消耗し、歯の根が合わずにカチカチと音を立てた。

 遂に中谷は、太い電気の光線が走る「道」のすぐ傍まで来た。「道」との間には、掠れ声で呪文を呟く男の背中があり、なんとしても邪な目的を完遂しようという執念が、鬼気迫る様子で滲み出ていた。

「……ああ、来るぞ! 信じたとおりだ、俺は正しかった! 俺の信じたものは正しかった! 正しいものを信じていたんだ!」

 歓喜の声が上がった。だが次には何が起こるか、中谷だけが知っていた。

「おい、中谷、見ているか……」

 もはや有賀ではない狂人が振り返る前に、中谷の両腕は、今までやったこともないほど力強くその背中を突き飛ばしていた。親友と呼び合った学友、物悲しさと純朴さを宿したその瞳をもう一度見てしまったら、躊躇がその機会を永遠に逃してしまうと思われたからだ。

 予想外の一撃につんのめって踏み出した男の体が、拍動するようにビクリと跳ねた。道により固まって走っていた静電気が一挙にその肉体へ矢のように突き刺さり、電流罠に触れた鼠じみた動きで手足の筋肉が急激に伸縮した。自身が練り上げた凶悪な電気に全神経と筋肉を炙られて、ギクリギクリと無惨な舞いを踊りながら、男は弾みで崩れ落ちた。すると今度は、地面についた手から酸じみた溶解音がして細い煙が立ち、程なくして生臭い臭気が漂い始めた。

「オオ、オ、アア、アッヅ、アツイ、アア……」

 収縮した喉から辛うじて漏れる苦悶の声は中谷の耳には届かなかった。鉄塔の頂点から伸びる光線が一際強烈に輝きを増し、焦げ臭さと、肉の溶ける腐敗臭が混ざり合って、言い得ない終末の気配を漂わせ始めたからだ。

「ナカ……ナカ、タ、ニイィ……イ」

 重油のような色彩が乱舞する「道」を、これまでで最も激しい雷電が貫いた。視界が数秒に渡って完全にホワイトアウトし、人間のものとは思えない断末魔が、もはや理性の制御を受け付けない喉の筋肉から絞り出されて方々へ響き渡る。鉄塔の骨組みが軋む巨大な音がそれにかぶさり、恐怖そのものの権化とも思える激烈な雷の残響が、山々を撫でて空の彼方へ飛び去る。鳥居の下を潜った稲妻はそこで不可解な発火現象を起こし、紫と白を併せ持つ炎が一瞬のうちに爆ぜた。

 そして、最後の雷鳴を追う長い長い反響の後には――雪の降る朝のような、広漠たる無音とでも呼ぶべき静けさがさぁっと世界に被せられて、遂に風景そのものが沈黙した。

 中谷は固く閉ざしていた瞼を開いた。失明は免れたものの、太陽を直視したときと同じ暴力的な光の残滓が視界を覆い、しばらくは目の前の光景を見ることができずにいた。霞みと明滅が徐々に薄らぐ中、中谷は雷の音が止み、周囲へと放たれていた静電気の緊張感も消え去ったことに気づいた。焼け付いた鉄の臭いと共に、いやに甘ったるい鼈甲飴のような臭いが鼻を突き、嵐が止んだ静寂に悪臭が漂う。

 中谷は「道」が通っていた場所の地面にこびり付く肉塊を認めた。衣服だった布の繊維がおぞましくへばり付く大きな塊を中心に、歪にねじ曲がった肉の枝が四つ、四方へ向けて狂おしく伸びている。首と思しき場所にはねじ切れた跡があり、電流による筋肉の悶絶が、関節の限界を越えたことを示唆していた。飛沫と呼ぶにはあまりに大量の血しぶきが楕円を描くように地面へ撒き散らされていて、ところどころへ弾け飛んだ臓器の残骸がそれに塗りつぶされている。

 しかし中谷が感じ取った甘ったるい臭いは、男の死骸から発せられているものではなかった。加熱と発酵を忍ばせるような、不快に甘い匂いが鼻腔の奥深くへ滑り込むたび、中谷は言い得ない嘔吐感に襲われた。

 そのとき、完全に静止したと思われた風景のどこかで、何かが動く音がした。代え難い安堵をかき消された中谷の心臓が、冷ややかに脈動を早める。

 高い音――声だったかもしれない――が聞こえる。最初はか細く小さく、まるで洞窟の奥底から辛うじて漏れ聞こえる風鳴りのような慎ましさだったが、徐々に音量が上がり、震える金属の空洞を思わせる甲高い単調な響きになっていった。猛烈な雷鳴とは違い、その音は鼓膜を透き通って直接神経を弾くような、神秘的な酩酊を誘う音波だった。

 中谷は甘い悪臭と音の出所を探して、鳥居の方を見た。それは最初こそ見分けがつかなかったが、すぐに見つかった。と同時に、中谷は手で視界を覆った。

 それは見るべきでないものだった。

 それは大きくて、腹這いになっているものだった。うずくまるようにしていたが、それでも鳥居と同じくらいに高さがあり、境内を囲む林のせいで、全体像は杳として知れない。中谷が一瞬だけ見たところでは、とにかくそれは長く硬そうな黒い毛にびっしりと覆われ、その隙間から、獣よりかは節足動物か頭足類に近い生え方で、しかし筋肉の内部に骨が通っている脚が5、6本覗いていた。

 怪異と呼ぶほかなかった。広い学識に覚えのある中谷でさえ、この世のものとは――地球由来のものとは――思えなかった。ましてや、それの表面で滝のように垂れ下がる黒い毛が微妙に湿り気を含んでいて、いやに人毛を想起させることが不気味でならなく、鼻を突く臭いと陶酔を催す音波が止まらないがゆえ、あえてそのものを詳しく観察して正体を暴くなど思いもしなかった。

 ふいに、先ほどまでその場にいた男の言葉が中谷の脳裏に浮かんだ。痴れた不可解な狂喜のうちに、彼が口にした恐ろしい言葉。

 神。そう呼んでいた。

 神と呼ばれていたそれがゆっくりと自身へ向けて振り返ろうとするのを見てすぐ、中谷の体は弾かれたように、鳥居に背を向けて走り出した。勘づかれないように、刺激せぬように、そのような考えが浮かぶ余裕もなく、混乱を極める脳内に有賀の断末魔の残響を感じながら、中谷は死に物狂いで走った。

「ナカ、タ、ニイィ……イ」

 絞り出すような声――それはもはや、声めいた韻律をもつ音に過ぎなかった――が頭の中でいつまでも反響し、背後では、不愉快なほど雷鳴に似た、しかし甲高い鳴き声がして、轟きが周囲の大気を揺らす。辛うじて握り締めていた精神の安定が失われ、中谷は走りながらも気を失った。

 そして病院の一室で目が覚めたとき、窓の外では穏やかな風が樹木を揺らしているのみだった。


 この事件で中谷の魂に刻まれた傷跡はあまりにも深く、学識のゆえに身につけた尋常でない精神力の助けがなければ、残酷な自由を纏う想像力が捉えたある考えによって、彼の僅かな正気は脳髄と溶け合い二度と再生不能となっていたに違いない。彼が全身全霊でもって意識の外へ排していたその考えは、体内の腫瘍が日増しに成長してゆくがごとく、観相において無視できない過去のフラッシュバックを伴って、膨張する影を中谷の理性へと落とし続けた。

 本能的嫌悪によって直視することのできない一つの物体と、それについての狂気じみた考えは、有賀という男に抱いていた羨望と愛着、まばゆい友情の記憶との連鎖でもって、中谷の心を拷問器具がごとく締め上げ、打ちすえ、死よりも耐え難い運命を叩きつけるものだった。

 腐り果てて年月を閲する男の遺物、自らが呼び出した稲妻によって砕かれた人間の破片が、国の昔ながらの作法に則って、中谷の書斎に保管されている。邪神の魔力に毒された故人が、せめて鮮やかな郷愁を偲ぶ友人の元で眠れるようにという、遺族の願いによる状況だった。しかしながら――これがいっそ精神疾患の症状であれば、中谷にとって慈悲深い救いとなっただろうに――友人だったものはその壮絶な最後に相応しい振る舞いで異音やポルターガイストを起こした。生きている人間がこれまで味わったのと同じような畏怖と悲哀を中谷も抱いたが、霊障の調査の内に浮かんだ仮説は、どれだけ古ぶるしい伝承と記録にも見いだされず、彼の胸中におぞましい仮説を築く不穏な囁きとなった。

 中谷は幾度となく狂信者の欠片へと語りかけた。善良な墓守が墓石へ思いを伝えるように。奇妙なことに、物音がしたり、欠片が収まっている小さな箱が揺れ動いたように思えるのは、大抵そういったときだと、中谷は感づいた。と同時に、忘れるべき記憶が悪寒と共に蘇って彼の脳裏に木霊するのだった。

「ディルゲルニードによれば、こうして喚びだした存在は、召還を行った者に恩寵を与えてくれる。それは、意志と思考を、その方向性を寸分違わぬままに、次元の座標へと固定することなのだという。

「解釈に苦しむ部分だが、有り体に言えば精神を不老不死にするということだと思う。若い精神を若いまま、崇高な精神を崇高なまま、どのようにしてかこの世に留める力があるらしい。

「これまでの論調から察するに、これは文芸のことだろうな。小説なり詩歌なり、作者の考えを写す文章が後生に残れば、ある意味その文章に投影されている時点での作者の精神は不滅だ、ということを伝えているのだろう」

 既に中谷が体験した通り、悪しき禁書の内容はどれをとっても比喩表現などではなかった。であれば、召還者を不老不死にするというその言葉だけが、冒涜的な禁術の核心から遠ざけられた暗喩であったと、どうして言えるだろうか。

 即ち、超自然の暴威によって阿鼻叫喚の内に命を落としたとされている狂信者は、その実、すべてを奪われて永久の眠りについてなどいないのだ。雷によって灰燼かいじんに帰したその瞬間、彼は恩寵を与えられてこの次元へと固定されたのである。

 中谷はこうした恐ろしく、そして尋常ならざる物思いに耽るがあまり、近頃では生気のない有様に成り果てて、例え側にそれがなくても、かつての友の亡骸へと思い出を語るような口調で一人ごちるようになった。電流の威力が未だに後を引いているのか、正常な生活リズムはとうに失われ、ほとんど眠らなくなった代わりに常に虚ろな目をして考え事をし、一般的な意味での生きている知人からの声かけにも気の入らない応答をするばかりだった。

 彼の自室には、今ももちろんそれがある。生前と何ら変わらない知恵、鋭敏な感覚をもって、中谷という親友へ自らの存在を伝えようとする、肉の欠片。それ――有賀裕哉は、10センチ四方の箱の中で今も、生き続けている。決して尽きない、未来永劫を。

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呼ばれた者 風見鳥 @kazami_dori_171349

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