12章

 Mという町を説明するには、その隣のR市の特徴から話し始めるのが良いだろう。

 都内から鉄道を乗り継いでR市へとやって来た来訪者は、そこでささやかな地方都市に降り立つこととなる。R駅は私鉄の二路線が交差するターミナル駅であり、半径数キロの範囲に貨物列車の倉庫と高速道路の出入り口を有する上等な鉄道駅だ。にも関わらず駅前のロータリーからは四方を取り囲む安山岩地質の山々が見え、一部はそのまま隣県へと跨がるカルスト地形の一端を担ってさえいる。概ね落ち窪んだ盆地とされるR市は、古くは山沿いの湯治場へ赴く人々で賑わう交通の要所として、そして今は国内有数の大規模な自動車製造工場を抱えるモビリティ産業の都として、首都から離れた郊外に凛と咲いている。

 Rは町としては立派な駅を持つが、インフラの主役はやはり自動車だ。人々の集う飲食店や服飾店、車のメンテナンス用品店は国道をなぞるように立ち並び、工場で働く外国人が連れ立って歩いているのが頻繁に目に入る。大企業のお膝元としての顔以外に、関東でも有名なカレー激戦区として知られているのは、彼ら外国人の文化がRの町並みに行儀良く溶け込んでいることの表れといえるだろう。

 R市を上空から眺めたとしたら、市街地から突き出して山地へ深々と刺さった杭のような一帯が見える。そこがMと呼ばれる町で、Rの隣であるにも関わらず、うずくまるような駅のホームには屋根もない。物静かな農家、覇気のないバングラデシュ人、枯淡でさえあるカラオケスナック、こざっぱりとした小中一貫校、錆色の信号機と禿げた看板――看板には「14キロ先を右折」という案内とモールのロゴ――それらが呆けたように立ちすくんでいる様は、R市を見回った後の目にはうら寂しく見え、ましてや都会から訪れた者の目には信じ難いほど虚しく映った。

 中谷はこの辺境のMに、有賀の行方を求めてやって来た。禍々しい別離から三ヶ月という期間を経て、悪寒に疼く麻痺は鳴りを潜めていた。広い駐車場を有するコンビニで中谷は一服する。

「俺は一足先に、ずっとしようと思っていたことができる場所を探すよ」

 そう言い残し、有賀は音信を断った。生活と友人関係の一切を捨て。

 山地からの吹き下ろしが、道端に枯れ葉と潰れた空き缶を掃き溜めているのを眺めながら、中谷はここからのことを思案した。有賀の居所を突き止めたとて、研究対象から手を引くよう説得することは容易ではない。学生の頃に示したように、彼の探求心、分析と観測の欲求は、あらゆる理知を底なし沼のように飲み込む。

 あの手稿に記されていることの実践が、有賀の目的であることは確かだ。古ぶるしい歴史的実験の記述から当時の文明の叡智を垣間見ることは珍しいことではないが、曖昧な魔術じみた現象を体験した中谷にとっては、冷たい水を被ったかのように全身の神経に染み渡る凶兆の気配を意識の外に放逐することは叶わず、つまり無二の友人が世界の銃眼の向こう側へ至る道筋を求めて、こうまで寡黙な辺境の町をわざわざ滞在地に選んだからには、なにか決定的に邪な、言い得ない異常なことが行われるものと思えて仕方がなかった。妄想じみた憶測であったとしても、有賀の目的を阻まなければならない。中谷自身の気力を大いに奪ったあの毒性の電流が、文化人類学の秀才たる有賀の身体を駆け巡っているのだろうという心配も、Mに降り立った青年の歩を進ませる理由となった。

 一服を終えた中谷は缶コーヒーをすすりながら旅路を歩き出した。良くも悪くも仕事熱心な不動産屋の言うところに拠れば、指し示す番地はMの町と山林の境目にほど近い。線路と駅から離れるにつれ、古錆びた町並みに木造建築が目立ち始め、この辺りで明確に土地を持っているであろう広い家が多くなってくる。ぶっきらぼうな空は不安感に濁っており、いつまでも慣れない冷風が服の繊維すら縫って身体中を舐める。

 "DYRUGELNEHD"の不気味な挿し絵について、中谷は考える。実験器具めいた壜と、抽象的背景のイメージ。有賀の失踪は、禁断の書物の中でもその絵に関係しているという確信が中谷にはあった。あろうことか悪夢さえ呼び寄せるその強烈な挿し絵がなにを表しているのかを、有賀は知ったのかもしれない。

 自然と、学友を取り戻すためになにをすべきなのかが明確に意識される。中谷はあの本を有賀の目の届かないところへ廃棄する決心を固めつつあった。可能であればただ捨てるのではなく、水に浸けるか燃やすかして復元不能にするべきだ。有賀がジェイムズ・D手稿と"DYRUGELNEHD"にかけた労苦はもちろん分かっているが、思想と倫理において強靱な軸を築いていた有賀を豹変させたその影響力は恐怖そのものと呼べ、如何に重大な稀覯本といえど、二度と読まれるべきでないものに思えた。中谷が今以上に内容を知ることはないだろう。知らずにいたい、というこれまでにない強い欲求を覚えてすらいた。

 するうちに、Mの外れの地域まで中谷は来ていた。ガソリンスタンドがあり、惨い廃れ方のコインランドリーと精米所もある。交差点に面して喫茶店があり、点灯するキーコーヒーの看板に、なにかの言い訳のように「OPEN」のプレートが吊られていた。その茶色い煉瓦模様の壁に広い馬蹄型の窓があり、中からその窓越しに、車道の反対側にある鉄筋のアパート「蓮華ハイム」が見えるだろう。

 目指す住所は、「蓮華ハイム 204号室」だ。

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