第9話「境界線の中で」
保健室の扉が、カチャリと内側から閉まり、鍵がかかる音がした。
「レンくん。お願い、逃げようとしないで。
ここはね、蓮くんのための場所なんだよ?」
結月は、もう“友達”や“幼馴染”と呼べる存在ではなかった。
けれど、どこか――心の底の、微かな部分で――蓮は、まだ彼女の中に“本当の結月”が残っていると信じていた。
「俺は……記憶が戻ってきてる。少しずつだけど。
お前が……いや、結月が隠そうとしてたことも、思い出し始めてる」
「……やっぱり、そうなんだね」
彼女の笑顔が、かすかにひきつる。
「じゃあ、もっと強く、閉じ込めないと。ね?」
その手には、あの“心の鍵”のペンダント。
蓮は本能的に後ずさった。
「なあ、どうしてこんなことするんだ? 俺たち、もっと……普通に話せただろ?」
「“普通”が……私たちを壊したんだよ。
あのとき、橘さんが転校してこなければ……
蓮くんが、他の子を見なければ……
私、こんな風にならなかったかもしれない」
「……やっぱり、あいつの名前……“橘美咲”……!」
蓮の中で、封じられていた記憶がぶわりと広がった。
新学期、隣の席にやってきた転校生。
優しくて、まっすぐで、嘘が下手な少女。
彼女は確かに、蓮に――いや、“クラスの空気そのもの”に溶け込んでいたはずだった。
なのに。
「橘さんのこと、もう誰も覚えてない。
だって私が、全部書き換えたから」
「書き換えた……? なにを……」
「教室の空気。SNSの投稿。先生の記録。
蓮くんの記憶だって……ほんとはもっと簡単に“塗りつぶせる”と思ったのに……」
そこで、結月は少し悲しげに笑った。
「でも蓮くんは、強かった。私が“全部”にしたのに……それでも橘さんのこと、思い出しちゃうなんて」
蓮は、心臓がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。
(結月は……壊れてる。でも、それは“俺を想った結果”なんだ)
「結月……」
「ねえ。最後に、チャンスをあげる」
結月が一歩、また一歩と近づく。
その手には、黒いリボンが巻かれた小さな注射器。
ラベルには見慣れない文字――“記憶安定剤”。
「これを使えば、蓮くんはもう苦しまなくてすむ。
全部忘れて、私だけを信じてくれる」
「……それって、“俺”じゃなくなるってことだろ」
「違うよ。ちゃんと生きてる。ちゃんと笑ってる。
私の隣で、ずっと、ね?」
結月の声が震えていた。
彼女もまた、追い詰められていた。
それがわかるからこそ――蓮は、決断しなければならなかった。
(俺は……どうする?)
保健室の窓の外に、沈みかけた夕陽が差し込んでいた。
その光は、結月の影を伸ばし、蓮に覆いかぶさる。
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