第13話 モテ期
―――『企画・開発部門』
午前のブレインストーミングの時間。
ホワイトボードの前で、数人が意見を出し合いながら書き込み、
ペンのキャップを外す音、アイデアが浮かぶたびに走るマーカーの線。
『これ、どう思います?』と誰かが問いかけると、
一瞬の沈黙の後、議論が始まる。
いつも通りの、ちょっと違うことがあるだけの平穏な毎日が、
俺の周囲で妙な変化が起こり始めた。
「小日向君、最近ちょっと雰囲気違いません?」
「え?」
「なんか、社内の女性陣、ちょっと優しくないですか?」
同僚の何気ない指摘。
確かに、最近になって社内の女性社員が妙に話しかけてくることが、
じわじわ増えてきた気がする。
スクリーンに企画書の草案を見て、
コーヒーを飲みながら溜息をつきたくなる。
―――例えば。
「この前のプレゼン、すごく分かりやすかったですよ!」
と褒められたり。
LINEを交換して、グーグルマップの地図を添付し、
最寄り駅を案内した上で、店の情報をURLで紹介してきたり。
「お昼、一緒に食べませんか?」
とランチの誘いが増えたり。
芸能人得意技の、匂わせ。
「最近、忙しくないですか? よかったら手伝いますよ」
と気遣われたり。
エロゲーの主人公よろしく、
心の中は亡霊だらけのウィンチェスターミステリーハウス。
もしかして、モテ期?
社内での空気感が明らかに変わり始めている。
しかし、そんな状況の中で―――。
プロジェクトの進行管理のため、表計算ソフトの画面を睨むみたいに、
鹿子田先輩だけが、微妙な表情をしていた。
昼休み、俺は鹿子田先輩が向かったという情報を聞きつけて、
いそいそとあのインスタグラム脳カフェへ向かった。
満員でも、鹿子田先輩はこっちって誘ってくれるようになった。
社員食堂でも、仮に違う店で出くわしてもそうしてくれる。
俺の中の鹿子田先輩というのはまぎれもなくそういう間柄だった。
でも最近は女子社員からの誘いがやたらめっぽう増えた。
そのせいで、今日みたいに鹿子田先輩と話す時間は減った。
しかし今日の鹿子田先輩は、妙に静かだった。
相変わらず満員だけど、もう嫌そうな顔をしていないのに・・・。
「……」
普段通りランチを取っているはずなのに、どこか落ち着かない様子。
「鹿子田先輩、今日元気ないですね?」
「……別に……」
「いやいや、明らかにテンション低いですよ」
「……」
鹿子田先輩は、スプーンをゆっくりと動かしながら考えるようにしている。
最近はことあるごとに、噛み合わないような場面が増えてきた。
その時――。
「あ、小日向君、今日の帰り時間ってどんな感じですか?」
たまたまカフェまで来ていた女性社員が、さりげなく話しかけてきた。
「え、普通に帰る予定ですけど」
「じゃあ、よかったら駅まで一緒に・・・・・・」
「……」
その瞬間、鹿子田先輩の動きが止まった。
――静かな、妙な間。
「……うん・・・」
「鹿子田先輩?」
「……ご飯・・・食べるの……遅れる……」
「え?」
「……よく噛む……」
何かが妙に不自然だ。普段と違う空気が流れ始めている。
病院の待合室とか、バスの停留所で、
知らない人と向きあっているのと同じように、
へんに気づまりで、足の裏がむず痒いような心地―――。
嫉妬? いや、これは……擦れ違いなんじゃ・・。
疎ましい心。
その後も、俺の空前絶後のモテ期らしき状況は続いた。
でもプレイボーイみたいな気分になって、チヤホヤされて、
鼻の下を伸ばしているかというと、そういうわけじゃない。
むしろ逆だ、人疲れ、した。
心が曇る。
悪意を向けられたり、好奇の眼を向けられるのもたまらないが、
好意を向けられるというのも実はこんなに苦痛なものなのだ。
まるで、好意という名の鎖で行動制限されているみたいな気がする。
社内の人達との会話が増え、昼休みもランチの誘いが頻繁にかかる。
仕事をする環境としては悪くない。
しかし、そのたびに鹿子田先輩の反応が少しずつ変わっていくのが、
段々我慢できなくなってくる。
通夜のような重苦しい空気が胸の奥に段々溜ってゆく。
彼女の気持ちが離れてゆくのが分かるのだ。
鹿子田先輩と話したいのだが、
その時間を取ろうとすると次々に邪魔が入る。
雨漏りするような陰湿なものの見方をしそうになる。
電話番後とかメルアドとかLINEとかを聞こうか。
けれど、本当に鹿子田先輩のことを自分はどう想っているのか、
いまでもよく分からない。
八方美人のせいだ、愛想良く受け答えをして、
作り笑いして相手をいい気分にさせて、
何かとても大切なことを見落としている気がする。
後輩はモテ期とかいうが、これは罰ゲームじゃないのか・・?
『スパカモラブ姉さん』も近頃は全然SNSをアップしない。
何か、歯車が一気におかしくなった。
何だかそれは、いつぞや社員食堂で、
鹿子田先輩と篠崎が話している時のようなモヤッとした感じで、
鉛の箱に押し込められて海の底に沈んでいくような気がする。
もしかしたら、鹿子田先輩もあの時こんな感じを抱いていたのだろうか。
「あ、小日向君、仕事の相談いいですか?」
すぐ近くで鹿子田先輩が微妙に聞いている、
おとめ座からの、オリオンツアー。
「今度、みんなで飲みに行きません?」
鹿子田先輩は書類をめくる手の動きが妙に速くなる、
銀河鉄道物語、ケンジミヤザワ。
「最近、女性社員と話してるの多くないです?」
鹿子田先輩がカフェラテを飲む速度が異常に速くなる、
ゾーンディフェンスできなかった、
ニューワールドオーダー。
そして、ついに鹿子田先輩から核心を突く質問が飛んできた。
「……小日向君」
「はい?」
「……最近……人気……ある・・・?」
「え?」
「……社内で……よく話されてる……」
鹿子田先輩も、その状況を把握していたらしい。
鹿子田先輩は、この状況が面白くないと思っている。
だけど、鹿子田先輩はもう一歩踏み込むように・・・・・・。
「無理してる・・・ように・・・見える・・・から・・・気を付けて・・・」
「鹿子田先輩―――」
表面上ではモテ期かなんかが来て、チヤホヤしてくれているかも知れない。
でもそんな風に、一人でも見てくれただろうか?
AIや量子コンピューターによる超高速参勤交代だ。
恋人いない歴イコール年齢の俺は、
ハーレム状況よりどりみどりみたいなのを、
心の何処かでは嬉しく思っていたのかも知れない。
でも、そんなの自分ではない。
鹿子田先輩は、そういう風に見えたのだろう。
そう気付くと、女子社員にまったく話し掛けられなくてもいいから、
鹿子田先輩を追い掛けている時みたいなのがいいな、と思う。
「でも中々―――いまの状況が・・・」
「私に・・・任せてもらえたら・・・大丈夫・・・」
昼休みになると、社員食堂は徐々に活気を帯びていく。
入口のドアが何度も開閉し、足音が混ざり合いながら響く。
トレーを持った社員たちが、カウンターで食事を受け取り、
一列に並んで、それぞれの席を探している。
食堂は十一時五十分頃だと、まだ人は少なく、席の選択肢は多い。
店員がテーブルを拭いていたりする。
十二時十五分頃になると、真っ盛りのピーク時で、
トレーを持った人たちが席探しに忙しく、騒がしさが増す。
十二時五十分になると、少し落ち着き、皿を片付ける音や、
静かに食事をする人の割合が増える。
晴れの日は窓際の席は光に満ちていて、昼休みの穏やかさを感じさせ、
雨の日は靴が床を滑る音や湿った空気がわずかに混ざる。
そして普段なら静かに食べる人ばかりのテーブルで、
今日は笑い声が響いているのを目撃する、昼休みの社員食堂。
俺がランチを取るために席を探し、
その十歩ぐらい後ろを鹿子田先輩が何気なく歩く。
作戦方法は具体的に聞いていないが、
とりあえずトレーに昼ご飯を食べてウロウロ歩いてくれたらいい、
と言われた。
女には女で、絶対にいまみたいなことが出来ない、
最良の方法があるらしい。
交渉するのかな?
たとえば、薬指の指輪を見せるとか、プレゼントをもらった、とか。
でもそんなのって、むしろ逆効果なんじゃないかな?
などと思っていたら、案の定、女子社員数人が声をかけてきた。
オーストラリアの沖では魚たちが、
お互いにコミュニケーションを取るために、
身体を使って音を出しているという話を思い出す。
こうやっていると、生贄とか餌みたいだなと思う。
蟻の尻からフェロモンが出ていてそれを追い掛けるような構図。
「先輩、一緒に食べません?」
「いや、今日は……」
その時―――鹿子田先輩は、十歩を一気に詰めて、
俺の傍まで近寄ると、首にするりと腕を回して、
胸部をまさぐられ、
地球の六分の一の重力の月に憧れたみたいに・・、
頬にキスしてくるというパワープレイ(?)
ちょっと待って、え―――ええっ・・えええええええ・・(?)
狂ったように表現、笑うように表現、
リズム感を養いつつ、脳震盪を養う。
大きく、小さく、遠近感すら頼りなげの、
転調のフレイヴァ―。
「……小日向君・・・ううん・・・純君・・・、
こっちの席・・・ずっと空いてる・・・」
女子社員達があんぐりとしたが、じわじわ圧が強まる。
その昔は人がテントで眠っていると、
軍隊蟻にむしゃぶりつかれて白骨化するという神話があった。
そんなことを思い出すぐらいのシーンだ。
だが、何を隠そう、俺が一番ビビった。
どうも、鹿子田先輩はこれは自分のもの作戦を敢行したようだった。
マーキングは犬でもするところの、分かり易いジャイアネス(?)
食堂の奥からスープの匂いが漂ってくる。
だが、今日のスープはいつもよりスパイスが効いている。
「そして・・・一緒に……食べる……指定席で・・・」
ゆるやかに既成事実を作る言い方。
鹿子田先輩は堂々として、親指を立てた。
周囲が少しざわつく。
鹿子田先輩が何か言えという顔をしていて、
これがエレクトリック・ギターのフィードバック奏法だー、
うわー、みたいなー、上手く言えないんだけど、
何か言わないともっと変なことをされそうだったので、
「えっと……今日は先輩と食べます」
鹿子田先輩は、唇に人差し指を当ててきて、
写真機のシャッターが降りて気化した色素の透明で、
耳元に唇を寄せて、かぷっ。
って、耳舐めちゃ――うわああああっつ!
熱伝達、膨張の寸前の冷却、
鯉、花びら、川、夢。
「……そう・・・ずっと・・・他の女・・・ナッシングで・・・」
多分、鹿子田先輩はちょっと腹を立てていたのだろうと思う、
話し掛けている傍ら声かけてきたりしていたから。
一本の細い飛行機雲のようなフローチャート。
でもそれはスパカモラブ姉さんと同じで、
好意というものを一切誤魔化していない―――ものだ・・。
菅野が笑い声をあげながら女子社員数人に声をかけて、
俺の方にウィンクを飛ばしてくる。
鹿子田先輩はやっぱりゴキブリを見るような眼をしていた(?)
後輩の柚木はわざわざ俺の背中に回ってきて、肩を叩き、
要らないシーン、炒らないシーン、煎らないシーン、
「これから旦那と呼ばせてもらいまっす」と笑いながら言ってくる。
それでも、静かに席に座りながら、
なんでだろう、不思議とせいせいとした。
満足そうな表情を浮かべている鹿子田先輩がいるからだろうか。
モディリアーニ・タイムだ、蝋燭ほどに痩せ細る、
こうして、俺のモテ期は、
妙な形で調整されていくことになった。
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