第12話 コピー機と本...雨宿り...ゲームセンター...
―――昼休み。
企画・開発部のエリア、コピー機の横には、
使いかけのペンや一時的に置かれた書類が雑然と並んでいる。
紙がなくなったぞー、と誰かが叫ぶが、
補充するのはいつも決まった数人だ。
仕事中には、ウィーン、ガシャッ、シャー、と、規則的な動作音が響く。
小さな液晶画面には、現在の状態が表示され、
準備完了と緑のインジケーターが点灯している。
[カラー/白黒][倍率変更][部数指定]
などのボタンが並び、指の跡が薄く残っている。
数字キーが静かに並び、
頻繁に押される「10」「100」のボタンだけ、
微かに擦り減っている。
遠くのデスクでは誰かがコーヒーを飲みながら談笑し、
カップを置く音がかすかに響く。
休憩スペースの隅では、スマホをいじる社員が椅子に深く腰掛け、
片手でスナックを食べている。
窓際のソファ席では、数人が食事をしながらゆるやかに会話を交わし、
笑い声が飛び交う。
俺はそんなコピー機の横に、ぽつんと置かれた一冊の本を見つける。
手を伸ばして本を持ち上げた瞬間、指先が微かに紙の質感を感じ、
カバーの装丁が光を反射し、タイトルの文字がくっきり浮かび上がる。
タイトルは――『ファンタジー世界の建築と歴史』
「……誰のだろ、中々可愛い趣味をしているな」
電動で硬いビンのフタを開けてくれるツールみたいに、
こういう人は、なろう系の小説を書くのかも知れない。
読み専かも知れないが、会社のコピー機にまで持ってくるとなると、
黄身だけのプリンみたいに、
何か着想が湧いて、コピーして、創作に活かすつもりなのかも知れない。
仕事中に何考えてるんだとも思うが、人生の無駄が生きる活力だ、
こういう人は異世界ファンタジーのアニメなども観るのだろうか・・・?
何気なく手に取って、
本を開こうとするが、背後の気配を感じ、手を止める。
「……見た?」と声の調子が硬くなる。
振り返ると、鹿子田先輩がスッと手元から本を回収した。
本を回収する瞬間、指先が少し緊張しているように見える。
その動きは、まるで一瞬の隙をついて何かを隠すかのような、
俊敏なものだった。おやつをもらったゴールデンレトリバーが、
わざわざ自分の隠れ家へと持ち込んでゆっくりと食べるようなものだ。
「え、まあ……」
この可愛い本―――鹿子田先輩のものだった。
子供の頃、公園の木の実を食べているのはリスかなと想像膨らませていたら、
夕方にコウモリが出てきて食べていたのを思い出す。
「……忘れて……」
予想以上に恥ずかしそうな反応だ。
どうやら、こういうジャンルの本を読んでいるのを知られるのは、
本人にとっては痛恨事なのかも知れない。
しかし授業中に鉛筆回しをするかの如く、
仕事中に読み耽っているのでなければ問題はない。
まあ、何故、コピー機にあったのかまでは不明だが、
鹿子田先輩は昼休みに読んでいて、ふっと別のことを考えて、
コピー機の横に置いてしまったのかも知れない。
鹿子田先輩の手元には、カフェラテがあるのでその可能性は高い。
人というのは扉をくぐるだけで、
考えていたことを忘れてしまうという話は知っていてもよいことだ。
「小日向君には・・・変な・・・ところばかり・・・見られる・・・」
「でも、俺はいいと思いますよ、
世の中には“ピアッシング・バイブル”という本があり、
あまりにも痛々しい本もあります」
「なにそれ・・・怖い・・・」
俺も心の底からそう思う(?)
「そういうのをプリンタ横で見つけたら、それは変ですけど、
まあ、一定数、ピアスに興味がある人がいるので、
その人にとっては実用書かも知れないので失礼な話ですが、
あと、俺も“家畜人ヤプー”とか、“ドグラ・マグラ”とか、
“重力の虹”とか“フィネガンズ・ウェイク”にも一度読みましたが、
大体、順番にレベルを上げていきます」
ごくり、と鹿子田先輩が生唾を呑んだ。
「小日向君・・・意外と・・・読書家・・・」
多分、どういう本かあんまり分かっていないのだろう。
ピアッシング・バイブルは実用書かも知れないが、
それ以外は、ただただ、頭のおかしな本である。
とはいえ、それらもいわば、カレー屋に入ると御飯にするけど、
インドカレー屋に入るとナンにする程度のものだ。
カレーに大量のレーズンとかバナナを入れるがごとき、
“城の中のイギリス人”とか、“裸のランチ”とか、
“我が闘争”とか、“完全自殺マニュアル”とか、
“円周率1000000桁表”という具合に、
(でも知ってるし、読んでいたりする、)
もはや、別の意味で、名前を挙げにくい本などもある。
ちなみに好きな小説家はと聞かれたら、
赤川次郎と、東野圭吾を無難に挙げておけばいいことを俺は知っている。
読書感想文と同じで、分かり易さはとても大切だ(?)
「そういうのと比べると、“ファンタジー世界の建築と歴史”というのは―――」
「というのは・・・」
繰り返してくる、
―――リピートアフタミイ。
「素敵な本だと思いますよ」
「・・・・・・そっか」
しかしその、結論を、課長補佐という肩書がある女性が、
読んでいていいのかという問題とは別のような気がする。
しかし、鹿子田先輩がそういうのを読んでいるというのは、
個人的にそんなに違和感がなかった。
その後、何気なく聞いてみた。
「鹿子田先輩、ファンタジーとか好きなんですね?」
「……いや……」
「いや?」
「……いや、その……好きっていうか……」
言いよどみながらも、本を指でなぞる。
どうやら完全に否定はしないが、あまり大っぴらに語るのも恥ずかしいらしい。
「……世界観が・・・面白い・・・」
確かに若者向けの本でもビジュアルを意識したような傾向が増えた。
あるいは、そういうものが自然と眼にいくような時代になったのかも知れない。
鹿子田先輩はそれだけ言って、再び静かになる。
「たとえば?」
きょとんとして、眼があって、はにかんで、
すぐ、ひたむきな表情、影・・・・・・。
「……城の構造……橋の設計……防御の仕組み……、
中身がスカスカで・・・割れた硝子の壜の中に・・・、
この世界を・・・何百個も詰め込んでいる・・・アメーバー状の光・・・」
―――田んぼの水を張った時はウユニ塩湖ですよね(?)
「もっと具体的にすると?」
「城壁の厚さとか……跳ね橋の仕組みとか……、
あと・・・地下の構造も・・・面白い……」
思ったよりしっかりした知識があるらしい。
「戦略的に作られた・・・城って・・・防御の動線が・・・計算されていて・・・」
と予想外に深い話が出てきた瞬間、
鹿子田先輩の口調がわずかに真剣になった。
いや、本気で語り出したぞ……?
やれ石造りの城壁は花崗岩や石灰岩などを用い、
外敵の侵入を防ぐために分厚く構築される、とか。
やれ乾式組積造(モルタルを使わずに石を組み合わせる方式)では、
石の角を精密に削り、完璧にかみ合わせることで耐久性を強化するとか、
やれ湿式組積造(モルタル使用)では、雨水がしみ込まないように、
傾斜を調整し、石と石の間に強固な結着を作る、
だとか―――ちょっと早口で、まるで講義でもするように(?)
俺は軽く振ったつもりだったのに、思った以上に専門的な説明が続き、
世界の音すら遠のいたような気がした。
というか、意外と専門的な視点で読んでいるのでは?
鹿子田先輩なら、そういう視点は十分に有り得る。
世の中には萌え声に対して受け身な理解をしているけれど、
世の中にはそれを研究し、数値化し、データ化した末に、
“萌える声の人はどんな声をしても萌える”という結論に達した記事を読んだ。
一見馬鹿馬鹿しいけど、その馬鹿馬鹿しさでとどまらない人が一定数いる、
それがやっぱり人類が七十億もいるところの深さであり、幅なのだ。
「詳しいですね」
「……いや、まあ……」
眼を逸らす先輩。
どうやら、この話題を深く掘り下げるのは恥ずかしいらしい、
いま、滅茶苦茶熱心に喋っておられましたが、
それは食後のデザートを別腹というように、
別の口という類のものなのかも知れぬ(?)
窓の外を見れば、昼の太陽が少し傾き、午後の業務の時間が迫っている。
社員たちが次々と席に戻り、パソコンの電源をつけ始める。
だが、その日は昼休みの間ずっと、何かを隠すような仕草、
そして、ちょっと照れて羞恥んだような顔、
あんまり見なくて可愛らしかったな、と思う。
午後は鹿子田先輩が本を抱えて過ごしている姿が妙に印象に残り、
帰りに本屋でも行こうかな、と思った。
いや、だってあんなに自分の好きなものを語っている、
鹿子田先輩にあてられたら、読んでいる本を探して読んでみたくなる。
しかし、そう思っていると当の本人には、言えないわけだけど。
会社帰り、突然の豪雨。
天気予報では曇りと言っていたのに、実際はかなりの勢いで降っている。
傘を差す人の間を縫うように走る人々の足音が、かすかに響いている。
傘を持っていなかった俺は、駅前から大分離れた軒下スペースに避難し、
雨の様子を眺めながら途方に暮れていた。
ショート寸前の、
ネバーランドの終着点は―――近く・・。
軒下から見える街は、濡れた路面がヘッドライトに反射し、ちらちらと光る。
子供の頃、眠たいのを我慢しながら映画を観ていたことを思い出す。
パラパラという軽い音から、バチバチという強い叩きつけに変わる。
「……止みそうにないな……」
空は鉛色の雲に覆われ、街灯の光がぼんやりと霞む。
くそっ、と呟きながら、肩口の湿り気を手で払う。
そう思いながらスマホをいじっていると、横にすっと人影が入り込んでくる。
波打つ水面のように繊細で、動きの余韻を残す。
花が揺れる、水切りに向かない、棄てられた石の重さみたいに。
靴が浮かぶように一歩を踏み出した片足を軽く上げた姿勢が、
不意に踊りの一瞬を切り取ったかのようで、
雨音に合わせて踊るワルツのような優雅なリズムが生まれる。
縹渺、無辺際、群青色、
濡れた太腿のある色っぽい後ろ姿を記憶して、
その身体の量感の中に、
自分を引き込んでやまない迷路。
風が心地よく頬を打ち、髪をなぶり、
方向を指し示す矢印を一瞬見失う、光の氾濫。
透明な膜を伝い落ちる水滴は、時間の流れを可視化するようで、
彼女を包む一瞬の美しさが、見えない糸で織り上げられている。
背景には何もなく、白い余白が広がる。
言葉が剥がれていったこと、昂ぶりが消えていったこと、
まるで、この雨と彼女だけが存在する世界。
そして、足元に舞い落ちる水滴。
一歩踏み出せば、新しい水紋が生まれ、
その波の上を、彼女は軽やかに歩く。
美人だな、と思う。
可愛いな、と思う。
退社時刻は違うのに―――鹿子田先輩だ。
何でこんなに会うんだろうと思う。
でもそのせいか、先程までのあたりようのない怒りみたいなものが、
―――すうっと消えた。
「……濡れたくない……」
無表情ながら、言葉の端々からしっかりとした不満のオーラが漂っている。
どうやら鹿子田先輩も傘を持っていなかったらしい。
二十四時間無人営業の沖縄そば屋みたいに、
鹿子田先輩の手元にはスパカモグッズがあったが、それは華麗にスルー。
あとで、スパカモ姉さんを見ればいいと何となく考えている自分がいる。
カラオケで英語の歌を歌ったみたいな、
パーリーピーポー(?)
「・・・小日向君・・・・・・」
いま、気付いたらしい。
鹿子田先輩の髪の先が湿っていて、わずかに額に貼りついている。
水滴のじんわり冷たい感触は見ているだけで分かる。
濡れた服は少し透けていて寒そうだ。
だが、ジロジロと見ていると、鹿子田先輩がもじもじ―――し始めた。
綺麗なお姉さんは好きですか?
からの―――Hなお姉さんは好きですかへの急速な移行・・。
それは降るというよりも、静かに漂い、空間全体に広がる霧のようだ。
蜘蛛の糸、ともいえるかも知れない。
深い凝結した記憶が拡がって、放射状になって―――いる。
「濡れた服から・・・下着を見られて・・・しまうかも知れない・・・、
そして・・・何で・・・水着やガータベルトではないのか・・・と言われてしまう・・・」
何か言っている、
そして、から始まる以下のことが、
鹿子田先輩の妄想の垂れ流しであることを祈る(?)
くぁぁぁぁぁぁ可愛い~~~~!!
とか、言っちゃうぞ、俺も(?)
近年では女性用トランクスや女性用ブリーフも開発されていると聞くし、
男性用ブラジャーの話も聞く。
男性用ガーターベルトなんかもあるが、それは、
ちっともセクシーランジェリーではないが、
見ようによってはそれもそうなのかも知れない。
「小日向君は・・・Hだと思う・・・」
「鹿子田先輩、まだ俺は何も言っていないですよ」
そうすると何故か分かり易く暗い顔になり、
「分かる・・・、胸滑走路で・・・痩せた燐寸のくせに・・・、
脱いでしまえ・・・やめて・・・そんな・・・だめ・・・」
―――そして俺は一体鹿子田先輩の小ネタを、冗談を見る。
勝手に会話を二手ぐらい進めた挙げ句、
昭和の吸い殻入れみたいな、
間違えた結論に着地するのを久しぶりに見る。
いや、十手ぐらい進んでいるだろうか?
俺は一体何を見せられているのだろう、という気がした。
スーッ、ハーッ、スーッ、ハーッ・・・。
し、死ぬ、なんという、破壊力、なんという破壊兵器、
もう、天然記念物か世界遺産認定すべきだと思います、
とか、言っちゃうぞ、俺も(?)
「冗談・・・だけど・・・雨上がらないね・・・」
と、そう言いながら、一メートルほど離れていた距離を近づける。
そこに、他意はないと思う。
声が聞こえやすくとか、話しやすいからとか、そういう類のことだ。
だが、俺はといえば、
ブルースウイルスとジェイソンステイサムは同一人物に見えるように、
チョコモナカジャンボのセンターチョコみたいな股間のうごめき、
と、鹿子田先輩にあてられてついアホなことを考えている(?)
―――あ、鹿子田先輩、睫毛長いんだな・・。
しかし帰るタイミングをつかめないまま、しばらく無言。
雨は激しくなる一方で、軒下のスペースも限られている。
駅へ向かう人々が濡れながら駆けていく様子を眺めながら、
一呼吸する響きごとに未知の世界へ誘われてゆく。
俺はふと口を開く。
アスファルトは雨を吸い込みながらも、ヘッドライトの光を反射し、
医療実習用の模型を硝子越しに見ているような、
暗鬱、慄然、憧憬による、性の屈曲と伸展を伴った階梯。
濡れた街路の表面に揺らめく赤や白の光の筋を刻んでいる。
ブラウン管の走査線みたいだ。
はるか遠くで雷鳴が低く鳴り響く。
ゴロゴロ、という音が空気を震わせ、街の建物の間を抜けるように伝わる。
雷は見えなくても、音が厚みを持って響くことで、
雨雲の存在が感じられる。
一瞬の静寂が訪れたかと思うと、
再びゴゥゥンと低い振動が足元へと響いてくる。
バジリ、と静電気を数倍凶悪にした狂瀾怒濤の音が響く。
『雷鳴』は、一秒間に約三四〇メートル進む。
電磁波である光の一秒間に進む距離は約三〇万キロメートル。
これについて簡単なことが言える、すっげえ速く進む。
地球全体では、毎秒約百回、
毎日約八六〇万回もの落雷が起こっている。
インドは世界でもっとも落雷の死亡者数が多く、
毎年千八百人が亡くなっている。
フラッシュバックのヒート、クラッシュ、エンドレスリピート、
それは、感覚に反映する現象。
消えかかった緑のラインが走るボディ。
くたびれた外観のバスだ
バスはスピードを上げ、水を撥ねさせながら勢いよく通り過ぎてゆく。
メリーゴウラウンドも、パレードもない、
静かに癒してくれる風が馴れ合いを告げるとして、も。
「鹿子田先輩、いつも天気予報とか見ないんですか?」
「……見てた……でも・・・信用してなかった」
「なんで信用しないんですか……?」
「……曇りって言ってた……」
たしかに、予報は曇りだった。
だが、ここまで本気で降るとは思わなかった。
「まあ、こういうこともありますよね。」
「……予報は・・・もっと正確に・・・してほしい……」
予報の精度は年々上がっている。
観測技術やモデルの進化によって向上しているが、
局地的な気象変化や突発的な気象現象には対応しきれないのは、
よく知られていることだ。
気象予報士が予知できない限り、それは無理だ。
それでも短時間の降水予測には気象レーダーが活躍し、
特に、フェーズドアレイレーダーは、
従来のレーダーよりも高速でデータを取得でき、
ゲリラ豪雨の予測精度を向上させている。
しかしそれだって四人の女の子達が占いへ行って、
その結果を紙に書いてもらい、
自分たちの占い結果がどれかを当てるような類のものだ。
もちろん、それを見なければ予測精度もへったくれもない(?)
しかし長期予報は七日が限界だが、
その気象のカオス性と予測限界にも、
AIとビッグデータを活用した新しい手法により、
予測可能性の向上が期待されている。
「先輩、それは人類の技術の限界に挑戦してますよ……」
などと話しながらも、雨が一向に降り止む気配を見せない。
「駅のコンビニに傘売ってますよね?
ひとっ走りして、買ってきましょうか?」
これも、一人だったらもうちょっと雨宿りするところだが、
鹿子田先輩がいるので、
雨宿りをするよりも早く帰る方法をという意見になっている。
「でも・・・それは無駄な・・・買い物になる……」
と冷静に言う。
マクドナルドではコーラだけは絶対に頼まないというような、
妙なこだわりが垣間見える。
ちなみにポテトも業務スーパーで購入して揚げればずっと安上がりだ。
ただ、個人的に想う、手間暇や時間よりも、設備なのだ、と。
われわれは、マクドナルドのように簡単にポテトを揚げる設備がない。
もういっそ下着などやめて、水着にすればいいのではないか、
と―――鹿子田先輩のせいで、俺はすっかりポンコツだ(?)
「じゃあ走ります?」の提案に、
「それはそれで・・・無駄な気がする……」と即答。
「先輩、それは完全に詰んでますけど……?」
と俺は苦笑する。
が、雨が少し弱くなったかも知れない、先輩の表情がわずかに柔らぐ。
時折遠い眼をして、閉じたり開いたりしている唇が、
最弱音を期待する。
「……止みそう?」と希望を持つ。
数分が経過し、雨足は少しずつ弱まってきた。
が、見事に期待は空回りし、すぐに雨は強くなり、
「……裏切られた……」と絶望する。
タイミングというのがある、いまなら行ける、ここで行ける、
もうちょっと行ける、まだまだ行ける、そして元の木阿弥(?)
「先輩、どれくらいの距離ですか? 家まで」
「……電車・・・乗る……でも駅まで・・・遠い……」
このままでは埒が明かない。
結局、俺はコンビニまでダッシュして傘を調達することにした。
子供が水溜まりにわざと足を踏み込み、波紋を作るみたいに、
また軒下まで戻ってきた頃には、鹿子田先輩は少ししょんぼりしていた。
ダッシュして戻ると、先輩は腕を組んで待っていて、
早い、と少し驚いた様子だった。
徒競走みたいな場面って大人になっても何度かある。
「……結局買った……でも・・・ありがとう・・・」
「まあ、濡れるよりマシですよ」
「……信用すればよかった……」
「だから、技術の限界を――」
「……次はちゃんと信じる……かも・・・」
こうして、俺は鹿子田先輩と相合傘をする形になり、
そのまま駅まで歩いていくことになった。
しかし相合傘学というのを立ち上げたくなるぐらいに、
実はいくつかの問題点が、ある。
まず、傘の持ち方問題で、片方が持つと、
もう片方が微妙に濡れてしまうのだ。
高さ調整が難しく、身長差があると傾きが偏る。
また大股で歩くと、相手が合わせるのが大変なので小股になり、
そうなってくると変な歩き方になってくる。
ペースが揃えば揃ったで、妙な一体感が生まれる。
しかし、二人用の大きい傘を持っている人は英雄で、
コンビニの傘で二人だと本当にギリギリの距離感で、
―――鯛焼きのあんこの中に骨があったらというようなもの。
「これだと・・・濡れるから……」
傘を差すと肩が微妙に距離感が近くなるのだが、
鹿子田先輩はさらに懐に入ってきた。
まるで右肩で軽く抱きながら歩いているみたいだが、
そうすることによって、大柄の人物のシルエット感が出て来る。
とはいえ、人混みが少しあると傘の操作が複雑になりがちで、
回避しようとしてはみ出して濡れてしまうのはあるあるなので、
これぐらいの距離感の方が安心だ。
ただ、わざとやっているわけじゃないし、
鹿子田先輩もそうじゃないと思うのだが、
もう密着度合がえぐい。
雨に囲まれた空間の中に、かすかに守られた小さな世界が生まれる。
傘の布地が、外の景色を少しだけ狭くし、二人の距離を曖昧にする。
雨音の中で、相手の呼吸が静かに聞こえる瞬間がある。
傘の縁から滴る水の動きを見ながら歩くと、
雨の勢いが微妙に変化するのが分かる。
駅へ向かう道の途中、ふと立ち止まって雨の感触を確かめる瞬間がある。
そして、歩きながらの会話も、いつもより落ち着いた口調になっていく。
しかし、いつもより話しやすいと想っていると、密着度合を思い出し、
本末転倒、途中で気まずくなったり―――する。
そして最終的に、こうやって相合傘をしていると男の自分は、
別に濡れてもいいんじゃないかという気がしてくる。
雨はまだパラついているので、ゆっくりと俺達は歩く。
湿った空気の中に広がる、雨の独特な香り。
舗道のアスファルトは雨を含んで、微かに油の匂いを漂わせる。
コンクリートの建物は、濡れることで温度が変わり、
昼間の熱をわずかに解放する。
土の匂いと雨粒が混ざると、どこか落ち着いた香りが広がり、
深呼吸すると冷たく、湿った空気が肺に流れ込む。
そしてそこに、鹿子田先輩の整髪剤や薄い香水の匂いがする。
車は透明な液の中を泳いでくる、錆びた機械の生き物。
雨の降る街には、言葉にならない余韻があり、
それは、雨が止んだあとも、しばらくそこに残り続ける。
相合傘で駅まで向かったのだが、鹿子田先輩がふと立ち止まった。
あたりはコインランドリー、二十四時間のインターネットカフェ。
狭い駐車場に、レンタルボックス。探偵事務所に、闇金融業者。
そしてそこは――ゲームセンターだった。
何処にも着地していない宙吊りの感覚と、エベレストみたいな氷山。
ゲーム機の電子音が重なり合い、店内全体が微かに震えている
雨に降られている上に、仕事帰りの少し気だるい時間帯。
駅前の大型ゲームセンターには、ネオンの明かりが輝き、
店内にはアーケードゲームの音や、対戦ゲームの掛け声が響いている。
カッ、カッとボタンを叩く音が響き、
時折うおお、という勝利の歓声が聞こえる。
しかしレモン一個に含まれるビタミンは、
レモン一個分だみたいなことを言ってしまうが、
コインの落ちる音、プリクラのフラッシュ、
景品が取れたときの電子アラームなども聞こえる―――。
レースゲーム、格闘ゲーム、リズムゲーム、
クレーンゲーム、コインゲーム、ガンシューティングゲーム、
それからカードゲームを入れて、
七種類でゲームセンターのおおよそだと思う。
とはいえ、何処にでもあるかは知らないが、
エアホッケー型ゲームとか、釣りゲーム、
協力プレイ型アドベンチャーゲームなんかもある。
コーナーによってテーマカラーが異なり、
レースゲームはブルー系、格闘ゲームはレッド系、
音ゲーはカラフルなLEDライトに包まれる。
エントランスでは明るいネオンが目を引くが、
奥へ進むほど暗くなり、ゲームの光だけが際立つ。
高校生の時以来、来ていないな、と思う。
こういうのってリア充度数が高いか、ゲーマー度数が高くないと、
まず寄り付かない店であるような気がする。
とはいえ、興味がまったくないかというとそういうわけじゃない。
「先輩、ゲーセンって来たことあります?」
「……うん・・・」
「意外ですね」
「……でも・・・最近はあまり……」
なんとなく会話しながら店内へ入る。
クレーンゲームのコーナー、格闘ゲームの筐体、
ピッ、ピッ、バン!
という電子音が一定のリズムを刻む。リズムゲームのゾーン。
どこも賑わっていて、ちょっとした異世界感がある。
しかし物見遊山をしながら、
鹿子田先輩とクレーンゲームでもしようかなと、
ぬるいことを考えていた時に、ふと違和感を覚えた。
鹿子田先輩の視線が、ある一点に向かっている。
「……鹿子田先輩」
視線の先にはレースゲームの筐体。
実際のレーシングカーを操作する感覚を再現したアーケードゲームで、
ステアリングホイール、アクセル・ブレーキペダルを使い、
直感的な運転ができる。
「……あれ、面白い……」
「え、やるんですか?」
「……いや……」
「いや?」
「……たまに……」
いやいや、もう、獲物駆るような眼つきで、
経験者の眼の輝きじゃないか――。
クレーンゲームをしてぬいぐるみの一つでも、
プレゼントしようというのは忘れ去られ、
鹿子田先輩のフィールドへと上陸する。
対戦ゲームも出来るようだが、何かおかしな気がしたので、
遠慮しておこうと思ったら、先手を打たれた。
「小日向君と・・・やりたい・・・失敗作のような電脳・・・、
試験管ベイビー・・・増設された記憶・・・、
一ミリも動かないゲームの盤上・・・」
―――近頃、俺ね、鹿子田ポエム好きなんですよね(?)
胸を貸してやるから、という風にしか聞こえない。
殺られる、それだけは確かだった(?)
「まあ、折角ですし、一回やってみます?」
「……うん……」
そう言って、鹿子田先輩は座席に腰を下ろし、プレイ開始する。
コインを入れると、画面にはコース選択が表示される。
ハンドルは重みがあり、左右に切ると細かく振動し、
ペダルは金属製で、アクセルを踏み込むとわずかに抵抗があり、
軽く沈み込む感触―――だ。
ギアレバーが側面にあり、
手首をひねるようにしてシフトアップ、シフトダウンを調整。
ゲームが進むと画面の動きに合わせて微妙に揺れる仕様。
咽喉にしなやかな眩暈を飼い慣らし、心像、前世、迷い込む廃都。
電気を帯びたコンクリートジャングルが揺らめいて―――る・・。
「何処がいいです?」
「……ここ・・・」
迷いなく選んだのは最難関のコース。
【ワインディングマウンテンコース】
カーブの連続、木々の影がちらつきながら、
ヘッドライトが闇を切り裂く。
車種選択では、スピード重視のスポーツカーや、
ドリフト向けの車などが選べる。
エキセントリックに、滅茶苦茶に支離滅裂に、ねえ、
君だけの扉・・。
そして、江戸時代の嘉永六年に、
ペリー率いる米国艦隊が浦賀へ来港したみたいに、
カウントダウンが始まり――。
三、二、一、GO!
の、カウントと同時にエンジン音が高まり、視界が一気に広がる。
アクセルを踏み込んだ瞬間、画面いっぱいにスピードのエフェクト。
直線で加速しながら、前方のライバル車との距離を測る。
スタート直後はブォォンと勢いよく加速し、
その後はグオォォォと安定する低い音が続く。
言葉とは裏腹に、動きが完全に熟練者のそれだった。
ギアチェンジ時にはガチャンという機械的な音が響き、
急な加速でキュンと高音が混じる。
ドリフト時には、ギギギとタイヤが滑る音が鳴り、
画面がわずかに傾くことでリアルな感覚が演出される。
「……うまく走るには……カフェラテが重要……
モラル・パニックからの発展形・・・ヘレン・ラブジョイ症候群・・、
そして・・・カフェラテを呑み込む・・・ロールシャッハなモザイク・・・」
―――カフェラテ・ヴァーチャル・ストーリー(?)
うん、それ全然関係ないと俺は思った。
しかしハンドルを切るタイミング、アクセルの加減、
ドリフトの精度――すべてが異様に滑らか。
カーブに差し掛かると、画面がわずかに傾き、
タイヤのグリップが緩む感覚。
影が通過する。
そしてすぐに青い蝶が、羽根を拡げ―――る。
そして知性の実が赤く熟れ―――る。
スティックをわずかに戻しながら、
アクセルを踏み込むとスパッと最速の復帰。
カレイドスコープのような、
夜の汐の破片が満ちて来る。
異次元的にすら見える。
俺はといえば、いきなり壁にぶつかり、逆走。
やったことがない上に、下手糞なのがバレバレだった。
世の中には、いくら高速衝突しても交通事故どころか、
平然と無傷で走れるものもある反面、車両自体に耐久性があり、
衝突や被弾によって徐々に壊れたり走行能力が低下するなど、
慎重性を求められることもある。
―――ちなみに、俺の車は最終的に爆発し、
鹿子田先輩は笑わなかったけど、冷静に、肯かれた(?)
しかし周りのプレイヤー達も、
一瞬で異変に気づいたようだ。
「え、なんかめっちゃ速くない?」
「あの人、やばくない?」
完全にプロの動きだもんな。
プロ野球の投手と槍投げの近似性みたいなのが伝えられているが、
そこにもある種の高い次元やハードルがあり、
アマチュアでは絶対に踏み込めない。
とりあえず上手い。
最初は静かにプレイしていたが、口元がわずかに引き締まり、
眼つきが日本刀を振り回しているようなものものしさになる。
革ジャン姿でナイフを持ったカミール・パーリア。
血圧と心拍数の急激な低下、そして泡。
それはゾーンという高い集中状態に入った証かも知れない。
左手でハンドルを操りながら、
右手の細かいアクセルワークがリズムよく刻まれる。
うすぐらい真水の底を、摩擦しながら・・・、
かすかな植物の朽ちてゆく匂いが、ふしぎな夢を見た―――い、
カーブの度に身体をわずかに傾けるのも様になっていて、
――まるで本当に走っているかのような動きだ。
「先輩、めちゃくちゃうまいですね?」
「……そう?」
「いやいや、普通こんな感じにはなりませんよ」
「……まあ、少し……やってた……」
「少し?」
「……昔はもっと……速かった・・・」
この人、完全にガチ勢じゃないか――。
ゴール前のラストスパート、
残り数秒、トップ争いの緊張感などない、完璧な独創。
そして最終ストレートで、アクセル全開。
ゴールラインを駆け抜けた瞬間、
画面に1st PLACEの文字が輝く。
世界があんまりにも遠いから、
もしかして鼓膜破れたんじゃないかって、何となく思った。
画面から視線を外した鹿子田先輩は、わずかに微笑んだ。
ハンドルを離した指先は、先ほどまでの緊張感を抜けたように柔らかく動く。
「いや、余裕じゃないですか」
そして戦意喪失して、鹿子田先輩を眺めるレースは進み、
最終ラップ、ライバルプレイヤーたちは必死に食らいつこうとするが、
鹿子田先輩はまったく動じない。
スーパーマーケットへ行ったのが一発で分かる、
バッグから飛び出る長ネギ問題を、
半分にへし折ることでクリアするようなもの(?)
「……ライン、ここで調整……」
「ここで……最速のドリフト……」
まるで解説をしながらゲームをしているようなスムーズさ。
他にも俺が分かり易いように、色々と説明してくれた。
(といって、俺に話しかけているのではなく、
まるで思い出しているような口ぶりで、)
コーナーではアウト・イン・アウトのライン取りを意識すると、
タイム短縮が可能だとか、コースによってブレーキングのタイミングが違い、
雨の路面ではタイヤのグリップが効きにくくなるなど、
―――完璧にやりこんでいるような意見をしてくれた(?)
そして鹿子田先輩は燃焼し尽くそうとし―――た。
ライト、LIGHT、こわれてゆく、right、
すべての想いなどどうせ語り尽くせぬものとばかり、
その一瞬、その、たった一刻で。
―――結果、圧倒的な一位でゴール。
俺はといえば、猿のシンバル状態、アメリカの観客みたいに拍手した。
何だか、周囲もちょっとした騒ぎになっていて、
温泉の蒸気を利用した蒸し器のあるキッチン完備の温泉宿みたいだった。
「……ふぅ」
まるで本物のレースを終えてきたように、
鹿子田先輩は、晴れ晴れとした表情をしていた。
「いや、余裕じゃないですか」
「……まあ……」
画面にはスコアランキングが表示される。
すると鹿子田先輩のハンドルネームらしい“SIKA”が既にランクインしている。
平面上の二本の平行線が交わる点をして無限遠点と呼ぶみたいに、
周囲もそれを見て、あの人、
数年前のアーケード用レースゲーム大会で優秀した、
“SIKA”じゃないかという話がぼそぼそと聞こえた。
あぶりだされてゆく―――秘密(?)
(少し……やってた……?)
(やりこんでたの間違いじゃなくて・・・?)
ちなみに鹿子田先輩が説明してくれたけど、
筐体のシンプルな入力システムの影響で、
カタカナは国産アーケードにもあり、
漢字が入力できるのは稀らしい。
―――そういえば、スパカモ姉さんのコメント欄に、
ゲーム動画を再開しないんですか、
という一文がたまに散見していたのを思い出した。
いや、鹿子田先輩かどうかは分からないけど・・・。
店を出る頃には、俺は何とも言えない気持ちになっていた。
別に鹿子田先輩にカッコつけようという気持ちはつゆほどもなかったが、
色んな才能があって、多彩だよなあ、と思う。
世の中には一定数、才能に恵まれた人がいるけど、
もちろん努力もしているわけだけど、器用で、なおかつ、
謙遜までされると、立つ瀬がないなという気持ちなる。
俺もちょっとは走れるようになろうかなと練習を考え、
再戦を夢見つつ、でも、やっぱりクレーンゲームで、
鹿子田先輩にぬいぐるみを取ってあげる姿が心に残った。
もしかしたら、クレーンゲームも上手かったりするのかな?
「先輩、ゲーマーだったんですね」
「……違う……」
「いや、もう認めてもいいですよ?」
「……昔は少し……でも、最近は……」
「でも、やっぱりめちゃくちゃ上手かったですよ、
どうしてあんまりやらなくなったんですか?」
「……まあ……」
先輩は小さく溜息をつきながら、視線を夜の街へ向けた。
「……ゲームは楽しいけど・・・ゲーム以外にも・・・、
したいことがある・・・」
「でもあれだけ上手いんだったら、
動画とか撮ったりしたらいいのに―――」
そう言うと、鹿子田先輩はきょとんとした顔をしていた。
「小日向君は・・・撮った方が・・・いいと思うの・・・」
「それはもちろん―――だって、俺はあんな風には、
出来ないじゃないですか、出来ることがあるなら、
それを楽しむ人は沢山いるはずですよ」
そう言うと、鹿子田先輩は、考えたことなかったな、と言う。
「それも考えてみる・・・でも・・・一番は小日向君と・・・、
今日来れたのが・・・よかった……」
それは、ただの隠れた過去ではなく、今も確かに残っているものなのだ。
ゲームセンターは、予想以上の収穫があった夜となった。
雨が止みかけた街の中、ふと、店の看板が遠ざかるのを振り返る。
後日スパカモラブ姉さんがレースゲームの動画を出したりした。
その間に、荒らしがあったとか、
プロゲーマーの話でいざこざがあって知り合いと仲たがいしたとか、
色々あったことをそれとなく知った。
昔あった動画を全部削除したのはそういう理由があったらしい。
未完成で、甘酸っぱさの欠片もない、逆走する、熱中する時間。
でも、やっぱりゲームが好きだから、という一文が結ばれていて、
何だか、他人事だけど、嬉しかった。
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