第6話 遅刻...エアコン故障...屋上...


人間なので、完璧ではない。時には失敗もする。

部屋のカーテンの隙間からは、既に明るい朝の光が差し込んで、

スマホの画面を確認すると、

アイスクリームの冷えた舌の感覚を戻す、

ウエハースよりもずっと・・・・・・。

ずっと・・・・・・。

えっ、を十回はエミネムのラップみたいに連呼して、

予定していた起床時間を軽く一時間以上オーバー。

「……終わった……」と、寝ぼけながらも本能的に呟くと、

スーパーの販促で使う派手なのぼりを右に左するように、

人間失格、社会人不適合者、という婉曲な拒絶の文字が踊る。

その声も、出しているが、頭はまだ理解しきれていない。

でもまあ、そんな日もある。

UFOにさらわれて目覚めた風にも見えなくはない。



―――それはシュタインズ・ゲートの始まり。



慌てて布団を跳ね除けると、身体はまだ半分夢の中。

折れそうなぐらいか弱い彼女の肢体は陽炎めいていて、

頭はぼんやりしていて、寝癖は限界突破したような状態。

微妙な緊張を巧緻のうちに促す、

枕の圧縮された形が、そのまま眠っていた姿を証明し、

シーツの端が半分ベッドから落ちかけていて、

夜の寝相の悪さが浮き彫り。

足元には昨夜脱ぎ捨てた靴下という透明な殻がそこにある。

そして何とも憎らしいことに、スマホは知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。

付喪神という実体になったら、それは数秒で、サンドバックの刑にしたいが、

おそらく、目覚ましをセットし忘れたので自業自得である。

透明は鋼性へと変わってゆく、

それでもいつもは目覚ましが鳴る前に起きる人ともなれば、

深酒がとか、ちょっと疲れが、ということもあるだろう。

眼がまだ完全に覚めきっておらず、視界の端がぼやけている感じで、

頭皮に違和感があり、寝癖の束が想像以上に跳ねているのが、

指を通して分かるが、心臓がドッと一気に跳ねる感覚、

鼓動が普段よりも明らかに速くなる。

「やばいやばいやばい……!」

そう言いながらも伸びをして肘を曲げ腋を見せるようなポーズをし、

肩甲骨の浮き出た華奢な背中。

急いで身支度をしようとするが、何から手をつければいいのか一瞬迷う。

鏡に映る自分の顔を見た瞬間、うわ、と心の中で呟き、

ブラックリストに載せられ―――た・・(?)


歯を磨くか、着替えを優先するか、いや水を飲んで目を覚ますべきか・・・。

結局すべてを同時進行しようとし、

歯ブラシを口にくわえながらシャツのボタンを留めるという謎の行動に至る。

歯ブラシを口にくわえながらシャツのボタンを留め、

片手で髪を整えつつ、もう片方の手でバッグの中身を確認。

この状況で器用さを発揮しても意味はないし、

すべて中途半端になるだけなのだが、

何故か動きだけは手早くなっている。


靴を履きながらバッグを肩にかけ、ドアを勢いよく開けたところで、

靴の左右を間違えて履いているのに気付き、

一瞬足元の蛙やざりがにを踏んづけたみたいに固まる。

深呼吸して、十秒後、仕切り直し。

「間に合え……!」という祈りを込めて駆け出す。


―――そして。



朝の社内。

通常なら、落ち着いた雰囲気のオフィスに、

静かに仕事を始める人々の姿がある。

夢想する役柄パターンがタイプライターの饒舌な熱気を求め、

情動指数や感情指数の上昇と、

持続可能な開発のための付加価値をする。

しかし――今日は少し違う。

「……鹿子田先輩、その服……」


俺は、偶然出社した鹿子田先輩の姿を見て、一瞬言葉を失った。

誰よりも早く出社する部類なのだ、彼女は。

まだ就業時刻まで二十分はあるものの、

この際の表現は、二十分を切っているが正解かも知れない。

ちょっと遅めなのでどうしたのかと思っていたら、

お、来た来た、

いつも通り淡々と歩いてくる彼女だが、どこか違和感を醸し出している。

何が違うのか、そう思いながら視線を向けると、

ブラウスのボタンが一つずれている。

ネックレスの裏表が完全に逆で金属の裏側の光沢が妙に目立っている。

(この前、似合ってますねと褒めてからずっとつけている、)

さらに、スカートのラインが微妙に斜めになっている。

気付く人は俺ぐらいだという細かいチェックだが、後頭部が少し跳ねている。

あと、表情が燃え尽きて灰になったジョーだった。

普段の鹿子田先輩なら、こういう細かい乱れはありえない。

だが、今は完全に雑な状態だった。

「……気に・・・しないで……」

いつもの落ち着いた声。

だが、俺には気にしないことに出来るはずもない。

コーヒーを飲む人、キーボードを叩く音、フロアの雑談が控えめに流れている。


「寝坊しました?」

――反応が遅い。

「寝坊しました?」

俺が尋ねると、鹿子田先輩は数秒の間を置いてから・・、

「……いや……でも……時間がなかった……脳髄が痺れるように・・・、

すべてが静止しきった世界だった・・・」


―――あの、量子力学の補足しちゃいますけど、いいんですか(?)


鹿子田先輩は、身の回りにあるものをドミノに見立てて、

無理矢理ドミノ倒しをしたような、

そういう朝の疲弊を感じさせた。

あ、おはようございます、と女性社員が通り過ぎる。

その微妙な間で、何か察している感じ、だ。

「何と言うか、お疲れ様です」

カフェラテがないようなので、

せめてすぐ買える缶コーヒーでも買ってきて、

朝のルーティンが出来るようにとその場を離れようとすると、

何故か、コアラのように胸を押し付けて、しがみついてきた。

コケティッシュな間隔の羞恥心で、体温が一気に上がる。

「……違う……」

「え、いや、別に馬鹿にしたりとか、してませんよ?」

年齢イコール恋人いない歴の人間を掴まえてのプレイがこちら。

「……違う……!」

どうやら鹿子田先輩は、自分がギリギリ間に合ったけど、

何かを必死に否定したいらしい。何だか変で、笑ってしまいそうになるが、

笑ったら火に油を注くか、

あるいは鹿子田先輩を顔文字にしてしまう( ..)φ

あるいはこんな顔( ;∀;)

というか、何でそんなに必死になっているのだろう?

鹿子田先輩は溜息をつきながら、自分の服装をちらっと確認する。

そして・・・・・・。


「……やっぱり……駄目?」

「いや、駄目っていうか、珍しいですよね」

言い訳したいのだろうか、別に会社には間に合ったわけだし、

俺だって別に、だらしないとか、思っているわけじゃないのに・・・。

周囲の同僚が、この二人何してるんだという眼で見たので、

鹿子田先輩がスッと掴むのを離してきた。

考えてみると、こんな風にされたのは、母親以外では鹿子田先輩だけだ。

こういうシチュエーションでは胸の柔媚な感触を味わうというが、

それよりもまず、恥ずかしくて、離れて欲しかった。

身体に不釣合いなほどに大きなクチバシを持ち、

トロピカルなルックスのオニオオハシのことを考える。


「・・・・・・」


しかしここで戦線離脱して、コーヒー買ってきますよと言ったら、

おそらく鹿子田先輩をネガティブモード全開にさせてしまう。

人に何かを聞くのが面倒臭くて、

ちょっと質問すれば終わる仕事を一週間くらい温め続けるような人だ。

場合によってはそれで根腐りして、腐ったゾンビとなるような人だ。

言い訳したいというのなら、付き合おう、部下として、後輩として。


「何かありました?」

「……いや……何も……ない……」


アニメ『サザエさん』のキャラのような絵柄になってしまいたくなる。

いやむしろ現在進行形で必要がある。

冷静になりたいのか、どうなのか、そこのところどうか詳しく(?)


「いやいや、教えてくださいよ」

「……ただ……急いだ……だけ……象・・・パンダ・・・、

カバ・・・トラ・・・どいつもこいつも・・・四つ足歩行・・・いいな・・・」


人間は確かに二足歩行ロボットのように歩きます(?)

あと、いいんだ(?)


「朝、何があったんですか?」

「……何も……」

「いやいや、顔伏せないで下さい」

鹿子田先輩は、微妙に視線を逸らしながら小さく呟く。

「……洗濯機が……止まらなくて……」

「は?」

「……服を……取り出そうとしたら……なんか……ずっと・・・、

ぐるぐる・・・メリーゴーランドのように・・・回ってて……謎の高速回転・・・、

頼む…止まれ・・・ボタンを連打・・・無反応・・・」


―――リアル太鼓の達人みたいなことを、仰る(?)


「そんなことあります?」

「……ある……!」


どうやら、朝のトラブルは洗濯機の謎の暴走だった、と鹿子田先輩は言う。

そのせいで時間を取られ、

結果として服装の準備が適当になった、と。

自分はけしてだらしない人間ではなく、ましてや遅刻などしておらず、

あくまでも、洗濯機の謎の暴走が原因だったと―――ほざいてた(?)


可視の世界の異質な秩序が朧ろに見え始めてくる。

美しい夢の醒め際にある、副作用だ。


電源を切るか、コードを抜き、そのまま会社へ来ればいい、

という通常のストーリーとは違い、

鹿子田先輩は洗濯機という名の魔物と全身全霊を持って格闘した、

それはリアルなマッドマックス怒りのデスロード(?)

でもそういうストーリー作りって、営業職に向いてると俺は思った。

何処かで読んだけど、その営業マンは、ほっかむりをして、

風呂敷を担ぐ泥棒みたいな恰好をして住宅街を歩く。

するとみんなが注目する、犯罪だってしていない、

ただポスティングをする。

そういうのを続けたあと、きちんとした格好をして、

『最近、物騒なので家にセキュリティをつけませんか?』と言うのだ。


俺には無理だけど、営業の才能がある人は、

紙コップだって売れる、それはやっぱり才能というのがあるのだ。

ただ、それも倫理的にはどうかと思うし、いま間違いなく、

墓穴を掘り続けているということを、鹿子田先輩は知らない(?)


「それって……結構な災難ですね」


“反応速度”が追いつかない―――​だとおお​お​​・・・!

人間を超越した速度で展開される―――【領域】


「……うん……服を取り出した・・・瞬間・・・、

まだぬるい・・・洗剤の香りが・・・ほんのり残る・・・・ついに・・・、

電源コードを・・・抜こうとするが・・・微妙に届かず・・・身体を伸ばす・・・、

手を伸ばした・・・そして水は跳ねた・・・一進一退の攻防・・」


―――俺ね、この人、天才じゃないかって思うんですよね(?)


中々の空想虚言者ぶりで、

高尾山にムササビが住んでいるという話を思い出してしまう。


「でも、ボタンがズレてるのは洗濯機関係なくないです?」

「……それは……うっかり……」


やっぱり、うっかりか。

じゃあ、うっかりでよかったんじゃないだろう―――か。

そして、先輩は静かに修正する。

「……直す・・・小日向君が・・・言うから・・・」

「え?」

「……ボタン」

って、ここ、仕事場、人の眼だってある。

背を向け、周囲に見られないように壁になった。

とはいえ、鹿子田先輩に朝から注目する人なんてまずいないことなど、

俺が一番知っていることではあるが、こんな時に、

鹿子田先輩は女だっていうことを強く意識してしまう。

もどかしい、息をひそめる俘囚の夜のような、奇妙な空白。

それは見知らぬ駅や見知らぬ街に対する、

憧憬のようなものを刺激する。

そうしているところを二歳年下の後輩である柚木に目敏く見られ、

「先輩まじで何してるんっすか」と半笑いで言われてしまう。

それは王女と騎士の間柄の密約、軽はずみに口には出来ない。

「お前、揚げ物の上にソースをかけるだろう。

だが、ソースを下にした方が味がダイレクトに舌に当るもんだ」

そう言うと、柚木はげらげらと笑いながら、行ってしまった。


ようやく、鹿子田先輩は自分の服装を確認しながら、

脳内だけで満足マトリックスに到達していた、

地に足をつけるところのボタンを正しい位置に直し―――た。


「まだ直ってないですよ」

と、うっかり、鹿子田先輩の後頭部に触れて手櫛をしてしまう。

「あ、すみません・・・・・・」

「小日向君・・・・・なら・・・・・・許す・・・セクハラだけど・・・、

大目に見ることはある・・・世の中が寒いのは・・・、

シャトレーゼの・・・せいじゃない・・・」


―――下請けいじめはコストコもありましたよね(?)


ってか、許すんだ。

それを見ながら、今日の鹿子田先輩は親しみやすいような気がした。

「……ネックレスも裏返ってますよ」

「……あとで……直す……」


と言いながら、こっちをジッと見たのは気のせいだろうか、

苔生えて神社の近い路地裏抜けた、ガードレール越しの先は、



―――海。



「いやいや、今直したほうがいいですよ。」

「……そう……」

最終的に、鹿子田先輩は少しずつ修正作業に入ることになった。

だが、どこか照れたような表情をしているのが――妙に面白かった。


鹿子田先輩がネックレスを直した後、一瞬だけ俺を見て、

設定とか世界観という名の眼球体で、

綱渡りを演出した洞窟の壁の影絵みたいに、

俺が買ってきた缶コーヒーを飲む。



しかし、しかししかし、だがしかし・・・・・・・。



こんな日に限って、エアコンが故障した。

最初は、「あれ、ちょっと蒸し暑い?」くらいの違和感だったが、

三十分後にはオフィス全体が蒸し風呂状態へと変貌していた。


「……なんだこの暑さ……」

と部長が言ったことで周囲もそれに便乗―――した・・。

鶴の一声、というのはこういうことを言うのだ。

「もう駄目だ、アイス買ってくる……」

(銃撃戦、デッドヒート、スクランブル交差点、)

「誰か扇風機持ってない?」​

(打ち寄せてくる波、散ってゆく花弁、)


社員達はそれぞれの方法で生き延びようとしていた。

水を飲む者、ネッククーラーを取り出す者、資料を団扇代わりにする者。

業務用扇風機はないか、と叫ぶ者。

てんやわんや、だ。

エンパイアステートで蝙蝠傘で明日我死なむのお経を唱える、

都会ゾンビたちの回復剤はなく。

みんな仲良し、とウェイ系の若者がそろいのユニフォームで、

ガッツポーズを決めている求人ポスターを思い出してしまう。

しかし、雰囲気としては漫画の“カイジ”だ(?)

頭脳労働において過ごしやすい環境は必要不可欠な要素だ。

しかし、一人だけ、明らかに様子が違う。それが鹿子田先輩だ。


「あれ、鹿子田先輩は、そこまで辛そうじゃないですね?」


周囲が悲鳴を上げる中、鹿子田先輩はいつも通りのけだるげな表情で、

普段の過ごしやすい環境からの変化一つで、

だらしないといわんばかりに、

(でもそれ、あなたの意見ですよね?)

ただ静かに、澄まし顔で、何処吹く風で、キーボードを打っている。


「……暑いの・・・好き・・・日本で一番人気な・・・猫種は・・・、

スコティッシュ・フォールド・・・別名・・・しゅきしゅきホールド・・・」


―――右脳か左脳のどちらかが消滅したようなマジパネエ破壊力(?)


でも確かに暑いのが好き、夏が好きって、そういう人もいる。

我慢大会みたいな要素を楽しめる人もいる、サウナだってそうだ。

激辛カレーで汗をしとどと掻いても全然平気という人もいる。

そしてボクシングジムなんかでは汗で濡れた床にモップを、

そして会社の清掃員はカーリングのように床を、だ。

けれど、六月から十月までを夏として、

海水浴、夏フェス、花火、縁日、

百五十日は暑い日があると仮定しましょう、

でも、はたして何日その強がりが言えるのか・・・(?)


「え? 絶対涼しい方が快適じゃないですか?」

「……でも……生まれ変わったら・・・砂漠のトカゲに・・・なりたい・・・」

「どういうことですか……?」


俺は思わず二度聞きした。

この発言に、周囲の社員たちも作業の手を止め、

異様な視線を向け始める。


「いや……先輩、普段、涼しい環境で快適そうにしてません?」

「……うん・・・でも……暑いのも・・・悪くない……」

悪くない――んだ。

「……この温度・・・ちょうどいい・・・」

「いやいや、ちょうどよくないですよ」


どうやら、鹿子田先輩には一般的な温度感覚が通用しないらしい。

社員達が、変温動物なんだな、と言い始めて、俺も何だか納得してしまう、

―――って、鹿子田先輩、蛇とかじゃないからな。



「しかし、一部の国や地域では蛇を食材として利用し、

その味は淡白な鳥肉と例えられることもある。

日本ではもっぱら薬用とし滋養効果があるとされ、

マムシ酒やハブ酒などに利用される・・・・・・・」

「飲んでいる?」

「身体から蛇ローテーション(?)」


そんな会話が聞こえてきた。

たまたま、後輩達だったので後ろからチョップ入れておいた。

仕事せぇや、ヘビーローテーションども。

「パワハラ受けた、怖い」

と、笑いながら、仕事しますと普通にやり始めた。

とはいえ、さすがに目上にそれをやる自信というのはない。

だが、ワンチャン、鹿子田先輩サイボーグ説はある(?)



昼休みになり、社員達は涼しい場所を求めてカフェへ避難していった。

カーエアコンが、ヒートポンプを使うのは冷房時のみで、

暖房にはエンジンの排熱を使うみたいなものだ。


―――三分間はシリアスブレイク(?)


俺もなんとか冷房の効いたエリアへ移動しようとしたが、

ふと気になって鹿子田先輩の様子を見た。

すると、普通にアイスコーヒーを飲んでいる。

「……先輩、それ、ホットじゃなくてアイスなんですね、安心しました」


安心するところが間違っている気もするけど、

あと、蛇の生態について曲解し、

マムシ酒やハブ酒を誤解しきっている気がするが、

鹿子田先輩はやっぱり普通なんだと思うと、そういう言葉が出てくる。

あと、みんなが言うのでそういうものだと思っていたが、

調べてみると、蛇は別に夏の暑さに強いわけではなく、

夏場はエアコンが利いた場所が推奨される。

こらとは思うが、まあ確かに蛇って涼しそうな感じがする。


「……さすがに・・・温かい飲み物は・・・キツい・・・保護猫カフェで・・・、

都市伝説レベルのデマ・・・人間奴隷化計画順次遂行中・・・」


―――うん、それ、デマですね(←冷静)


今日は夏日で、三十度を超えている。

ただ、大学時代のバイト先の工場では、

夏の真っ盛りでもホットを飲む人はいた。

冷たいものを摂取すると調子が悪くという見解だったが、

それもやっぱり個人差があるわけだが、わからなくはない。


「いやでも、ずっと平然としてましたよね」

「……子供の頃・・・夏休みの・・・自由研究で・・・」

「自由研究?」


しかし今日は鹿子田先輩とよく話すなあ、と思う。

まあ、話さなくても、『スパカモ姉さん』のSNSは、

毎日きちんと見ているわけだが。


「……家の温度変化を・・・記録してた……」

「え、そんな研究したんですか?」


何だか、住宅開発会社がやっていそうなことだな、と思う。

あるいは、心霊物件で温度変化を記録するユーチューバーみたいだな、と。


「……エアコンなしで・・・何処まで快適に・・・、

過ごせるか、みたいな……」


何だか、子供時代の鹿子田先輩を想像すると、和んだ。

イメージの中の鹿子田先輩は猫耳が生えていて、四つ耳だ、

おかしいと最初は気付く、デッサン狂ったかなと気付く、

でも髪の毛から次第に二つのモフモフの耳が現れることになる(?)


「でも、暑かったでしょ……?」

「……何故か・・・耐えるのが・・・楽しくなった・・・」


―――肉球スタンプラリーしようぜってこと(←まだ言ってる)


俺は思った。

武道家だ。あるいは、高校球児だ。

いや、楽しむポイント、そこじゃない……。


そして午後になり、業者が到着し、数時間の修理の末、

ついにエアコンが復活した。

時間が過ぎるにつれ、社員達の戦意は完全に喪失していた。

もう今日は休みでいいんじゃないか、

と舐めたことをボソッと言う者もいる。

資料を片手にぼんやりする者、

冷たい飲み物を持ってきて机に伏せる者が・・・・。


「あぁあぁ~っ、涼しいいいいいい!」

部長ともども、みんな心の声を大きくした。

質問の意図をまったく理解してくれず、

十何回聞き返す人のように脳味噌が飽和状態(?)

「この瞬間を待っていた……!」

「生き返る……!!」


同僚たちが感動する中、鹿子田先輩はただ静かに呟いた。


「……ちょっと、寒いかも……砂漠のトカゲに・・・、

なりたかった……夜の星空を・・・見上げながら・・・」


鹿子田先輩は絶賛ブルーモードである。


「いや、それはどういう話なんですか?」



結局、鹿子田先輩の温度耐性の謎は

俺にとっても、オフィスにとっても、永遠に解明されることはなかった。

とはいえ、遅れた分は残業してでも取り返さなくてはいけない。

だが、それでもアメニモマケズ方式で健闘した殆どの社員は、

アドレナリン全開で仕事を終えられたようだ。

鹿子田先輩や俺などは周囲の遅れた人を手伝ったりしていた。

じゃあそろそろ帰ろうかと思った時、

――ふと、鹿子田先輩がぽつりと呟いた。

「……屋上……涼しい・・・かも……世界の病巣に・・・、

巣食われながら・・・救われて・・・足下をすくわれて・・・、

テッテレレーとテレポーテーション・・・」


―――(ゆっくりと喋る、)多分、それは違うと俺は思った。


俺は、視線を向ける。

「屋上?」

「……風、あるかも……薙ぎ払う機関銃の如き・・・、

救世主という名の・・・素敵なフレーズ・・・」


―――不動産のポエムとか、香水のポエムもいいですよ(?)


確かに、屋上なら涼しいかも知れない。

それに、夕方から夜ともなれば気温も少し落ち着くはず・・・。


「……行ってみる?」

「まあ……折角ですし、行きますか、

あ、そうだ、コンビニでビールでも買ってきて飲みません?」

「じゃあ・・・私、買って来る・・・その代わり・・・」

「その代わり?」

「警備員さんに言って・・・屋上の鍵・・・借りてきて・・・」

自殺防止の対策で、内側から鍵がないと開かないようになっているのだ。

ここでピッキングできますよというようなことができればいいが、

―――いや、出来ないのだが(?)


こうして、俺と鹿子田先輩は、別行動した。

川底の忘れられたハーモニカみたいな、

警備室へ行き、帰りに挨拶する五十代ぐらいの年配のおじさんに、

一応もっともらしい理由で、

屋上の点検をしたいのですが鍵をお借り出来ますかと言うと、

磁石や、ロープや、アルコールランプや、

ラピュタパンや、グレープフルーツの缶詰を想像させる冒険の書は、

普通に借りれた、開けた後、開けっ放しにして返してくれたらいい、

深夜に締めに行きますよ、ということだった。

業務内容として、屋上も鍵が締まっているかを見に行くらしい。

ただ、エアコンが壊れてまだ直っていないと想っている節もあり、

ちょっと嘘をついているみたいで申し訳なかったが、

ご厚意に感謝するほかない。


エレベーターに乗りながら、一日の疲れでちょっとぼんやりしたせいか、

これって『私のことスキなら、○○してみせてよ」という、

ドラマやマンガ・小説などではいかにもありそうな場面だなと思った。

そもそも色恋沙汰が縁遠いので、ゴーズオンライト! 

面倒臭そうだと思いつつ、ちょっと憧れるシチュエーションでもある。


屋上の鍵を開けて警備室へ返しに行ったあと、

ロッカー室にレジャーシートなどがあった気がしたので取りに行き、

屋上へと向かうことになった、屋上へはエレベーターの十階まで行き、

それから通路を歩いて階段を少し昇った先にある。

(スムーズな筋肉移動・・、)

足の指から始まり足首へ、

外に出た瞬間、涼しい風がふわりと吹き抜けていて、

コンビニの袋を持った鹿子田先輩が―――いた。


いるとは思っていなかったせいか、

ピタゴラスイッチが始まりそうだった。

金属製のフェンスが周囲を囲み、ところどころ錆が浮いていて、

何か高架下の風景の親戚みたいだな、と思う。

昼間の蒸し暑さとは違い、空気は落ち着いていて、

下層の街よりも強い風が吹き抜け、時折シャツの裾を軽く揺らし、

少し肌寒いぐらいかも知れない。

そのせいで、ロマンティックなシチュエーションのような気もした。

頬を撫で、時折髪をゆるやかに揺らす風は、

換気口から漏れる微かな振動音に紛れ、

遠くから鳥の鳴き声がかすかに届く、広場のざわめき。


軌道が―――通じて・・、

​―――束の間の照らし出される顔​。


設置された換気ダクトから、静かに風が抜ける音が響き、

地上では車のヘッドライトが点々と連なり、都市の動脈のようにうねり、

ビルの群れと交差する道路の網目は、

精密な灯入り模型のように見える。

都会の地獄絵のように垣間見える豊かさは、

大小さまざまのかがり火のような熱気で、魑魅魍魎がせめぎ合う様だ。


不意に、植物が成長する一か月の様子を一分に縮めました、

みたいなタイムラプス映像を想像した。


「……思ったより……涼しい……」


鹿子田先輩が、小さくそう呟きながら、

やわらかく潤んだような甘い眼をし、

風景が類いまれな貝殻のように光る。

缶ビールとおにぎりの格好になった。

いただきますと言って、

俺もビールのタブをプシュッと開けると、

静かに視線を夜空へ向ける。


理解可能な属性の中の圧縮が起こって、

混乱させ―――る・・。

街の奥深くから聞こえる電車のかすかな走行音。

空を横切る飛行機の遠いエンジン音が、広大な空間の静けさを際立たせる。


「……星……見える……」


俺も、同じように空を見上げた。

ビルの明かりがあるものの、澄んだ空気の向こうには、微かに星が瞬いている。

汚泥​​の底から湧き上がる、茫​漠とした​虚しさと淡い追憶の波。

人間の行動というものは、外部刺激に対する反応であって、

刺激というインプットがなければ行動というアウトプットもない。

ついそんなことを考えてしま―――う・・。


「……こういうの、珍しいですね。」

「……社内にいると……気づかない……」

「確かに、いつも屋上に来るわけじゃないですし」


先輩は、ゆるやかに風に揺れる髪を軽く整えながら、静かに息を吐いた。

屋上に足を踏み入れる。

ネオン管が封じ込められたような記憶の曖昧さを伝って、

そこにはいつでも、変わらない風の気配が流れている。


「……昼間……暑くて大変だったけど……」

「こうして涼しい風に当たれるなら、まあ、悪くはないですね」

「……うん……」

しばらくの沈黙。

だが、その時間は気まずいものではなく、ただ穏やかなものだった。

クローズアップで表面をなぞる繊細なディティールで、​​​

缶ビールを飲む鹿子田先輩が見えた。

「……小日向君」

「はい?」

「……こういう時間……嫌いじゃない……?」


完全燃焼できないファインダーの向こう側、

一〇秒間に四八〇ものカット、

風が吹き、鹿子田先輩の髪が少し揺れ、

照明の光がうっすらと横顔を照らす。

心の中に置き忘れてきたものへと向​かっ​て、

ひらひらと天使のような白い羽根が舞い落ちる。


「いや、むしろ好きですよ。」

「……そう……」


夜風がふわりと吹き抜ける。

星の瞬きが、ビルの間からぼんやりと見え続ける。

この時間は、昼間の喧騒とは違う、静かなものだった。

都市の光が星のように広がり、地上とは違う無数の輝きが見え、

時折、救急車や消防車やパトカーかも分からないサイレンが聴こえる。

こうして、寝坊騒動や、エアコン故障の騒動は終わり、

屋上で思わぬ穏やかな時間を過ごすことになった。


屋上ではどこか遠い出来事に感じられ、

まるで切り取られた世界の一部のようにすら思えた。

唇を窪ませ、腑抜けた舌のなれの果て、

いつかの水彩画のような川辺の光景が静かに映し出され、

数億年前の樹脂の中で微動だにしない昆虫。

鹿子田先輩と三十分ほどいて、

帰る段になると、やっぱり鹿子田先輩が俺の方を見たので、微笑んだ。

帰ろうとした瞬間、鹿子田先輩が小さく、

「……また・・・こういうの・・・あるかな……」と呟く。

それを聞きながら、何年か後でも、

今日のことを思い出す、そんな日が来たらいいなと思う。

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