第3話 後輩


―――それから一週間後。


出社後、鹿子田先輩は、デスクに座るとまずカフェラテを一口飲む。

これをしないと、仕事モードに入れない。

朝のルーティンというやつだ。

出社時間になると、エントランス付近で社員同士が、

おはようございます、と挨拶を交わす。

コーヒーマシンが作動し、カチッ、とレバーが押される音のあと、

カップに静かに注がれる。

キーボードのタイピング音が重なり、

プリンターから紙が次々と排出される。

チーン、と電子レンジの音が聞こえ、誰かがコンビニのパンを温めている。

一五〇〇ワットは十秒という貼り紙もあり、

気になったら袋開けてね、という一口アドバイスは鹿子田先輩の文字だ。

温めるのが好きな人は一定数おり、袋開けたがりも一定数いる(?)

「昨日のドラマ見た?」とか。

「いや、帰ってすぐ寝ちゃって…てか最近眠気すごくない?」とか。

「わかる、もうカフェインで生きてるわ」とか。

栄養ドリンクを、ごく、とか、じゃないんだ。

ゴッ、なんだよ。すごい覚悟を決めた飲み方をしている人もいる。

―――不毛な会話が朝にはとりたててよく聞かれ、

誕生日を覚えておくだけで会社はハードボイルドな雰囲気を避けられる(?)


様々な朝のルーティンがある。

かくいう俺もストレッチをしてから、

新しく入った田村という同期の社員が困っている様子を見かける。

自分も注意されたが、新入社員気分が抜けないというよりも、

ちょっと要領が悪いところが―――あるせいかも知れない。

二歳年下の後輩である柚木が、

「最近、田村さんちょっと慌ただしいっすね」

と俺にこっそり耳打ちしてくる。


社内メールの冒頭に必ず『お疲れ様です』を入れて、

文末には『何卒よろしくお願いいたします』を入れる、

などの細かいルールがある。一度俺はが『以上です』で終わらせたら、

冷たすぎる、と注意されたことがある。

そしてそういう類のことだ。

会議室でのプレゼンは、絶対にパワーポイントのテンプレートを揃える、

暗黙のルールがある。

書類棚を閉める時、雑に閉める人と静かに閉める人がいる。

そしてそれが分かる人と分からない人も―――いる・・。


社内では誰かがコーヒーを淹れる音が微かに聞こえ、

キーボードのタイピング音がリズムを刻んでいる。

田村が書類の束を抱えながら、一瞬だけ立ち止まり、小さく溜息を吐く。

仕事の慣れていない新人というのはそういうものだ。

その傍らを、資料を手に急ぎ足で会議室へ向かう人。

「あとでミーティングするんで、

今日のスケジュール確認しておいてください」

といった小さな指示が飛び交う。

誰かがコーヒーを持ちつつ、デスクの間をすり抜けながら移動している。

その場では見守る鹿子田先輩だったが、終業時間、帰り際にポツリと一言。

「……あの子、大丈夫・・・かな・・・」

連日、残業している。

中には慣れなくて辞めてしまう人もいる。

「気にしてるんですね」

「別に……」


しかし、翌日になってその写真のデスクを見てみると、

見えない形でサポートしていたことが判明。

説明資料をこっそりデスクに置いていたり、

細かなチェックを入れていたり・・・。


他の社員は忙しいし、上司は鹿子田先輩以外にもいるけど、

こんな痒い所に手が届くようなことまでは―――しない・・。

入社したての頃に、自分にもこんなことがあった。

仕事のちょっとしたコツや注意点が書かれ、

マニュアルの補足的な内容が手書きでまとめられており、

先輩たちが口頭では教えない小技などがぎっしりと詰まっていた。

疾風のように地面を掠め去る鳥の影、

芝居の中の出来事のような他愛ない過去。

蛍がにわかに光り始める。


(いまでは、筆跡から鹿子田先輩だって分かるけど、

スパカモラブ姉さんのことがあるまで、忘れてたな・・・・・・)


世の中では、アピールが必要なんだ。

自分がやりましたよ、感謝してねっていうのが、必要なんだ。

世界は自分中心に回っているみたいな人が評価される一方で、

優しい人や、いい人というのはちゃんと見てもらえなかったりする。

世の中のシステムも変わって、

優しい人やいい人はもっと息苦しくなっている。

ましてや、口下手で、思ってることをきちんと伝えられない人ともなれば、

―――壊滅的だ。


「……直接話すのは得意じゃないヒトだからな」



昼休み、社内のカフェスペースでは、

「今日、どこ行く?」と雑談する社員達の声。

近くのデスクから、「いやいや、それは違うよ」

と宇宙船の打ち上げを見ながら、

宇宙戦艦ヤマトを思い出すような軽い議論が始まる。

スマホを机に置く音、紙コップを持つ音、

バッグのファスナーが開く音が重なり、全体的に落ち着いた喧騒。

あるいは、忘却や遺漏や改竄に満ちた川床の砂・・・・・・。


そんな昼休み、何か思うところがあったので、

鹿子田先輩の机に缶コーヒーと、ポッキーを置いたら、

めっちゃ挙動不審になって―――いた。

ちょっと立ち上がってストレッチしないと肩がやばいと言うベテラン社員みたいに、

軽く伸びをするような動作を見せたかと思うと、

羽根を拡げてコウモリのポーズをしてバットマンになったり、

ガオーと、威嚇? それ、威嚇ですよね?

虎のポーズしたり―――した(?)

絶好調だった。

弾けないピアノの鍵盤も使い慣れたキーボードだと思えばいい、

って、ちょっと待て、缶コーヒーとポッキーごときでどういうこと?

二歳年下の後輩である柚木が、

「あれ、小日向先輩の仕業っすよね?」

と俺にこっそり耳打ちしてくる。

「・・・・・・アッチョンプリケ(?)」


間違って――いた、

間違って、いたのだろうか?

トマトの皮のように中が透けて見える。

少し考えて、出した答えは、イエスだ。

瞬間、一筋の煙になって消えてしまいそうだ。

鹿子田先輩は

「誰か・・・・・・間違えて・・・置いてない・・・精神攻撃・・・、

そして始まるマイナスプラシーボ・・・暗示という名の進撃の巨人・・・?」

とか、やり始めたので、正直に言うことにした。

優しさって、難しい・・。

エアコンの微かな風の音と、遠くの方でガコンと書類棚が閉まる音し、

「・・・・・・この資料、どこだっけ」

と独り言のようにつぶやく社員がいて、

頭を搔きながらホワイトボードにメモを書きながら、

プレゼン準備する人の静かな午後の時間が始まってゆく。


しかし数日後、田村が大きなミスをしてしまった。

田村がミスをした瞬間、共有フォルダ内のデータが次々と混乱し、

あれ? ファイル名変わってない?

と周囲がざわめく。

ふっと田村の方を見ると、手元のマウスがわずかに震え、

画面を見つめながら、息を呑んでいる。

風呂場の湯気が天井からポタリと落ちてきたら、

豆腐だったというような顔をしている。

田村は重要な書類のファイル名を誤って変更し、

共有フォルダ内のデータを混乱させてしまったのだ。

ミスをした後、社内の空気が一瞬止まる。

マグマがしゃりしゃりと音を鳴らす、エルタ・アレ火山。

その愚かな狂熱の坩壺のような、その間が、妙に長く感じられる。

青ざめながら謝る田村。

しかし、部長からの厳しい指摘が続く。

『企画・開発部門』では、部長の声が響きやすい。


―――処方箋はない、救済措置はない、

“スイッチ”が入ってしまうんだ・・。


資料を開きながら、眉をひそめ、

その微妙な沈黙がじわじわと田村を追い詰める

「申し訳ありません……すぐに修正します……!」



「・・・・・・これ、前の・・・バージョンで・・・復元・・・できるよ」



鹿子田先輩は背後から静かに近づきながら、ほんの少し指先で画面を示す。

田村が慌てて確認すると、幸いにもバックアップデータが残っていた。

田村が息を呑むように鹿子田先輩のアドバイスに従い画面をクリックすると、

ファイルが元に戻って事態は収束する。


「……助かりました、ありがとうございます!」

「気をつけて・・・・・・」


短い返答ながらも、その声は普段より少しだけ柔らかかった。

ミスの対応をした後も、特に得意げな様子を見せず、元の作業に戻る。

鹿子田先輩が対応した後、部長が、

「……まぁ、気をつけてな」と締める。

田村が書類を直したあと、周囲が普通に仕事に戻るが、

一部の社員が、今の、地味に助かったよな、と小声で話している。

俺は、その様子を眺めながら思った。

鹿子田先輩は決して優しい先輩というタイプではない。

でも、困っている人を放っておくことは、できない人だ。

その日以来、田村の仕事への取り組み方が少し変わったように見える。


色んな個性があると思う。

田村は会議の議事録を取るのが異様に速いので、

『人間タイピングマシーン』という名前を進呈しよう(?)


二歳年下の後輩である柚木も、

「田村さん、資料をめくるスピードが妙に速いっすよね、

人間OCR機能ついてますよね」と言う。

「じゃあ、人間タイピングマシーンOCRだ」

「でも、長いっすね(?)」


それらの様子を見ながら改めて思う。

鹿子田先輩は決して面倒見の良いタイプではない。

でも、気付かないうちに周囲のことを考えていて、

助けるべき時は決して見捨てない。

自分が出世して、上司になったらあんな風にしてあげられるだろうか、

そんなことも―――考える。

それを優しさと表現すると、本人はきっと否定するだろうけれど――。

そして後日、俺は気付く。

スパカモラブ姉さんのSNSには、こんな投稿がされていた。


『新人が成長していくのを見ていると、妙に安心する(?)』


その何気ない言葉に、思わずクスッと笑ってしまう。

確信を得ているわけではないのだが、SNSの投稿を見た瞬間、

いやいや、これさすがに偶然じゃないよな?

いやいやいや、これはもう確定演出すぎるだろ?

このタイミングでこの投稿って・・・。

ああ―――そういうことか、とつい微笑んでしまう。

もしそうなら、背後霊というより、座敷童じゃないか、と。


様々に分岐する流れを辿っていると、

上映開始のブザーでも聞こえてきそうだ。


そして昼休み、やっぱり何か思うところがあり、

夕方になっても電気をつけず、

中島みゆきの『糸』を聞いて一人で涙を流しているような、

鹿子田先輩の机に缶コーヒーと、もみじ饅頭を置いておく。

あとメモ用紙で『いつも頑張っているあなたへ』とか書いておく。

二歳年下の後輩である柚木が半笑いで、


「ちょ、ちょっ―――上司っすよ、鹿子田先輩、

何、悪戯してんっすか?」


と俺に言ってくる。

あと、なんだ、そのなりふり構わない感じでつっこんでくる、尻(?)


「お前、これが悪戯に見えるのか、

日頃のご愛顧に感謝感激雨あられ(?)」

「というか、悪戯以外だったら何なんですか?」

「何ってそりゃ、おま―――」


ハッと後ろを振り向くと、

逃げちゃ駄目だって碇シンジも言ったごとく、

レレレのポーズを決めてビビっている、鹿子田先輩がいた(?)


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