十三段目の階段

 午後の部室見学は、予想以上に濃密な時間となった。カレイドスコープの部室はサークル棟の最上階にあり、壁一面に貼られた都市伝説の資料、古い文献、そして数々の調査道具が所狭しと並んでいた。陽菜乃は興味深そうに資料を眺め、泰河は怪談本の表紙を見ただけで顔を青くしていた。


 そして夜の八時。真澄の提案で、十三段目の階段の本格調査が決まった。参加メンバーは陽菜乃、泰河、そして記録係の二年生、高見遼たかみりょうと機材担当の一年生、宇田川晴音うだがわはるねの四人。他のメンバーは「初回は少人数で」という真澄の判断で部室待機となった。


「それじゃ、機材の確認をしよう」


 遼は几帳面にチェックリストを読み上げた。短髪で眼鏡をかけた彼は、いかにも理系らしい冷静沈着な雰囲気を漂わせている。


「デジタル温度計、湿度計、電磁波測定器、そして……」


「録音機器とカメラはワタシが!」


 晴音が大きなバッグから最新式の録音機器を取り出した。小柄で人見知りな彼女だが、機械の話になると途端に饒舌になる。


「このICレコーダーは超高感度で、人間の耳には聞こえない周波数まで録音できるんです! カメラも赤外線撮影機能付きで……」


「う、宇田川さん、すごいですね」


 泰河が感心したように言うと、晴音は恥ずかしそうに頬を染めた。


「あ、ありがとうございます……岸本くんも、その……霊感が強くて羨ましいです」


「え? 俺なんて視えるだけで、なんにもできないですよ。宮野さんのほうがよっぽど……」


「そんなことないですよ。視えるって、とても貴重な能力だと思います」


 陽菜乃が微笑みながら言うと、泰河は少し照れたような表情を見せた。


「みんな、準備はいい?」


 遼が時計を確認した。午後十時ちょうど。昨夜と同じ時刻だ。

 機材を持ち、四人は文学部棟へ向かった。夜の大学構内は昨夜以上に静まり返っており、街灯の光が長い影を作っている。文学部棟が見えてくると、泰河の足取りが重くなった。


「岸本くん、無理しちゃダメですよ」


 陽菜乃が彼の腕を支えた。


「ありがとうございます……でも、大丈夫です。今日も一人じゃないから……」


 彼らが階段に到着したとき、遼の持参した温度計が異常な数値を示した。


「おかしいな。周囲の気温より三度も低い」


「ワタシの録音機器も、さっきから低周波を拾い続けてます」


 晴音がヘッドフォンを耳に当てながら報告した。


「それじゃあ、まず階段を数えてみましょう」


 陽菜乃の提案で、四人は階段を確認した。やはり十二段。しかし、一人ずつ歩いてみると……。

 五歩、歩いたのに、六回の足音が響く。


「確実に十三回の音がしてるね」


 遼が緊張した面持ちで、冷静に記録を取っている。


「岸本くん、なにか視えますか?」


 陽菜乃が尋ねると、泰河は震え声で答えた。


「まだ……でも、すごく嫌な感じが……あっ! なにか来ます!」


 そのときだった。晴音の録音機器が突然異常な音を拾い始めた。


「キィィィィィ……」


 それは金属を引っ掻くような、耳障りな音だった。


「これ、なんの音ですか?」


 陽菜乃が眉をひそめて晴音に聞いたとき、隣の泰河の表情は恐怖で歪んでいた。


「違う……これは音じゃない……悲鳴です。誰かが苦しんで……助けを求めて……」


 泰河の言葉と同時に、階段に異変が起こった。十三段目、本来存在しないはずの場所に、黒い影がゆらゆらと立ち上がったのだ。


「あ……あああ……」


 泰河は指差すことすらできずに震えている。陽菜乃には視えないが、銀の鈴が激しく鳴り響いていた。


「宮野さん! なにかが映ってます!」


 晴音が叫んだ。彼女のカメラの液晶画面に、白い光の筋が映り込んでいる。

 遼の温度計は急激な温度低下を示していた。


「マイナス五度……? こんなの異常だ」


 陽菜乃は直感的に行動した。鈴を強く握りしめ、階段に向かって一歩踏み出す。


「そこにいるなら、聞いてください。あたしたちは敵じゃありません」


 陽菜乃の声が夜の静寂に響く。しかし、予想とは違う反応が返ってきた。

 泰河が見ている黒い影は、陽菜乃の言葉に反応して激しく身悶えし始めたのだ。


「ダメです! なんか怒ってる!」


 陽菜乃の銀の鈴の音色が変化した。清らかな音から、まるで警報のような鋭い音に。


「なにかが……近づいてくる?」


 遼が機材を見つめながら呟いた。すべての数値が異常を示している。

 そのとき、泰河の見ている光景が一変した。黒い影は人の形を取り始め、その顔には深い絶望と怒りが刻まれていた。そして、その人影は階段を下り始めた。十三段目から十二段目へ、十一段目へ、十段目へ……。


「うわッ……こっちに来ます!」


 泰河の叫び声と同時に、四人全員が異変を感じた。足元から這い上がってくるような冷気、耳鳴りのような低い唸り声、そして説明のつかない恐怖感。


 陽菜乃は必死に鈴を握りしめた。しかし、いつものように温かい力が湧いてこない。それどころか、鈴が氷のように冷たくなっていく。


「どうして……いつもと違う」


 困惑した陽菜乃の声が震えていた。


 ――そして、決定的な瞬間が訪れた。


 泰河が見ている人影が、ついに階段を下り切り、四人の前に立ったのだ。その顔は苦痛に歪み、口は助けを求めるように開かれていた。しかし、声は出ない。出せない。ただ、無音の悲鳴だけが夜に響いていた。


『助けて……助けて……』


 泰河だけに聞こえる、その声は切なく響いた。


『誰も……誰も気づいてくれない……一人で、一人で苦しくて』


 泰河は恐怖を忘れて、その人影に手を伸ばした。


「大丈夫です! 俺たちがいます! もう一人じゃありません!」


 その瞬間、不思議なことが起こった。陽菜乃の鈴が再び温かくなり始めたのだ。


「岸本くん……」


 陽菜乃は泰河の優しさに心を打たれた。怖がりで震えていた彼が、霊の苦しみを理解し、手を差し伸べている。


「あたしにも……あたしにもその気持ちをわけて」


 陽菜乃も階段に向かって手を伸ばした。視えないけれど、確かにそこに苦しんでいる魂がいることを感じ取れた。

 二人の気持ちが通じ合った時、階段に変化が起こった。冷気が和らぎ、街灯の光が安定し、そして……。

 晴音のカメラに映っていた白い光の筋が、まるで人のような形を取り始めた。


「遼先輩! 見えます! カメラを通してですけど、人の形が!」


 興奮した晴音の叫びに、遼も機材の数値を確認した。


「温度が上がってきてるな。でも、電磁波は相変わらず異常値を……」


 この温かい瞬間は長くは続かなかった。

 二人に向かって手を伸ばしていた人影の表情が苦痛に歪み、周囲の空気が再び重くなる。


「まだ、まだ終わってない……」


 青ざめた泰河の呟きに、陽菜乃の鈴が再び激しく鳴り響いた。今度は警告音のようだった。

 目の前の気配が明らかに変わり、より深い闇を帯びた存在になっていく。


「みんな、ここは危険だ! 一旦退避しよう!」


 遼が機材の異常な数値を見て叫んだときには既に遅かった。階段全体が異様な空気に包まれ、四人の足は金縛りにあったように動かなくなっていた。


 陽菜乃の鈴の音だけが、夜の静寂に響き続けていた。

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