空日記
戸部 梨
(非)日常
何ともない日だったように思う。帰宅ラッシュと呼ばれる時間帯に駅を目指していた。毎日毎日、金を支払うためだけに階段を登り降りする。乗り込む電車を選択し、人混みの中で冷たい壁に寄りかかる。そこに非日常的な要素は、何処にも見当たらなかった。
ただ唯一非日常を感じさせるのならば、この本だろうか。日記なのだろう、開いたままの南京錠が取り付けられている。道端に落ちていたそれはどんなに目立っていたことか。誰も拾おうとしない可笑しさに、私にしかそれが見えていないのかと疑った。
誰も関心を向けないことを異様に感じたのは確かだ。出来れば関わりたくないとも思った。しかし、気がついた時には私はそれを手にしていた。
本格的に関わってはいけないと、私は強く思ったはずだ。それなのに、そうだと言うのに私は、拾った物をその場所に戻すというのは倫理に反するような罪悪感を覚えた。交番に届けるなどという解決方法は、まるで最初からなかったかのようだった。普段とは明らかに違う思考であった。
こうして私は無事その本を持ち帰った。最後まで手放すことはせず、大事に抱えたままの帰宅であった。誰かに帰ったことを知らせることもしなかった。
タオルで汚れを拭き取り、その本と見つめ合う。やはりこれは日記のようだ。
「見てしまえ」という言葉が心の内から囁かれる。意を決するように唾を飲み、その重たい表紙を開く。パンドラの箱を開けるような緊張と高揚感は計り知れないほどであった。
表紙が分厚いせいで厚く見えた日記は、想像より少し薄い。と言っても、読むのには結構な時間がかかりそうである。日記らしくその日の出来事が書かれた記念すべき一頁目に目をやった。
【晴れ】
今日から日記をつけてみる!今日は███と遊んだ!かくれんぼ楽しかったな。
その文字からは微かに幼さが見える。そして一部、その幼い文字が乱暴に消されているのは友人の名だろうか。
【晴れ→くもり】
学校の宿題をわすれちゃった。先生にちゅう意されちゃってかなしい。明日はちゃんと待って行こう。
【晴れ】
きのうわすれた宿題はちゃんと待って行ったよ。またおこられると思ったけど、おこられなくてうれしかった!███達と鬼ごっこして、楽しかった!明日は何して遊ぼうかなー?
ひたすら続く日常。そして、この先もそれが続いていくと、そう確信された「明日」が綴られていた。日常のふりをした非日常を楽しんでいるかのようだった。
一言も見逃すまいと日記を舐め回す私の視線が、とある日ではたと足を止める。
【晴れ】
今日は新しいかさでママとお出かけだ!朝からたくさん雨がふってるけどへっちゃらだよ!
どうやら、この日は雨が降っていたらしい。しかし天気は「晴れ」だと記載がある。夕方には晴れたのだろうか?この日記はそれならそうと書いてありそうな物だが…。
こういう事は、この後も続いた。晴れの遠足の日に雨と書かれていたり、雪が降った日に晴れと書いたり。しまいには台風の日に曇りと書く始末だ。
それは明らかに、実際の天候を顧みず書かれた天気であった。ではどうしてそのように天気を書くのか、私にわかるはずもなかった。
【雨】
チーちゃんが死んじゃった。悲しいよ。ママもパパも悲しんでた。でもなんでお庭にうめたの?チーちゃんはたねじゃないよ。
ペットだろうか。こんなに幼いうちに来る別れとは、どれ程のものなのだろう。子供は、案外1週間もした頃にはケロりとしているのだろうか。
【雨】
チーちゃんはお空に行ったんだってママが言ったけど、チーちゃんはまだ土の中にいるけど、ほったらダメって言われた。もしかしたら、チーちゃんがまたはえてくるのかな
【雨】
ママにたくさんおこられた。チーちゃんを土から出しちゃだめだって言われた。なんでだめなの?ママは何も教えてくれないよ。
【雨】
ママが夜にぼくのせいで泣いちゃった。ぼくがこわいって言ってた。パパはいっしょに遊んでくれなくなっちゃった。ママもぼくを見てくれないから、あしたのテストで100点とって、よろこばせてあげたいな。
【雪】
皆がぼくをサイコパスだって言ってる。███もぼくとはもうあそばないって言ってて、悲しくなった。
そこで一度日記は途切れた。ペットが亡くなり、それを受け止められない様子に胸を締め付けられる。1週間で立ち直るなんて、そんな甘い妄想をしたことにさえ申し訳なくなる。この子に謝らなくては、なんて出来もしない義務感に駆られる。
次のページは空白だったが、ページをめくってみると、そこには随分と子供らしさの抜けた字が綴られていた。
【雨】
久々にこの日記を見つけたので、書いてみようと思う。
もうあの苦しみなんてさっぱり消え去ったよ。僕はいつしかその死を乗り越えることが出来た。
でも、あれから父さんと母さんは僕のことを愛してくれなくなった。僕を気味悪がって、恐れて、罵った。母さん達がチーちゃんの死因を知っていたなんて、考えもしなかったあの頃は辛かったなぁ。本当に意味がわからなくて、辛かった。
罪悪感とかで日記には書かなかったけど、チーちゃんは僕が殺したんだ。どれだけ強く握れば死ぬのか試したくて。
それでも親は、親だけは子供を愛すべきだろう。せめて、殺すくらいの責任は取るべきだったんだ。
でも僕の両親はそうしなかった。中途半端に罵って、抑え込もうとしたんだ。もう愛さないくせに。
だから、別れるために殺した。後悔させたかった。人間は握ったくらいじゃ死ねないから、母さんは二回、父さんは四回刺した。刺した場所が良かったのか、見事な血飛沫だった。
今目の前に死体があるよ。死体の目の前でこれを書いてんだ。可笑しいよな、笑えてくるよ。きっと僕は生まれた時から狂ってたんだな。僕は、愛されたかっただけなのにな。
ついでだ、僕を裏切った███くん。次は君の番だよ。
ここで本当に日記は終わった。この少年はどうなったのだろうか。いや、もう少年と言える年齢ではないのかもしれない。
しばらくその場から動くことはできなかった。ずっと全速力で走っていたような、そんな疲労感が蓄積されていた。もう非日常は懲り懲りだと、そう思う他なかった。
宅配だろうか。玄関のチャイムが鳴った事で、私はその場から立ち上がった。
空日記 戸部 梨 @Tobenashi
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