藍白_
霙座
芽
仕事と掛け持ちしているアルバイトの居酒屋は週末らしい人の賑わいで、だんだん大きくなる会話の間に良く通る注文の声と、時々罵声と、硝子が儚く姿を変える音にもみくちゃになる。閉店後の深夜二時、緊張の糸が途切れてしまえば圧倒的睡眠不足の身体には覆いかぶさるように睡魔がやってくる。丸めたスーツを詰め込んだだけのリュックサックすら肩に食い込む。わたしは気迫で気力を奮い立たせて足を引き摺るように帰路に着く。
住宅街から小路に入って、建ち並ぶアパートの二階の角を見上げれば、部屋の明かりはついている。吸った空気にふわっと肺が広がって、頬が緩む。
早く帰りたい。
会いたい。
毎日繰り返し現れる気持ちには最大数が存在していなくて、積み上げられてどんどん大きくなっていく。ヘリウムガスいっぱいの風船に宙に吊られたように足取りが軽くなる。いったい何度目の悦楽、若しくは焦燥。
自宅のインターホンを鳴らすと、はにかんだ笑顔が出迎えてくれる。
深雪さん、おかえり、とぷくりと膨らんだ若菜のように柔らかい目尻を潤ませた椎名くんが、わたしの家の玄関にいる。
茶色の瞳は大きくて笑うと蕩けたキャラメルのように艶めいていて、そばかすがバランス良く配置された色の白い透明な肌も相まって純日本人を疑う美貌の持ち主は、役者になる夢を持っている。
今朝、出掛けに聞いたら今日は、ヴォーカルレッスンのあとジムに行くと言っていた。疲れているだろうに、こんな時間まで起きてわたしを待っていてくれる。
椎名くんは隈の消えないわたしの目元をゆっくりと撫でて、両手で頬を包む。遅くまでおつかれさま、囁いた唇がまぶたに落ちてくる。椎名くんからは甘いクチナシの香りがする。
ここは天国か。
高校生の部活を応援する番組の取材で文化祭の準備中の母校を訪れて、お目当ての吹奏楽部と入れ替えに体育館ステージに入ってきた演劇部員の中に椎名くんはいた。
卒業生とはいえ、いつ卒業したか想像の範疇を超える年上のレポーターに、物怖じせずに近付いてきて、どこのテレビ局ですか、吹奏楽部だけの取材ですか、僕たちのことも見ていってくださいとキラキラした瞳を見せた。
眩しい。
立て込んだ分単位のスケジュールに後ろ髪を引かれながら帰社したものの、彼の笑顔が脳裏に焼き付いていた。
調べてみると、じきに開かれる県の演劇研究発表大会に彼らは出場することが決まっていた。各地区で優秀賞を受賞した代表が出場する。二日がかりで八校が演じるのだ。一般公開もされるが、わたしの取材先ではなくて、要するに、もちろん、プライベートで観劇した。
高校生離れした寂寥感のある佇まい、彼の澄んだ肉声がわたしの肌を粟立たせた。六十分があっという間だった。沸騰した血はいつまでも熱を下げなかった。沸き続けて蒸発して昇天すれば本望だ。
だったのだけれど、彼らの舞台は選外だった。むごいことだ。
審査員の見る目がないのではないだろうか。わたしは翌月曜日、演劇部を飛び込み訪問した。職員に案内されて付いていく。先日演劇部が練習をしていた体育館は静かで、体育館を通り過ぎて横の講堂二階の会議室に部員が集合していた。昨日の講評に対する勉強会だった。舞台の熱をそのままに意見が飛び交う。一時間ほど、会議室の後ろで高校生が真剣に議論する様子を見ていた。
昨日主演だった女生徒が、舞台上の視線の誘導を照明係にリクエストした。そうかもしれない、全体としては良かったんだ、と誰かが言ったが、椎名くんは控えめに、全員が少しずつ足りないところがあったってことじゃないのかと意見した。
反省会のあと、一番にわたしに近付いてきた彼は、観ていただいてありがとうございました、椎名といいます、と自己紹介をした。僕に足りないのはリアリティかもしれませんと眉を下げて微笑んで、ポケットから取り出したスマホで、大会後のメッセージボードの写真を拡大して見せてくれた。『かっこよかったです。椎名さんの等身大の役柄も見たかったです。』『今回の脚本には少し現実味がないように感じました。椎名君が今しかできない高校生を演じて下さい。』応援のメッセージが並ぶ。
椎名くんのファンがいる。
食い入るようにわたしは画面に現れるメッセージを次々と読んで、飲み込んで、胃に異物を詰め込んだ。
しばらくして椎名くんが言った。脚本に合わせて王子様感を上げたんですけど、トライアンドエラーってやつですね。僕は今度劇団の入団テストを受けるんです。
今日も眩しい。
彼には夢を見る力があると直感した。いつか大舞台で花咲く夢。椎名くんはまだ、種。夢は繰り返し見るから再現するのだ。無理かもなんて思うと何も叶わない。花が咲く日まで夢を見る力を、わたしが、支えてあげなければ。
——養成所の所属が決まった彼に同棲を持ちかけた。
土になろうと思った。
良い土になろう。
本番よりも練習、練習よりも普段の生活を整えなければならない。バランスのとれた食事、悩みを解き放つ湯舟、泥のように眠れる布団、すでに顕在意識で自己の行くべき道筋を描いている彼に必要なのはそういったものだ。わたしが良質な土壌になって、彼がわたしの中に根を伸ばしていつか地上に芽が出るまで大切に育てよう。
土のわたしは水分や養分をたっぷり含んでいなければいけない。椎名くんは与えれば与える程栄養を吸収する。芸術の世界は厳しいだろう。できることが多ければチャンスも増える。どんどんレッスンを増やすと良い。レッスン代はかかる。心配事があると人の表情は曇るから、心配する出来事があってはいけない。わたしには貯蓄もある。仕事も続けるし。
椎名くんは数多のライバルがいる中で自分を見てもらわないといけない。発声、歌、ダンス、肉体づくり、スキンケア、彼が必要なことは全てやる。何でもやらせたい。彼はきっとすぐに巨匠の目に留まり世界にその名を知らしめるから。
決意から二年、椎名くんはわたしの中にきちんと植わって、今、芽ぐみ始めている。
先週オーディションで勝ち取った配役は、十年前の地方公演で連日立ち見が出たほどの話題作の再演だ。年が明けたら東京へ稽古に出る。
今日も一日おつかれさま、ありがとう、なんて彼はけなげなことを言うけれど、ありがとうはわたしの台詞だ。
根が勢い良くわたしの肉を穿って伸びている。毛細血管の隅々にまで行き渡って内側からわたしを満たす。硬かった小さな鈍い色の種から生えた芽が、まっすぐ太陽に向かって伸びていく。殻を割ったばかりの透き通った藍白色は、光に向かって意思を明らかにしていく。世界に存在を示すように濃く、強く。
わたしは良い土で、下から彼を見上げている。
刮目せよ全世界。わたしが見出した才能の塊に平伏すがいい。
*
わたしは美しいものが好きだった。
人よりもやや熱が過ぎると自覚したのは中学の美術の時間だった。美術の教科書でミケランジェロのピエタ像を見つけたときだ。
椎名くんにいつだったか話したことがある。椎名くんは世界史の授業でミケランジェロを知っていた。イタリア人って名前がかっこいいよね、なんて無邪気さで、ミケランジェロ=ブオナロッティはしばらく彼の流行語となった。
大理石の硬質さや冷たさを感じさせないただ時を止めた人間の姿。聖母子像だから宗教観は学ばなくてはならないのだけれど、ともかく、美しい母が生命力の抜けた青年の柔らかな肉体を膝に抱く姿を、羨ましいと思った。
システィーナ礼拝堂の天井画や祭壇壁画も圧倒されるけれど、やっぱりミケランジェロの彫刻は別の次元で、大理石には彼の情熱が刻まれている。その中でもサンピエトロのピエタ像は群を抜いて美しい。
ダビデ像だって誇らしげな顔をした美少年だけれども、ピエタ像はほかにもあるし晩年の作品の虚無を感じる表情もいいのだけれども、早熟で繊細なサンピエトロのピエタ像がわたしの幸福感にぴたりと合うのだ。
語るわたしに椎名くんは頷いて、深雪さんが好きそうだと微笑んでいた。
椎名くんの笑顔が好きだ。少し首を傾げて背の低いわたしに笑い掛けてくれる優しさが好きだ。椎名くんは美しい。
一週間に一度の稽古は、たちまち週に三回になり、椎名くんは先輩や気難しい演出家に誘われて稽古場に足繁く通い、週末ごとに勉強のために舞台を見て回るようになった。地方との往復が体力の無駄遣いだと即座に判断して東京にアパートを借りた。わたしのところに帰ってくることも、月に一度もできなくなった。
多忙を極める生活でも、椎名くんはわたしに毎日電話を掛けた。日付が変わってすぐ着信が付く。寝ていたら出なくてもいいからね、とわたしの仕事の不規則さもわかっている彼は言った。正座して待つに決まっている。画面に表示される椎名くんの名前に心が躍る。通話はいつも電話の向こうの賑やかさに椎名くんの声を聞き漏らさないように全神経を集中させる。
チケットを送ったからね、とその日椎名くんは言った。深雪さん、観に来て、と。
チケットが郵送で届いた。神棚を購入しておいたのでしばらく祀った。初日公演に合わせて楽屋に花を送った。チケットは一週間全日は取れなくて、それでも最終日のチケットはむしり取った。仕事もあったので地元と東京を往復した。舞台は素晴らしかった。椎名くんの全身全霊を浴びた。涙がとめどなくあふれた。
椎名くんに会うことを許された公演後の短い時間、打ち上げに移動する前に、たくさんの人を紹介された。椎名くんが自分で広げた人脈だ。俳優業から演出家に転じたという四十歳の男性は椎名くんの才能をべた褒めした。照明の効果を使いこなす勘の良さだとか、舞台上でふと一人しかいないのではと思わせる佇まいとか。脚本を真面目に読み込むし理解も深い。ダンスの振り付けだったすぐに覚える。わたしが知っている彼の才能を全部褒めた。
同じ舞台に立つ同年代の俳優も紹介された。みんな見分けがつかないくらい綺麗な顔をしていた。ゆで卵のような顔の女性は、ビビッドなオレンジ色のワンピースを着ていてわたしより年下かもと思っていたが、喋り出すとすぐに同年代か少し上だと分かった。芸能プロダクションに所属してもアルバイトもしていて、あ、でもアパレルでも有名ブランドなんで、コーディネイトの勉強になるっていうか日々進化ですよね。バイト当日オーディション入ったときに休みが取れるかだけ冒険みたいな感じですけど、自己投資が多くてバイトないとやっぱりぃ厳しくッて、しいなクンは深雪さんみたいなご家族にサポートしてもらえて超ラッキーって感じですぅ。彼女はどうしてか、目の前で椎名くんと腕を組んだ。
椎名くんは次の舞台も決まっていて、稽古も始まっていた。稽古場に近いアパートに移る度に家賃が上がっていった。雑誌の取材が立て続けに申し込まれて服飾費も増えていった。東京は賃金も高いのかもしれないが物価も高いから、わたしの分の生活費は不必要な出費になりそうで、わたしはせっせと地元で稼ぎ続けた。椎名くんが一コマ写っていれば雑誌は三冊買って眺めた。雑誌の切り抜きをコラージュしていたたが、一枚でボードに飾れるようになって、壁一面を埋め尽くすまで時間は掛からなかった。CM出演が決まった。テレビ画面の右奥に映った椎名くんが動いていた。録画した。椎名くんからメッセージが届いた。見てくれた、なんてかわいいことを書く。椎名くんが日をまたいで収録や撮影の仕事が入るようになったから、毎日一番最初の電話をするのが難しくなって、代わりにメッセージを送ってくれるようになっていた。忙しくしているだろう彼にあまり長い文章は送らないようにしている。見たよ、かっこよかった。心から書いた。ありがとうと返信があった。
下世話な週刊誌にも椎名くんが載るようになったのは、注目の大きさなのだと思う。有名税というのだろう。その隣に誰が写っていようともわたしは雑誌を三冊買って切り抜きをした。
忙しいから帰って来れなくても仕方ない。売り出し中の若手俳優は正念場なのだ。三カ月に一度くらいは舞台を観にいける。生身の椎名くんがスポットライトを浴びている。初めて舞台で見たときのあどけない高校生だった彼よりずっと輝きも力強さも増していて。
彼はもう芽ではなかった。大輪の花が咲いて、すでに花でもなく、その花弁を翅に代えて蝶となり羽ばたいていったのだ。土は空を見上げる。土には蝶の影が落ちている。摩天楼に吸い込まれるように蝶の形は小さくなって、空に溶けた。
土は何もなくなった空を見上げる。眩しい。
逆光だからだ。眩しくて。
椎名くんが消えた。
全部降板してSNSが消えた。携帯電話もつながらなくなった。アパートにもいなかった。警察に行方不明届をと考えて、彼とのご関係は、と聞かれたら。足が竦んだ。なんて答えたら。
視界が真っ白になった。
*
一日酷使した身体はぼろ雑巾でも、会いたい、早く帰りたい、気持ちが家路を急がせる。仕事から帰ると、何時になっても椎名くんは起きていてわたしを出迎えてくれる。はにかんで、おかえりなさい、深雪さん、そう言って玄関でわたしを抱きしめて甘える。彼の首筋に埋まればクチナシの甘い香りに酔う。
「深雪さん」
懐かしい椎名くんの声、高めで穏やかな心地の良い声に、似ていると思った。
わたしの視界に入ったのは、椎名くんに似ているひとだった。
誰なの。
薄暗い室内の淡い色の壁。ピ、ピ、と高い電子音とわたしの腕から数本伸びた管。白いパイプが薄い布団を留めた横に、憔悴した様子で線の細い男性が丸椅子に腰掛けている。
綺麗な顔をしているが三十歳過ぎだろうか。握られた手はかさかさしていて冷たい。
入り口のドアがスライドした。入ってきたのは白衣だった。医師だろう。ここは病室だ。男性は反射的に立ち上がって、医師を振り返り会釈をした。医師は男性に告げる。ご家族ですか。検査はしましたが全身衰弱で重篤です。食事が絶食に近い摂取量だったようですが。
「一緒に暮らしてはいなかったんです。僕はしばらく東京に。事情があって連絡も止められていて」
そうですか、と医師は軽く頷いた。詳しい状態は後ほど別室で。画像を見ながら説明しますと言い残して去っていった。
男性は力なく丸椅子に座り直した。薄手のグレーのコートの裾がふわりと揺れて、下りた。
「深雪さん、ごめんね。ひとりにした。僕のわがままで。深雪さんは働きすぎだったんだ。無理が祟ったんだよ。仕送りも止めても大丈夫だったんだ、それなのに僕が甘えて。炎上したのも甘えと油断だ。事務所に隔離されて、それで」
ごめん、もうやめる。これからはずっと一緒にいるよ。
震える声が、脆く、崩れた。
そんなことを言うのは誰なんだろう。
椎名くんは役者にならなくちゃ。たくさんのレッスンを頑張っているから、必ず舞台で一番の光を浴びて立つ。心配事は全部わたしが取り除くから、前を向いて、笑って。
仕事を終えて自宅のインターホンを鳴らすと、はにかんだ笑顔が出迎えてくれる。おかえり、深雪さんと柔らかく微笑んで。
わたしに根を下ろすわたしの大切な芽。
男性は慈悲にあふれた瞳で静かにわたしを見下ろした。そのまなざしはつるんとしていて、やすりを掛けた大理石のようだった。
(終)
藍白_ 霙座 @mizoreza
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