第1章:体温と距離感
「先生、深く息を吸って、吐いて。はい、そこ、ちょっと肩が力んでます」
朝倉蓮の声は、まるで風のように穂村の耳を撫でた。
柔らかく、それでいてどこか芯がある。呼吸のリズムさえ、その声に合わせて変わってしまいそうになる。
穂村は、トレーニングマットの上でうつ伏せになりながら、小さくため息をついた。
——自分は、何をしているんだろう。
毎週、仕事帰りにジムに寄るようになって一ヶ月が経つ。
蓮の指導は的確で、距離感も絶妙だった。あくまで「指導者」と「客」という線を越えない。でも、ふとした瞬間に感じる視線や、触れる指先の優しさに、穂村の心は徐々に軋んでいく。
「……先生って、肩のライン、すごく綺麗ですよね」
不意に言われて、心臓が跳ねた。
「え?」
「あ、ごめんなさい。変な意味じゃなくて。姿勢の話。普段から気をつけてるんですね」
蓮は悪びれもせず、いつものようににこりと笑った。その無邪気さが、逆に怖い。
——君は、どこまで分かってて、それを言うんだ。
ジムの照明が白衣の下では見えなかったラインを暴くように、穂村の内面までもさらけ出そうとしていた。
*
「最近、よく眠れてますか?」
ある日、蓮が聞いた。
穂村は一瞬、目を逸らした。
「……なんで、そんなこと聞くんだ」
「先生、顔色。あと、目の下。少しクマが」
じっと見つめられて、言葉が詰まった。
「ちゃんと、休んでください。……俺、先生が倒れたら、嫌です」
その言葉は、優しさの仮面をかぶった毒だった。
穂村の中の、崩してはいけない壁に、ひびが入る音がした。
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