第1章:体温と距離感

「先生、深く息を吸って、吐いて。はい、そこ、ちょっと肩が力んでます」


 朝倉蓮の声は、まるで風のように穂村の耳を撫でた。

 柔らかく、それでいてどこか芯がある。呼吸のリズムさえ、その声に合わせて変わってしまいそうになる。


 穂村は、トレーニングマットの上でうつ伏せになりながら、小さくため息をついた。


 ——自分は、何をしているんだろう。


 毎週、仕事帰りにジムに寄るようになって一ヶ月が経つ。

 蓮の指導は的確で、距離感も絶妙だった。あくまで「指導者」と「客」という線を越えない。でも、ふとした瞬間に感じる視線や、触れる指先の優しさに、穂村の心は徐々に軋んでいく。


「……先生って、肩のライン、すごく綺麗ですよね」


 不意に言われて、心臓が跳ねた。


「え?」


「あ、ごめんなさい。変な意味じゃなくて。姿勢の話。普段から気をつけてるんですね」


 蓮は悪びれもせず、いつものようににこりと笑った。その無邪気さが、逆に怖い。


 ——君は、どこまで分かってて、それを言うんだ。


 ジムの照明が白衣の下では見えなかったラインを暴くように、穂村の内面までもさらけ出そうとしていた。



「最近、よく眠れてますか?」


 ある日、蓮が聞いた。

 穂村は一瞬、目を逸らした。


「……なんで、そんなこと聞くんだ」


「先生、顔色。あと、目の下。少しクマが」


 じっと見つめられて、言葉が詰まった。


「ちゃんと、休んでください。……俺、先生が倒れたら、嫌です」


 その言葉は、優しさの仮面をかぶった毒だった。

 穂村の中の、崩してはいけない壁に、ひびが入る音がした。


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